海賊の子 | ナノ

広がる輪


寝かせ終えたクッキー生地を広げ、いよいよ型抜きの作業に移る時──翔太は数ある型抜きを前に、真剣な表情で唸り声をあげていた。

「……翔太くん。何にそんな唸ってるの?」

見兼ねた杉元が苦笑いしながら問い掛けると、翔太は難しい問題に直面した時のように唇を尖らせて顔を俯かせた。

「……いっぱいあるから、どれにするか悩む」
「なんだ、そんなことか」

この時のために型抜きを大量に用意していたアシリパは、まさか翔太の好きな型抜きがなかったのではないかと心配していたが、実際の悩みはその真逆だったので安心してつい笑ってしまった。

しかし翔太にとっては笑い事ではないらしく、アシリパや杉元が笑っていても翔太だけは真剣な表情で型抜きを見つめていた。

「由兄ちゃん、クマさんとウサギさんどっちが好きかな……」
「どっちも好きだと思うよ?」
「あいつが翔太の選んだものにケチをつける訳がないだろう」
「……じゃあ、尾形お兄ちゃんは犬さんと猫さんどっちが好きかな……」
「え〜……尾形にもやるのぉ……?」
「露骨に嫌な顔をするな杉元」

尾形にも作ってやる気の翔太に杉元は顔をしかめさせた。杉元は今まで、尾形がクッキーなどの甘いお菓子を口するところを見たことがなかったので、彼が翔太からのクッキーを受け取り拒否などしないか心配だった。というよりも、受け取り拒否をされて傷付く翔太を見るのが嫌だった。

尾形に拒絶され落ち込んだ表情を浮かべる翔太を想像して、杉元は「尾形がもし拒否したらどうしてくれてやろうか」と別のことに考えを巡らせ始めた。唸り声を上げる人数がもう一人増えて、アシリパは呆れのため息を吐く。

「……早くしないと生地が緩くなってしまうぞ。悩むなら一度全種類使ってみて、焼いた後に好きなものを選ぶといい」
「……じゃあ、そうする」

アシリパのアドバイスを聞き入れた翔太は、用意されていた型抜きを全て生地に押し込んだ。ウサギ、クマ、犬、猫、花、ハート、星などと、次々と出来上がっていく型をアシリパは慎重にシートの上に並べていく。型抜きがよほど楽しいのか、さっきまで顔が強張っていた翔太も今では満面の笑みを浮かべている。

そんな翔太の楽しそうな横顔を眺めて微笑んでいたアシリパだったが、全く手を動かさずに頭をひねってばかりいる杉元を見ると、彼女は途端に目つきを鋭くさせた。

「おい杉元!手を休めるな!」
「えっ? あ、ごめん!」

アシリパに叱られた杉元は慌てて意識をクッキー作りに戻した。脳内シュミレーションで尾形の口の中に無理矢理クッキーを詰め込ませていた杉元は、既に型抜きを終え掛けている翔太達に申し訳なさそうな表情を浮かべた。これではもう自分の出る幕がない。

しかし翔太はそんな杉元の落ち込んだ様子にも気付かないまま、呑気な笑顔を浮かべて両手に持った二つの型抜きを彼の前に突き出して見せた。

「杉元お兄ちゃん、星とハートどっちが好き?」
「ハートォ!」
「じゃあ、杉元お兄ちゃんのはハートの型にするね?」
「あっ、ごめん翔太くん。やっぱり星にして。食べるの勿体なさすぎて食べられなくなるかもしれないから」
「お前は子供か!」
「アシリパお姉ちゃんはハートとお花どっちがいい?」
「私はどっちもだ」
「あーっ!アシリパさんズルい!」
「ズルいもんか!なあ、翔太!」
「え? うん」
「え〜!じゃあ俺もハート欲しかった……」
「いつまでも子供みたいなことを言うな。ほら、ナッツを載せるから杉元も手伝え」

不貞腐れて唇を尖らせる杉元にアシリパは用意していたナッツを手渡した。祖母にもらったナッツはアーモンドやクルミがほとんどで、どれも状態の良い綺麗なものばかりだ。

「アシリパさん、このナッツ全部クッキーに載せるの?」
「いや、ナッツ用に私が型抜きした生地があるからそっちに載せてくれ。翔太の分は翔太が好きなように載せるといい」
「了解。じゃあ翔太くん、これ、半分こね」
「わあ……」

杉元に手渡されたナッツを手のひらに載せて、翔太は目を輝かせた。
ナッツを初めてみたのだろうか──杉元は不思議そうに首を傾げて翔太を見つめた。

「翔太くん、ナッツ見たの初めてなの?」
「どんぐりみたい……!」
「翔太くん、アーモンドはどんぐりじゃないよ……」
「まあ、あれもナッツと言えばナッツだがな」
「僕ね、前にどんぐりいっぱい拾ったことあるよ」

翔太はニコニコ笑顔を浮かべながら、指でつまんだアーモンドを花の形のクッキー生地に載せていく。

「でもね、持って帰ったら先生達が汚いから捨てなさいって言うの」
「なんて冷たいことを言うんだ!」
「大人気ないこと言う奴もいるもんだな」
「でもね、でもね、先生達が捨てなさいって言って僕が捨てに行ったらね、キラウシお兄ちゃんが『捨てなくていいよ』って言ってどんぐりをお鍋でぐつぐつ茹でたの」
「えっ? 誰?」

話の中で突然現れた『キラウシお兄ちゃん』の存在に杉元は首を傾げた。一方でアシリパは感心したような様子で「ほう」と話にのめり込む。

「防虫処理をしたのか。賢いな」
「防虫処理?」
「どんぐりの中にはシギゾウムシやハイイロチョッキリの幼虫などがいることがあるから、防虫処理をしておかないと後で中から穴を開けて出てくることがあるんだ」
「えっ、何それ怖い……!」
「うん。キラウシお兄ちゃんもそう言ってた。そしたらね、先生達がそれならいいよって言って、どんぐりお家に持って帰るの許してくれた」
「きっとその男には“そういう知識”がちゃんとあったんだろうな」
「……翔太くん、そのキラウシお兄ちゃんって誰なの?」

“そういう知識”がない自分と比べられているような気がした杉元は、もやもやした気持ちをなるべく顔に出さないように努めながら翔太に尋ねてみた。尋ねられた翔太は懐かしそうに目を細めて、花型のクッキーを見下ろして笑った。

「キラウシお兄ちゃんはねぇ、僕のお家のお庭に時々遊びに来る人」
「えっ……不審者……?」
「オヤカタさんって人と一緒にね、お庭の木とかお花を手入れしてたよ」
「なんだ、庭師か」
「でも変わった名前だよね、キラウシって。ひょっとして外国人?」
「ううん。本当の名前はねぇ、吉良宇志って言うの」
「タカユキ?」
「うん。読み方はタカユキなのにね、漢字で書くとウシになるんだって。だからキラウシって、いつもオヤカタさんに呼ばれてた」
「へぇ〜。面白いね」
「………………」
「……アシリパさん?」

話の途中で突然黙り込んだアシリパに対し、杉元は不思議そうに顔を覗き込んだ。彼女はなにかを考え込む素振りを見せながら頭を捻り、気難しげな唸り声をあげた。

「どうかした?」
「……何だろうな。何かが引っかかってるんだが……」
「何が?」
「何だったか……よく思い出せない」
「えー? 気になるなぁ」
「アシリパお姉ちゃん、ナッツ載せたよ」
「ああ、そうか。じゃあ焼くとしようか」

ぼんやりした記憶ながらもなんとか思い出そうとしていたアシリパだったが、その意識は翔太によって完全に打ち消された。

いくつかのナッツが載せられたクッキー生地は、鉄板の上にあるシートに綺麗に並べられてある。アシリパはそれを鉄板ごと熱々のオーブンの中に入れて、レシピ通りに時間を合わせた。スイッチを入れれば後は待つだけだ。

「あとどれくらいしたら出来るの?」

まだオーブンに入れたばかりだと言うのに、翔太は既に待ちきれないといった様子でオーブンの中を見ようと飛び跳ねている。何かあっては危ないので、杉元は飛び跳ねる翔太を後ろから抱き上げてやった。

「焼き上がるまでまだ少し時間がかかる。それまで大人しく待とう」

アシリパに言われても尚翔太はソワソワと落ち着かない様子である。
オーブンの中でジリジリと焼かれているクッキーを見つめながら、翔太は出来上がりのクッキーを想像して微笑んだ。


◆◆◆


夕刻──白石由竹は新しい仕事先で交通誘導の研修を受けていた。道路の片道を塞ぐ形で工事を進めている最中、白石は懸命に誘導棒を振る。無線の使い方から誘導棒の使い方まで、触ってみるまで知りもしなかったことを全て教え込まれ覚えるだけでも一苦労だ。

「はぁ〜……帰りてぇ〜……」

こんな辛いだけの肉体労働は性に合わないと思いつつも、こうでもしなければ翔太を自分の稼いだ金だけでは育てきれないと思い直し、表情を引き締めてかぶりを振る。周りを見てみれば皆、自分と同い年くらいか、あるいはそれ以上の年齢の人間もいる。おそらくこの中にも、自分と同じように働いて稼いだ金で家族を養う人間がいるのだ。

少し前までは、自分一人が生きていくのだけでやっとだった生活。事あるごとに親族に後ろ指をさされ、まともな生活など二度と送れないだろうと言われてきた。そんな、責任感なんか何一つ必要ない独身生活に終止符を打ったのが、翔太の存在だった。

甘えん坊で、少し泣き虫で、優しい性格の可愛い甥っ子。両親を同時に喪って、悲しみに暮れている暇もなく自分の元にやってきた甥っ子。

『翔太を渡せ』
『一生遊んで暮らせるだけの金ならやる』
『お前だって将来的には結婚するんだろう』
『女を作る時いつか邪魔に思うぞ』
『前科持ちのお前には無理だ』

口を揃えて同じような台詞を吐く親族達に、白石は心底失望した。まるで“お前のためを思って言ってやっている”とでも言うような態度だった。白石はそんな彼らを見返してやりたかった。翔太を立派に育てて、独り立ちできるようになるまで面倒を見るのだと固く心に誓ったのだ。

「……よし。やる気出た」

翔太の笑顔を思い出し、白石はようやくいつものような明るい笑顔を取り戻した。暗くなり始めた空を見上げて、現場の仕事に戻る。


「由兄ちゃぁ〜ん!」
「……!」

気怠く感じられた仕事に精を出すよう誘導棒を景気良く振るっていると、不意に背後から翔太の声が聞こえて彼は勢いよく後ろを振り返った。

「由兄ちゃぁん!」
「翔太……!」

見れば、歩道の奥から翔太が何かの袋を持ちながら片手を振り、こちらへと駆け寄って来ていた。その後ろには杉元やアシリパもいる。みんなして笑顔で白石の元まで向かっていた。

白石は何故翔太達がここまでやって来たのかわからなかったが、一生懸命になって駆け寄ってくる翔太の様子にハッとなって彼は慌て気味に誘導棒を振るった。

「翔太〜!走ると転ぶぞ〜!」
「あのねぇ〜!アシリパお姉ちゃんと杉元お兄ちゃんとクッキー作っ──」
「うおっ……」
「ぁっ!」
「翔太!」

丁度、翔太が走っている道の途中──明かりを灯した居酒屋から、一人の男が出入り口から出て来た。暖簾をくぐり抜けた先で、男は走っていた翔太とタイミング悪くぶつかってしまった。

翔太はその場に尻餅をつき、男は僅かによろめいた。その時、男の足が何かを踏みしめた。パキャ、と鳴った不可解な音に、翔太の目が見開かれる。

「翔太くん!」
「翔太!」

慌てた様子で駆け寄ってきた杉元達だったが、翔太は名前を呼ばれても返事を返さなかった。否、返せなかったと言うべきかもしれない。翔太は、男の足元にある粉々のクッキーを見つめて、呆然としていた。

「翔太!大丈夫か!?」
「ぁ……」

最後に駆けつけて来た白石に、翔太はようやく自分の顔を上げた。心配そうに自分を見下ろす白石を見て、翔太は急いでクッキーの袋を回収すると自分の後ろに隠した。急に何かを隠した素振りを見せるなり無言になった翔太に、白石は怪訝な表情を浮かべた。

「翔太……?」
「…………」
「……今、何隠した?」
「何も、ないよ……」

優しい声で問われて、みるみるうちに翔太の目に涙が浮かぶ。背後に立っている杉元もアシリパも、二人共悲痛な表情で翔太達を見下ろしていた。白石は涙声で「何も隠していない」と話す翔太の頭を撫でてやった。

「由兄ちゃんに見せてくれないのか?」
「……だって……」
「ん?」
「っ……くっきぃ……由兄ちゃんに、ちゃんとしたの……っ、見せたかったのにぃ……!」

翔太はポロポロと涙を零しながら、後ろに隠したクッキーの袋を白石の前に差し出した。差し出された袋の中のクッキーは見るも無残な状態で、元がどんな形だったのかも判別できないほど粉々になっていた。

「せっかく、アシリパお姉ちゃんとっ……杉元お兄ちゃん……一緒、作った、のにっ……ひっく……!」
「おー!美味そうじゃん!大丈夫大丈夫!まだ食べられるって!」
「ぐしゃぐしゃになっちゃったぁぁ……!」
「あーほらもう、泣くなって。由兄ちゃんがちゃんと全部食うからさ」
「ふえぇ……!」

堪え切れずに泣き出した翔太を抱き上げて、白石はその小さな背中をポンポンと叩きながらあやしてやった。しかし穏やかな口調で語りかける一方で、白石は翔太に見えない角度から男の方へと鋭い視線を向けた。

俺の翔太をよくも泣かせやがったなこのクソ野郎──形相で怒りをぶつける白石に、男の額から滝のような汗が流れ落ちる。しかし男の顔を視認した瞬間、白石は自分の目を疑った。

「え……?」

白石の脳裏を過ぎったのは、夏休み前に行われた交通安全教室で出会った男の顔。翔太とヒーポくんとのツーショットを撮らせてくれた優しい警察官。

忘れもしない、第七駅前交番勤務──門倉巡査部長であった。

「ッ……あんたあの時の警官かよ!」
「待て。落ち着け。まずは話し合おう」
「ふぇぇ……ひっく……」
「こんな状況で落ち着いてられっか!」
「……あっ、あー!誰かと思えば第七駅前の……!」
「杉元、お前も知ってる奴なのか」
「えっ? 杉元? ……あっ、お前まさかあの“不死身の杉元”か……?」

杉元の名を聞いて門倉の顔からますます血の気が引いていく。二人の男に睨まれて、門倉は萎縮しつつ居酒屋の戸に背中を預けた。

「参ったなおい……。白石松栄のお坊ちゃんに不死身の杉元がお揃いとはな……。今日はいつも以上にとびっきりのアンラッキーデーだ……」

自分の凶運に嘆きながらこの先どうするか考えあぐねている時、不意に門倉の後ろにあった引き戸が勢いよく引かれた。

「うおっ!」

背中を預けていた壁がなくなって後ろに倒れこんだ門倉は、後頭部と腰をもろに床にぶつけて痛みに悶え転がった。

「ぐお〜……っ!」
「何やってんだ、飲んだくれジジイ」

ゴロゴロと床の上を転がる門倉を見下ろして、呆れた声でそう言葉を投げ掛けるのは作務衣姿の一人の男。バンダナキャップの下から覗く双眸はどこか冷ややかである。そしてその視線は、店先にいた白石達にも向けられた。

「あ? 何だ? 妙に騒がしいかと思えば……あんたらお客さんか?」
「いや、違うけど」
「そうか。だったら場所移してくれ。ここで騒がれると客が逃げちまうからな。……おら、いつまでも寝転がってんな飲んだくれジジイ」

男は床に寝転がる門倉を容赦なく足で転がし、店の外に蹴り出した。相手が警察官であることを知らないのか、男はえらく強気な態度だ。

しかし白石は男の人相をじっと見つめ、何かを思い出そうとするように目を細めた。どこかで見たことあるような──そんな気がしたのは白石だけではなかったようで、視線に気づいた男の方も白石の顔を見てグッと目を細ませた。

「……あれ? あんた、どっかで見たことあるような……」
「奇遇だな……俺もあんたのことどっかで見たことあるような気がして……」

二人がうんうんと唸り声を出しながら首を傾げていると、いつの間にか泣き止んだらしい翔太が白石の肩から後ろを振り向いた。

「あっ……」
「……!」

後ろを振り返った翔太の泣き腫らした顔を見て、男はあっと声を上げると翔太の方へ勢いよく指をさした。

「翔太坊ちゃん!」

その声に、翔太の涙に潤んだ瞳がゆっくりと見開かれていった。

「……キラウシ、お兄ちゃん……?」

小さな声で囁かれたその名前に、白石もようやく男のことを思い出した。

彼こそが、かつて自分以外に翔太の面倒をよく見てくれていた人物なのだと──


◆◆◆


「はい、翔太坊ちゃん」
「わあぁ……」

翔太は目の前に出された煮卵を見て、さっきまで泣き腫らしていた目をきらきらと輝かせた。

その様子を見て笑顔を浮かべるのは、カウンター越しに立つバンダナキャップの男──キラウシこと吉良宇志だった。

彼はかつて翔太の両親に雇われていた庭師の弟子で、翔太の元を離れてからはこの居酒屋で働いていたらしい。キラウシによって店内に招き入れられた杉元達は、お通しで出されるような枝豆を食べながら彼と翔太との思い出を聞いていた。

しかし白石だけはまだ仕事が残っているのでここにはいない。翔太は外にいる白石が気になるのか、煮卵を前にしてもどこかソワソワとしていて落ち着きがなく、頻繁に居酒屋の出入り口を見ていた。

「翔太坊ちゃん、早く食べないと冷めちまうぞ?」
「でも、由兄ちゃんにも半分こしたい……」
「相変わらず由兄ちゃんラブだなぁ、翔太坊ちゃんは。その様子なら、あいつもちゃんと翔太坊ちゃんの面倒見てやれてんだろうな」
「あのー……」

おかしそうに笑うキラウシに対し、控えめな声を上げながら挙がる手。キラウシの目がギロリと向いた先には、冷や汗を流す門倉の姿があった。

「俺もう清算済んでるし、帰ってもいい?」
「何言ってんだ。あんたにはまだ払ってもらうもんがあるだろ」
「え? なに? ちゃんと払っただろ」
「あるだろ。坊ちゃん達の飯代だ」
「えっ……あっ……えー……」

一瞬言われた意味がわからなかった門倉だったが、彼はすぐに先ほどの店先での出来事を思い出し納得しかけた。が、やはりどこか腑に落ちない部分があり少々顔を歪めてみせる。

「なんか文句あるのか」
「いやぁ、ないない。あれはおじさんが悪かったから……。職失うくらいならこれくらい可愛いもんよ」
「おじさん、ヒーポくんのお巡りさんだよね?」
「えっ……」

突然話題を振られた門倉は何事かと翔太を見た。何を考えているのかわからないような無垢な瞳でこちらを見つめる翔太に、門倉のこめかみから冷や汗がまた一筋流れ落ちる。

「あー……翔太くん。おじさんはヒーポくんのお巡りさんじゃない。名前がちゃんとあってだな……まあ、覚えなくてもいいんだが……一応門倉って名前があるんだよ」
「門倉さん?」
「門倉さんでもおじさんでもなんでもいい。好きに呼んでもらってもいいから……今日のことは鯉登警部補にだけは内緒にしててくれ」
「……っあ、音之進お兄ちゃん?」
「そうそう。下手するとおじさんのクビが飛んじゃうから」
「なんで……? おじさん、死んじゃうの……?」
「うん。死んじゃう死んじゃ…ゔッ」
「坊ちゃんに変な嘘ついてんじゃねーよ」

キラウシによって頭を叩かれた門倉は不貞腐れた顔で彼をにらんだ。

「お前なあ……その内暴行罪でパクるぞ」
「ラジオした奴にそんな真似出来るのか?」
「ちょっ……キラウシお前、誤解招くような事言うな。杉元がいるんだから隠語使っても意味ないんだよ」
「杉元、あいつの言うラジオって何だ?」
「無銭飲食って事だよ、アシリパさん」
「うわ……」
「違うって!誤解しないでお嬢ちゃん!あの日は酔っ払ってて、現金置いたと思ったらクレジットカード置いてきただけで……実質無銭飲食じゃないんだよ!」
「別に聞いてないし、言い訳臭いぞ」
「杉元お兄ちゃん、“むせんいんしょく”ってなに?」
「お店でご飯食べたのにお金を出さないでお店を出たことだよ」
「やめてやめて!ホントにおじさんクビ切られちゃうから!」

慌てて門倉は否定するが、翔太を除く全員が彼を冷めた目で見ている。翔太は新しい言葉を覚えようとしているのか、ぶつぶつと無銭飲食という言葉を一人で呟いていた。

「ちゃんと謝罪したし、金も払ったし、示談も成立したはずなのに何でそう根に持つんだお前は……」
「そうだな……以前あんたが連れてきた上司と部下達に散々騒がれて、店の売り上げが落ちたことも理由に絡んでるかもな……」
「おいおい、そいつはただのこじつけじゃねーか」
「ここは警官御用達の居酒屋じゃねーんだよ。もっとまともな客を連れて来いよ」
「何だよ。治安良くなるからいいだろ?」
「バカ言え。前より悪くなってんだよ。警察官がよく来るって変な噂が広まって一般人ほとんど入ってこなくなっちまっただろ」
「俺が売り上げに貢献してんだろう」
「飲んだくれジジイひとりの飲み代なんかたかが知れてんだ。足りねぇ、足りねぇ」

キラウシは嘆くように言って、牛スジ煮込みを翔太の前に出してやった。おかずが一品増えて、翔太はまたきらきらと目を輝かせた。

「おい、頼んでもないのに出すなよ」
「鯉登警部補サンってのは今度いつ来るのかねぇ」
「翔太くん、好きなもの食べてもいいよ〜」
「じゃあこれ、おじさんと半分こ……」
「だったら門倉の飯代も含めて請求だな」
「お前ホントいい性格してんな〜。案外警官に向いてるぞ」

翔太はもらった牛スジ煮込みを取り皿に分けると、半分を門倉に渡し、もう半分はアシリパと杉元の前に出した。ひたすら枝豆を食べていた二人は驚いた表情で煮込みと翔太の顔を見比べた。

「こっちが、アシリパお姉ちゃんと杉元お兄ちゃんの分ね」
「えっ? じゃあ、翔太くんのは……?」
「だって僕、まだ玉子あるもん」
「なんだ坊ちゃん、まだ食べてなかったのか」
「由兄ちゃんと半分こするの」
「翔太坊ちゃんは半分こ好きだねぇ。前もよく俺に高級菓子を半分こしてくれたっけな」
「あんたはそんな前から翔太くんと一緒にいたのか?」

疑問に思った杉元が思わず問うと、キラウシは「そうだなぁ」と零し、天を仰いで懐かしそうに笑った。

「何年前の話だったかな……。翔太坊ちゃんがまだ3歳……いや、4歳くらいの頃だったかな……。あの頃の坊ちゃんはホントに神出鬼没で……庭の手入れをしてる最中によく草陰から突然出てくるから、剪定バサミを持ってると危なっかしくて仕方なかった」
「翔太くん、そんな前から危ないことしてたの……?」
「だって由兄ちゃんと隠れんぼしてたもん……」
「翔太は意外とわんぱくだったんだな」
「いいねぇ、子供は風の子……。俺がガキの頃は実家が野焼きで全焼して、遊ぶどころじゃなかったからなぁ」
「しみじみと気の重くなるような話を出すな」
「場の空気を読めよ、おっさん」
「え〜……俺への当たりキツくない?」

そう言いながら唇を尖らせる門倉を無視して、キラウシは再び翔太の方へと視線を向ける。

「前まであんなに小さかったのに、もうここまで大きくなって……」
「キラウシお兄ちゃん、僕ね、もう小学一年生なんだよ」
「へぇ〜!じゃあ今は学校に行ってみんなとお勉強か」
「うん!チカパシくんとね、学校に行って休み時間に遊ぶの。あとね、僕の新しい先生の名前がね、江渡貝先生って言ってね、すごく優しい先生なんだよ」
「そうか……今度の先生はまともな先生なんだな」
「キラウシお兄ちゃんも今度学校に来てね」
「いや坊ちゃん、そいつは無理な話だ」
「なんでぇ……?」

ショックを受けたような顔を見せる翔太にキラウシは失笑しかけたが、彼はなんとか笑いを堪えて翔太の頭を優しく撫でてやった。

「俺はここで働いてるし、そもそも翔太坊ちゃんが通う学校ってのは坊ちゃんと同い年くらいの子供が行くところだ。だから大人は行けないんだ」
「オヤカタさんもダメなの……?」
「親方もダメだ。今は別のところで庭師やってるからな……」
「……そうなんだ……」

しゅんと項垂れる翔太を見兼ね、杉元が慰めようと横から手を伸ばしかけるが──

「でも俺はいつもここにいるから、翔太坊ちゃんが会いたいって思う時はいつでもここに来たらいい」
「えっ……本当?」

キラウシの言葉にすぐに上がった翔太の顔を見て、杉元は伸ばしかけた手を引っ込ませた。キラウシ以外何も見えていないその笑顔に、杉元の胸が切なく痛んだ。

二人のその様子に杉元は、由竹と翔太との普段のやり取りを思い出した。決して自分には踏み込めない二人だけの領域の中で、ギリギリ手の届かない位置で、いつも楽しそうに仲睦まじく会話をしている。杉元にとってそれは決して許せないことではなく、ただ、単純に彼らのことを羨ましく感じてしまったのだ。

「……杉元?」
「えっ」

声を掛けられ、杉元がハッとなって視線を横に移す。そこには、不思議そうにこちを見上げるアシリパの姿があった。さっきから黙ったまま物憂げな表情を浮かべる彼に、アシリパは心配して声を掛けたようだった。

「大丈夫か? ぼーっとしていたが……」
「あー……平気平気。最近寝不足でさ……」
「夜更かしでもしてるのか? 夜はちゃんと寝ないとダメだぞ」
「うん。そうだね……今日は早く寝ようかな」

杉元はそう零し、視線を再び翔太に移した。

「じゃあ僕、この玉子由兄ちゃんのところに持って行く!」
「パックに詰めてやるから皿ごと持ってでようとしないでください、翔太坊ちゃん」
「お? もう帰る流れ? はい、じゃあ解散解散」
「消費税込みで3300円な」
「おい、適当抜かしてぼったくってんじゃねーぞ」

──やっぱり翔太くんにとっての一番は白石なんだな。

杉元は翔太の横顔を眺めながらぼんやりそう思った。切ない気持ちに変わりはないが、それでもこれから先のことを思えばチャンスがないわけではない。

「杉元お兄ちゃん、アシリパお姉ちゃん、早く早く!」

煮卵が詰められたパックを持って呼び込む翔太の笑顔に、杉元とアシリパは穏やかな笑みを浮かべた。

過去には戻れないが、これから先の思い出をみんなで作っていけばいい。翔太の成長をみんなで見守っていけばいい。

まだ一年と経たないこの関係を、少しずつ、ゆっくりと築いていければ、それでいい。


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