海賊の子 | ナノ

消えた警戒心


空気が乾燥し、外の寒さが厳しくなり始めた頃、世間ではもう風邪やインフルエンザが流行り始めていた。

働き盛りの社会人や受験を控えた学生達などの多くは予防のためにマスクを着用しているのだが、元気の有り余る幼い子供達のほとんどは、予防のことなど考えるまでもなくマスクを着用していない。

日々の手洗いうがいの徹底を呼び掛ける学校と家庭。それだけで話が済むのであれば、子供達にとってもさぞ平和的な予防策になるだろう。

──しかし、ここ白石家ではそういう訳にもいかなかった。


◆◆◆


「いぃ〜やあぁぁぁっ!」
「わがままばっか言うなよ翔太〜」

朝から毛布を頭から被って、左右に首を振っている翔太に白石由竹は頭を悩ませていた。せっかく用意した朝食も全く手が付けらていないまま放置され、出来立てだったそれはすっかり冷めてしまっている。かれこれ30分以上翔太は部屋から出てこようとしない。

その理由を白石はよく知っているので声を荒げてまで叱ろうとしないが、ここまで嫌がられると流石に白石の顔も疲れの色が見え始める。嫌々と首を振ってばかりの翔太に、彼は再度機嫌を窺うような声色で優しく語り掛けた。

「予防接種なんか初めてじゃないだろ〜? 今更そんな怖がること〜?」
「……だって、注射でチクッて針刺すもん……」
「そんなの最初だけだから!チクッてするのも最初だけ!本当にあっという間!すぐ終わるって!」
「いやぁっ!」
「翔太!」
「っ……!」
「う……」

白石が思わず声を上げると、ビクッと首を竦ませた翔太が泣きそうな目で見上げる。白石も本音は翔太の嫌がることや怖がることは極力してやりたくないのだが、風邪を引かれて困るのは紛れもなく自分であるし、何よりその時辛い思いをするのは翔太自身だ。

普段は聞き分けの良い甥っ子であるのに、この時ばかりは嫌々と反抗する翔太に白石はどうしたものかと頭を抱えてため息をついた。

「……なぁ翔太。頼むから予防接種受けてくれよ……」
「……でも、注射痛いもん……」
「痛いかもしんねーけど……後で風邪とか引いてもっと苦しい思いするより絶対マシだろ?」
「……由兄ちゃんがずっと一緒にいてくれるなら風邪引いてもいい……」
「もぉ〜!」

この胸にくる発言を無意識に言っているのだからタチが悪い。白石は毛布に包まる翔太の膨れた表情に悶絶しながら再び頭を抱えた。

悩みに悩み抜き、白石はしばらく唸り声を上げると急に翔太に対して合掌し、拝むようにして頭を下げた。

「なぁ頼む、翔太!予防接種受けてくれたら……今日翔太の好きなもの何でも食べさせてやるから!」
「…………」
「ハンバーグにするか? それともナポリタンか? あ、なんなら外食でもいいぞ? カストとかセイザリアとかその辺にあるのでいいなら……」
「鍋パーティー……」
「え?」

ボソリと聞こえた小さな声に、白石は笑顔を固めて聞き返した。翔太は俯かせていた顔を上げて、白石の目を真っ直ぐに見つめ直した。

「鍋パーティーしたい」
「鍋、パーティー……?」

白石はぎこちなく首を傾げ、上げたままにしていた口角をひくつかせた。翔太からの予想斜め上の返答に、彼はすっかり困惑しているようだった。

「え……鍋パーティーって、前に杉元とアシリパちゃんとでやった、あの鍋パーティー?」
「うん……」
「鍋パーティー……いや、ウン、翔太がそれがいいって言うのなら由兄ちゃんも何も言わねーけど……」
「ホント?」
「ああ。それで予防接種受けてくれるのなら大歓迎だぜ!」

なんだ、思ったよりすんなり上手くいきそうだな──そう思って翔太に対し笑顔でサムズアップしかけた白石だっだが──

「じゃあ、今度は尾形お兄ちゃんも一緒ね」

この付け足された一言に、彼は再び笑顔を凍らせることになった。


◆◆◆


「頼む尾形ちゃんッ!一生のお願いだから今夜の鍋パーティーに参加してくれ!!」
「帰れ」

白石の悲痛な願いは尾形の一言によって一刀両断されてしまった。

そのまま閉じられ掛けたドアに白石は慌てて持参したフライパンを挟み込んだ。閉め出しを阻止された尾形は不機嫌そうな表情で彼のしたり顔を睨む。

「……何の真似だ……」
「せめて話くらい聞いてほしくてな……用意して来た甲斐があったぜ」
「なるほど……つまり俺とやり合う気か?」
「違う違う!そういう意味で用意したわけじゃないから!ちょっと一旦置こう? その警棒一旦置こうぜ、尾形ちゃん!」

傍に置いていた警戒棒を片手に持ち構え出した尾形に、白石は血の気の引いた顔を慌てて振って見せた。そして闘う気など毛頭ないという意思を示したところで、白石は急に困ったような表情を浮かべて自分の部屋の方へと顔を振り向かせた。

「実はな……今日、翔太に予防接種を受けてもらう予定だったんだけど……あいつ注射が大嫌いでさ、病院に行きたくないって駄々こねてよ……」
「なるほど……俺には全く関係のない話だな。帰れ」
「だぁから話は最後まで聞いてってば!」

フライパンを警棒の底で押し出そうとする尾形に白石は負けじと声を荒げながら更にフライパンを押し込んだ。

「予防接種受けてくれたら何でも食わせてやるって言ったら翔太が鍋パーティーしたいとか言い出したんだよ!それも尾形ちゃんが一緒じゃなきゃヤダとか言うんだよ、これが!」
「……?」

尾形は訳がわからないと言いたげな様子で怪訝な表情を浮かべて見せた。

「何で俺の名前がそこに出てくるんだ」
「知らねーよ!そんなの俺が一番訊きたいくらいだ!」
「……それでお前、まさか俺の承諾も得ず勝手に約束したんじゃないだろうな?」
「いや……まだ約束までは、してない……」
「…………」

目を泳がせて否定する白石に、尾形は持っていた警戒棒の先端で彼の腹を突いた。呻き声を上げて腹部を抑えた白石がフライパンを手放し、あっという間にドアの隙間からストッパー代わりにされた調理用具がなくなる。

これで尾形はいつでもドアを閉じることが可能になったのだが、彼はその場に蹲る白石を見下ろしたままでドアを閉めようとはしない。尾形は呆れを滲ませた表情で、苦しむ白石を上から見下ろしていた。

「ッ……お腹はやめよう……? 割とデリケートなんだから……」
「小一のガキにいいように扱われて……お前はあいつの召使いか何かか」
「そう言ってもさ……尾形ちゃんだって翔太にお願いされたら言うこと聞いちゃうでしょ?」
「こっちの主導権を握られるくらいなら、風邪でもなんでも勝手に引いて勝手に苦しんでろとしか言えんな」
「えぇ〜……ヤダなにこの人、冷たぁ〜い……。虐待とか育児放棄とかで世間の目が厳しいこのご時世に信じられないこと言ってる〜……」

自身の両腕を抱いて身震いして見せる白石に対し、尾形は片眉を上げて不満げな表情を浮かべて見せた。

「……馬鹿なお前のことだから気付いてないだろうが……」
「おい」
「おそらくあいつは“俺が参加しないことを見込んだ上で”お前にその約束を取り付けさせてるぞ」
「えっ?」

尾形のこの言葉に白石を目を丸くさせて唖然とした。今話したことがどういう意味なのかまるでわかっていない白石に、尾形は持っていた警戒棒を肩に掛けて説明を足してやることにした。

「お前らが前に俺を鍋パーティーに誘った時、俺はお前らに『俺は鍋は食わないから今後は誘わなくていい』と言ったはずだ。つまりあいつは、お前が俺を鍋パーティーに誘ったところで絶対参加しない、必ず断るはずだと見込んでいる。俺との鍋パーティーの約束が取り付けられなかったお前は何の成果もなしに部屋に戻る。結果、あいつは嫌な予防接種を受けずに済むって話だ」
「え……えっ、うそ……」

尾形の筋書きを聞いた白石の顔からサッと血の気が引いていく。口元を手で覆い隠した白石は涙目で首を左右に振った。

「そんなことない……!あの翔太がそんな……そんな計算高くてずる賢いこと思いつく訳ない……!」
「お前は自分の好きなアイドルは絶対うんこなんかしないと思い込むタイプだな……」
「そこまでじゃねーよ!……いや、でもマジで……本当にそうだったら……ガチでヘコむ……」

額を手で押さえ本気で落ち込み項垂れる白石に、尾形は深いため息をついて警戒棒を元の位置に戻した。玄関にあったサンダルを履き、ドアを開けて廊下に出ると蹲る白石の前に佇んだ。

「先に言っておくが……どんなに頼まれても拝み倒されても、俺は鍋パーティーには参加しない」
「あーウン……それはわかってるって……」
「だが俺が交渉のダシに使われたのは気に入らない。俺があいつを引きずってでも病院に連れて行く」
「……へ?」

予想だにしなかった言葉が上から降りかかり、白石は唖然とした顔を上げた。しかし白石が尾形の姿を捉えるよりも前に、彼は白石の横を通り抜けると翔太のいる部屋の中へと入って行ってしまった。

「ちょっ……!」

状況が読めないまま白石は慌てて立ち上がった。まさか翔太に何か良からぬ真似をする気ではないかと、その時の白石は尾形の言動に気が気でなかった。

「おい尾形!翔太に妙な真似すんじゃ──……!」

しかし白石は、尾形に対して放った怒声を何故か突然切った。尾形が部屋に入った後、閉じ掛けたドアを勢いよく開いた白石が見たもの──

「尾形お兄ちゃん!鍋パーティー楽しみだね!」
「……っ」

それは、訪れた尾形に真正面から抱きついて満面の笑みを浮かべて見せる翔太の姿だった。

「僕、注射嫌だけど尾形お兄ちゃんも鍋パーティーできるように頑張るね!帰ったらみんなで鍋パーティーしようね!」
「…………」

すりすりと甘えるように擦り寄る翔太に尾形はしばらく硬直したまま無表情で黙り込んでいたが、彼はやがてその無表情を後ろに立つ白石に向けて見せると、どこか不貞腐れた様子で目を細め、たった一言こう述べた。

「……あんこう鍋で譲歩してやる」
「あの純粋無垢な笑みを見て何でそんな太々しい態度でいられるんだよ!疑ったこと翔太に謝れッ!!」


──結局、尾形を交えた鍋パーティーは開催決定となったのだった。


◆◆◆


翔太にとっては苦痛でしかない予防接種も無事に終わり、白石は「これで一先ずは大丈夫だろう」と一時の安心感に胸を撫で下ろしていた。

未だ涙目でいる翔太と共に第七団地へと向かい自分の部屋に辿り着く白石だったが、何故か彼はドアの前に立つと自分の部屋の鍵を開けるのを躊躇した。いつまで経ってもドアを開けようとしない白石に、隣に立っていた翔太は彼を見上げて不思議そうに首を傾げた。

「由兄ちゃん……?」
「ぐぅ……開けたくねぇ……」
「何で?」
「…………」

その時白石の頭の中では「鍋の準備は俺がする」と言って部屋に篭った尾形の顔が思い浮かんでいた。この部屋を出る前に、尾形は自分好みの具材を入れるために白石に対してそう言い残していたのだ。

つまり、このドアの向こうには尾形がいる。
何を考えているのかさっぱりわからないあの仏頂面で、鍋を用意して待っているのだ。

白石はドアを開けるのが急に恐ろしく感じ、思わず自分の携帯電話をポケットから取り出した。彼は頼もしい助っ人である杉元とアシリパを呼び出そうと思ったが、もしこれで尾形の機嫌を下手に損ねれば今後の自分の身が危うくなる可能性がある。

「……何か知らねーけど仲悪いしなぁ、あの二人……」

今朝尾形に警棒で突かれた腹部に思わず手が伸びる。もうあんな痛い思いをするのは御免だった。それに、余計なことをして悪い展開に話が進むのは白石にとっても都合が悪い。彼は深いため息を吐いて、諦めたようにドアの鍵を開けた。

「た、ただいまぁ〜……」

自分の部屋だと言うに、まるで他人の部屋に入るような腰の低さで白石は玄関に入った。その瞬間、外の寒さで冷たくなっていた頬に暖かな部屋の空気が触れる。それと同時に、白石の鼻腔をくすぐったのは食欲をそそる暖かな香り。無意識のうちにひくついた鼻先が香りの方へと導かれていく。

「早かったな」

一瞬だけ夢心地に浸っていた白石の脳は、その低い男の声によってすぐに覚醒させられた。声が聞こえた方へ顔を向けると、スマートフォンを片手に床に座り込んだ尾形がいた。白石の眉間に思わず皺が寄る。

「……ああうん、まあ……。病院、意外にも混んでなかったからね……」
「尾形お兄ちゃん、ただいま」

病院で痛い思いをしてきたばかりの翔太は、滲み出ていた涙を拭いながら部屋で寛いている尾形に歩み寄って隣に座り込んだ。「おかえり」という返事こそ返さなかったが、尾形は翔太が自分の隣に座り込むまでじっとその様子を見守っていた。

座ってからは二人とも特に何も話そうとしないので、尾形も翔太も静かなままだ。しかし、普段なら楽しそうに話しかけてくるあの翔太がこんなにも大人しくなってしまったことに尾形は少し驚いているようだった。彼は自分の隣に座り込んでいる翔太を物珍しそうに見つめている。

「……そんなに痛かったのか」

今度は尾形の方から珍しく話しかけてきた。翔太は黙ったまま小さく頷いたが、一瞬の間を置いて「でも……」と言葉を続けた。

「尾形お兄ちゃんと鍋パーティーできるから、痛かったけど我慢した……」
「…………」
「先生が泣かなくて偉いねって言ってくれた」
「泣いてるだろ」
「泣いてないもん」

眉間に皺を寄せて否定する翔太の濡れた目元を、尾形は隣からそっと指で触れた。しかし翔太が嫌がるように顔を逸らして意地を張ると、尾形もそれ以上ちょっかいを出そうとはせず「そうか」とだけ呟き手を引っ込ませた。

側からその様子を見ていた白石は、予想よりも代わり映えのない光景に呆気にとられていた。白石はてっきり、甘えたの翔太が尾形に泣きついて、それを尾形が鬱陶しがるものだと思っていた。しかし二人はそんな白石の予想とは全く逆な展開を見せつけてきた。

すげぇ珍しいモン見た気がする──白石はどこか微笑ましい気分に浸りながら、何も言わずに洗面所へと足を運んだ。


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テーマ「人外ファンタジー」
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