海賊の子 | ナノ

置いて行ったもの


見慣れた広いエントランスホール──

「もう帰るのか?」

今はもう聞くことのできない筈の懐かしい声が後ろから聞こえて、振り返れば──

「……兄貴」

腕を組んだまま苦笑いしている兄貴が立っていた。

──これは、夢か?

俺は瞬きを繰り返し、自分の目を拳で擦った。そうしている間にも兄貴は俺の元にまで歩み寄って来ていて、気が付けば俺のすぐ隣にまで来ていた。

「翔太が目を覚ましてお前が居なくなったことに気付いたら泣くぞ?」
「……だから今から帰るんだよ」

気が付けばそんな台詞を返していた。
兄貴は鼻で笑って、俺の履きかけのスニーカーを見下ろすなりため息をついた。

「……なぁ、ちょっとだけ付き合えないか?」
「あぁ? ……何にだよ」
「釣りだよ、釣り」

揃えた指先で釣りのジェスチャーをして見せた兄貴が俺に向かって歯を見せながら笑った。何のために俺がこんな朝早くからこの家を出ようとしたのか、まるで理解してませんってツラだった。

「……だから、行かねーって。大体兄貴、今日は貴重な休みなんだろ? 翔太と一緒に過ごしてやれよ。姉さんとも休日が被ってんのってかなり珍しいじゃねーか」
「だからだよ。今日の翔太の面倒はほぼハニーちゃんにお任せするつもりでお前を呼んだんだ」
「はあ?」

兄貴の言ったことの意味がわからず俺が怪訝な顔をして見せると、兄貴はまたもおかしそうに笑って俺の肩に手を置いた。ウザいくらいの爽やかな笑顔は誰に似たのやら──

「つーわけで由竹。ニーチャンとちょっくら海でデートしようぜ」


◆◆◆


──そう言って兄貴が俺を連れて来た場所は、都会から随分離れた小さな孤島だった。

船を停める場所や休める場所があるくらいの設備は整っていたが、それ以外はほとんど何も手を付け加えられていない無人島。

貝殻の散る砂浜は白く眩しく、海辺の水も澄んでいて透明度が高く、美しい植物や珍しい生き物も多く存在している──それが兄貴が所有している唯一の名もなき島だった。

「こんな遠くにまで連れて来て何のつもりだよ」

海パン一枚になった俺たちは浜辺に腰掛けて、遠い水平線を眺めながら話していた。太陽からの暑い日差しはヤシの木の葉が優しく遮ってくれていた。

それでも当時の夏の暑さは尋常じゃなく、俺は暑さに苛立ちを募らせながら隣に座る兄貴の横顔をじっとりと睨みつけた。それでも兄貴は暑さなんか感じてないみたいな涼しげな顔で遠い水平線を眺めていた。

「綺麗だろ」
「は?」
「この島。ハニーのお気に入りなんだ」
「へぇ〜……そう」

またいつもの惚気話でも始める気なのかと思っていた。だが兄貴は自慢の嫁の話を続けようとせず、手元にあった小さな貝殻を拾うなりそれを青空に向けてかざして見せた。眩しそうに目を細める兄貴の横顔は相変わらず楽しそうだ。

「ハニーがよ、老後はここで静かに暮らそうねっていつも楽しそうに言うんだよ」
「あー……また姉さんの惚気話?」
「まあ聞けよ。……でさぁ、その為にもまず俺はこの島周辺の資源調査とかその他諸々の検査とかを頼んだんだ。そしたらよ……」

兄貴はかざしていた貝殻を手のひらのうちに収めて、強く拳に握り込めた。少しだけ険しくなった横顔に思わず息を飲んだ。

「……めちゃくちゃ資源豊富な上に珍しい鉱石がザックザック出てきちゃったワケ」
「ふぅ〜ん……って、はあッ!? 何っじゃそりゃ!?」

波の音と一緒に緩く聞き流していたらとんでもない話が急に出されて目ん玉が飛び出すくらいに驚いた。兄貴も俺の方に顔を向けて苦笑いして見せた。

「いや、俺だってビックリだよ!元々ハニーちゃんのお爺様から受け継いだ島だったからさぁ!俺もハニーちゃんも今までこの島のことろくに調べてなかったし、そもそも翔太が海嫌いになった原因がこの島にあるしでなかなか行けなかったこともあったから──」
「え? ちょ、ちょっと待てよ。翔太って海嫌いなのか?」
「ああ。……あれ? お前知らなかったっけ?」
「いや、だって……翔太って仮面サーファー大好きだろ? フツー海が好きになるもんじゃねーの?」

首を傾げる俺に兄貴はまた苦笑いして見せた。

「あーうん……初めて翔太を海に誘った時は喜んでたぜ? そもそも海のこと何にも知らなかったからな。……けどよ、いざ海辺に足つけてやったらなんか知らねーけど翔太がビックリしたみたいでさぁ……咽び泣いてヤダヤダ言い出した」
「何でだよ」
「さぁな。……“持って行かれちまう”って思ったんじゃねーの? この波打ち際の海水に……」

そう言って兄貴は目を細めると足元にまで打ち寄せてきた弱い波に足先を浸けた。

白く泡立った海水がザザ……と音を立てながら静かに引いていく。そしてまた小さな波はやって来る。繰り返し繰り返し──砂を運んでは持っていく、終わりのない細波。

「だから……この島に翔太を連れてきたとき、せめていい思い出くらいは残しておきたいって思ってさ──」

兄貴はそこで言葉を切ると、俺に向かってはにかんで見せた。

「この島の権利書と財産の一部をタイムカプセルに入れて、翔太と一緒に島のどこかに埋めちまった」

語尾に星がつくような明るい笑顔でそう言って見せた兄貴に俺は言葉を失って硬直した。

──権利書を埋めた? 財産の一部と一緒に?

昔からどこかアホっぽいとは思っていたが、まさかこんなところでまた兄貴のアホっぷりな行動を聞かされるとは思ってもみなかった。

俺は勢いよく身体を起こすと兄貴の前に転がり出た。

「バッッッ……カじゃねーの!?」

少しだけ驚いた顔をして見せた兄貴の両肩を鷲掴んで激しく揺さぶる。ガクガクと前後に揺れる兄貴の顔は相変わらずキョトンとしている。

「そういう大事なモンってフツー金庫とかもっと厳重に管理される場所に隠すだろ!何でタイムカプセル!? 何で隠す物にそれチョイスしたの!?」
「いやっ、だって、もうっ、来ること、ないと、思っ、てた、しっ……!その、とき、持ってた、大事な、ものって、それっ、くらい、だった、からっ……」
「大事だってわかってんなら埋めるなよ!必要になった時どーすんだよッ!」

俺が肩から手を離すと兄貴は苦々しい顔で頭を手で抑えた。

「心配すんなよ、必要になる時なんかそうそうないって……」
「そういう問題じゃねぇだろ……。はぁ〜……兄貴の考えることって本当わけわかんねーわ……」
「何だよ。お前ならわかってくれるってお兄ちゃん思ってたのになー……」
「……どういう意味だよ」

じとりとした目で兄貴を睨めば、兄貴は唇を尖らせながらいじけたように砂浜にのの字を書き始めた。

「……争いのタネなんか、早いとこ隠しちまった方がいいだろ?」
「……?」
「俺が昔お前のプリン食ったあと空のカップ隠したみたいにさ……」
「やっぱアレ兄貴が食ったのかよ!!」
「今更怒んなよ〜……今度高級プリン買ってやるから」
「だからそういう問題じゃねーんだよバカ兄貴!食うのめちゃくちゃ楽しみにしてた当時の幼気な俺に謝れ!」
「何だよ!プリンくらいでプリプリすんなよ!プリンなだけにな!」
「ぶっ飛ばすぞ!」

どんどん話題が逸れていくのに、途絶えない兄貴との会話は当時の俺にとって楽しくて心地良く思えた。兄貴もそう思っていたのか、俺に怒鳴られても兄貴はいつも楽しそうに笑っていて幸せそうだった。俺より呑気な性格の兄貴はいつも突拍子がない。


「今度また海外に行く」


そうだ──あの時も、兄貴は突拍子もなくそんな話題を振ってきたんだった。

「……は? 海外……?」
「ハニーちゃんと一緒に海外出張。翔太はお家でお留守番」
「は? お前……はぁ? また? またそういうことすんのか?」

ふつふつと湧いてくる怒りに自然と拳を作っていた。

「また翔太置いて行くのか? 俺に面倒任せて、仕事ばっかりで……」
「連れて行けないんだよ……」
「何でなんだよ……何で連れて行けないんだよ!翔太が可哀想とか思わねーのかよ兄貴はッ!」
「連れて行けないんだよッ!怖いんだよ俺はッ!」
「こわ、い……?」

うっかり手が出ちまいそうになった途端に大声を上げた兄貴に俺は驚いて身を引いた。温厚な兄貴が大声を上げることなんか滅多になかったから──

「翔太と一緒だ……俺だって海が怖いんだよ……」
「海が怖いって……だって兄貴、いつも船に乗って──」
「海のことをよく知る奴は、海の恐ろしさもよく知っている。けど俺が怖いと思うのは、海だけの話じゃねぇんだ……」
「兄貴……?」

震える兄貴の声に心配になって顔を覗き込んだ。

「ッ……!」

兄貴の顔は、目を背けたくなるほどに惨たらしく変わっていた。皮膚は青紫色に変色し、ところどころ欠けた肉の隙間からは骨が覗いていた。

「死にたくねぇよ、由竹……」
「ヒィッ……」
「まだ死にたくねぇよ……翔太を遺して逝きたくねぇよ……」

波の音が強くなる。さっきまで晴天だった空がどんどん黒く染まっていく。だというのに、空の色を映す海は血のように真っ赤に変わっていた。

「会いてぇよ……翔太に会いてぇよォッ!!なあっ、会わせてくれよ由竹ェェェェ!!」

「うわあ゙ぁぁぁーッ!!」




──由兄ちゃん!!




「……ッ!!」

自分を呼ぶ翔太の声に跳ね起きた。

乱れた呼吸を正す前に辺りを見渡せば、そこは見慣れた薄暗い自分の部屋で──

「由兄ちゃん、大丈夫……?」
「あ……」

すぐ隣に、俺を心配そうに見上げる翔太がいた。

「翔太……ぁ、悪い……俺……起こしちまったか?」
「ううん……」

翔太は首を振って俺の腕を掴んだ。俯きがちな顔には不安の色が見える。

「いま、何時だ……?」
「6時だよ……」
「あー……もう、仕事行く時間だなぁ……」

少しずつ冷静になってきて思わずそう呟くと、翔太は俺の腕を掴む手に力を込めた。“行って欲しくない”って気持ちが全てその手にこもっていた。

「翔太……」
「もう一回寝よう……?」
「だぁめだって……ほら、手ェ離せ」
「…………」

嫌がるだろうと思っていた。だが翔太は意外にも言われた通りにすんなりと手を離した。それでも感情は表にしっかりと出ていて、我慢して手を離したんだってツラを隠そうともしない。翔太は寂しそうな顔で唇を噛んでいた。

「……朝飯にするか」
「……お腹空いてない」
「食べなきゃ元気でないぞ?」
「だって……」
「もうすぐチカパシが迎えに来るぞ? 翔太はパジャマのまま学校行くのか?」
「…………」

優しくそう声を掛けてやると翔太は黙ったまま立ち上がって布団から出た。そのまま立ち上がるとぺたぺたと足音を立てながら部屋から出ていく。顔でも洗いに行ったんだろう。

俺も一息ついて布団から出た。今は布団を畳む時間も惜しい。手早く朝飯を用意してやって、朝の支度を終えたら俺も家を出なくちゃならない。

「はぁ……」

──気が重い。体がだるくて仕方ない。朝飯を作るのも億劫だ。

「由兄ちゃん、靴下がないよ……?」
「え? ……あー……そうだ。昨日洗濯し忘れてたっけ、俺……」

──何やってんだ。あれほど忘れないようにって、昨日メモまで書いて冷蔵庫に貼ってたのに。

頭を抱えながら居間に出れば、空になったビール瓶や空き缶がそこら辺に転がっていた。テーブルの上には食い散らかされたおつまみのカス、丸められたティッシュ、中身のないつまみの袋──あちこちがゴミだらけだった。

「……はあぁ〜……」
「……由兄ちゃん……」
「あー? 何だよ……」
「ぁ……ううん。何でもない……」

翔太は何か言いたげな様子だったが、結局何も言わないまま部屋に戻って行った。その後ろ姿に少しだけ引っ掛かりを覚えたが、俺は重たい頭を抱えたまま台所へと向かった。

「うぇ〜……気分悪……。昨日調子に乗って飲みすぎちまったかなぁ……」

頭に当てていた手を腹に回して冷蔵庫の前に立った。『洗濯物洗う』という、自分の字で書かれたメモが貼られてある。俺は無言でそれを取り去って破いて捨てた。

冷蔵庫の戸を開ければ、昨日尾形が残していったと思われる野菜がいくつか入っていた。

「……白菜と人参なんかでどう朝飯を作れってーのよ……。尾形のヤツ、もっと気を利かせた野菜残していけよ、なッ!」
「ぁっ……」
「……?」

ぶつぶつ不満を呟きながら冷蔵庫の戸を力任せに乱暴に閉じると、翔太の微かな声が聞こえた。顔を向ければ、洋服に着替え終えたらしい翔太が怯えた顔で俺を見上げていた。

「おう、もう着替えたのか」
「……ぅ、ん……」
「あーでも悪い、翔太。今日ちょっと朝飯作ってやれそうにねぇわ。パンだけでもいいか?」
「うん……大丈夫……」
「悪いな〜。ほんっと、ごめんな? ……って、もうこんな時間か……!悪い翔太、由兄ちゃん今から着替えねーといけねぇから……ッ 」
「ぁっ……僕、ご飯いらない……」
「いや、食っとけ!朝飯だけは食え!マジで腹減るから!絶対!」
「でも……」
「オーブンの使い方わかるか? わかるよな? 何回も見てるもんな?」
「ぁっ……ぅ、うん……」
「じゃあ由兄ちゃんの分のと合わせて食パン二枚頼めるか?」
「ぇ、ぁっ……うん……」
「じゃあちょっと頼むな!」

のんびりしてたせいか、マジで時間がない。
俺は食パンの袋を翔太に預けて部屋に戻った。

部屋に入るなり俺は着ていた寝巻きを脱いでその辺に捨てた。そしてその辺に放置されていたシャツを拾ってそれに腕を通す。カラーボックスの上に置いておいたネクタイを取って首に掛けながらズボンを探せば、部屋の隅っこに靴下と一緒に置いてあるのが見えた。それもまとめて拾って急いで着替える。

──チン!

「おっ」

オーブンの鳴る音が台所の方から聞こえた。たった今着替え終えたところの俺にはちょうどいいタイミングだった。

「翔太〜、できたか〜?」
「ぁっ、ぁっ……」
「ん? どうした?」

台所に迎えば、翔太の焦った顔がこっち向いた。オーブンの方へ視線を向けると、薄汚れたガラス面の向こうにうっすらと二切れの食パンが見えた。更に目を凝らすと、中の食パンに焼き目がないことがわかった。

「え? 何で……」
「ぁ、ぁっ……」

オーブンを開けて見るがやはり食パンは焼けていない。一体何故だと思いながら頭を捻って、ようやく俺は気が付いた。

「あ、あー……コンセント抜けてらぁ……」
「ぁっ……ごめんなさい……」
「ははっ、気にすんな翔太。由兄ちゃんがちゃんと確認しなかったのが悪いんだからな……はぁ……」
「ぁっ……も、もいっかい焼く……」
「いいって」
「ぁ……」
「ほらっ、時間ないぞ。早くそれ食って歯ァ磨いて支度支度!」

中にあった食パンを一枚取って翔太に渡し、俺は洗面所へ向かった。

顔を洗い、翔太よりも先に歯を磨く。朝飯は職場の近くにあるコンビニ飯で済ませようと思いながら、ふと腕時計に目を向ける──が、まだ着けていなかったらしく手首には何もない。

──あークソ、今日は一段と段取り悪いな。

ペッと、口の中にある歯磨き粉の泡を吐き出し、近くに置いていたコップの水で口の中をゆすごうとした矢先──チン!と、鳴るオーブンの音が聞こえた。

「へ?」

どうしてまたオーブンの音が?

俺は口の中をゆすぐことも忘れ慌てて台所へと向かった。洗面所から出てすぐに香った焦げ臭さに嫌な予感がした。

「翔太?」
「ぁっ……」

台所を覗けば、青い顔をした翔太がオーブンの前でオロオロとしていた。

「お前何やっ……あ」
「ぁっ、ぁっ……」

視線を横にずらして納得した。薄汚れた小さなオーブンの中には、真っ黒に焦げてしまった食パンが二枚入っていた。

「あーあーあー……何やってんだ、お前……」
「ごめんなさい……」
「食パンもうないしなぁ……。焦げたもの食わせるわけにも……あーでも食わせないままなのも……あ〜、クソッ……」
「ぁっ、ぅ……」

散々悩んだ末に、俺はついに手を出した。
そう、カップ麺にだ。簡単かつ美味い飯を今すぐ用意するにはコレしかない。

「とりあえず今日はコレで我慢な?」
「……ん……」
「ん……? あっ、やべッ……!もうバス間に合わねーじゃん!」
「えっ」
「ちょっ、ちょっ……翔太!とりあえずそれ食ったら戸締りして……ッあーもう、とにかく気を付けて学校行けよ!?」
「あっ、うん……」
「じゃあな!」
「ぁっ……由兄ちゃん、行っ──」

鞄を引っ掴んで慌てて部屋を飛び出してドアに鍵を掛けた。バタバタ廊下を走って団地の長い階段を大急ぎで降りて行く。
時間を確認すべく腕時計を見ようとするが──

「あーッ!腕時計ェェェ!」

家に忘れてきたことに気が付いて足を止めた。取りに戻るかと後ろを振り返るが、もう時間がない。

「……ックソ!」

腕時計は諦めて、俺は仕事に行くべく先を急いだ。


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