幸福争奪戦
「翔太に会いたい」
「いけません」
「…………」
警察署内の小規模な休憩室──
歯を食いしばり拳を震わせる鯉登に、月島は今日で何度目かもわからない同じ台詞を真顔で言ってのけた。二人はこの不毛なやり取りを、かれこれ一時間程続けている。
月島は空いた時間で簡単な書類整理をするためにここに訪れたのだが、そこで運悪く出くわした鯉登に捕まってしまったのだ。逃げそびれた月島に、先ほどから鯉登は愚痴や不満しか話さない。否、愚痴というよりも、妄想に似た願望だ。
鯉登は翔太のブロマイドをそれはそれは大切そうに持ち、さっきからずっとそれと見つめ合っている。その横顔はまるで遠距離の恋人を想う乙女であるかのようだ。月島は軽い頭痛を感じて頭を抱えた。
「何故翔太は私のことを忘れてしまったんだ……。昔はあんなに懐いていたというのに……」
「……仕方ないでしょう。時がそうさせてしまったんです」
「うぅ……翔太……」
鯉登は一人頭の中で思い描いた。翔太が自分に向かって「にぃに」と呼びかけ微笑む様を。それは鯉登にとってこれ以上ないくらいの幸せな夢だった。しかしそれが夢であると自覚する度に、鯉登は深く傷付き涙を流した。
「翔太に会いたい」
「いけません」
息を吐くようにしてまた同じ台詞を言う鯉登に、月島はまるでそう返事を返すようプログラムされた機械のように淡々と言ってのけた。鯉登は深くため息をついた。
「お前はそれしか言えんのか」
「お言葉ですが鯉登警部補、翔太くんは警部補のことを怖がっております」
「それがわからんのだ!何故怖がる!? 私は翔太のにぃにだぞ!?」
「まずはその、好かれているのが当たり前といった意識から変えるべきだと思います」
「キエェェェェェ!!」
「あとその叫びもやめましょう。嫌われる要因の一つでありますから」
月島は最後のチェックを終えて書類をまとめた。そして向かいの机で撃沈している上司を残し、黙って席を立つ。その物音に気付いた鯉登が机に伏せていた頭を上げ、慌てて席を立った。部屋を出ようとする月島を追い、腕を取る。
「待て月島!私の悩みにちゃんと向き合え!」
「仕事がありますので……」
「またお前はそう言って逃げるのか!なんならお前の交番へ視察に行く回数を増やしてやってもいいんだぞ!?」
「脅迫のおつもりですか?」
「そうだ……お前の交番へ行く回数さえ増やせば、翔太とも会える確率が上がるではないか……。何故今までそのことに気づかなかったんだ私は……」
「動機が不純過ぎますよ、鯉登警部補」
「黙れ!とにかく私は今すぐ翔太に会いたいんだッ!」
「重症ですね……。公安に睨まれる前に何とかされた方が……」
「鯉登警部補、ちょっと宜しいですか?」
いつまでも押し問答を続ける二人の元に突如割り込んできた第三者の声。二人が顔を向けると、そこには和かな笑顔を見せる宇佐美巡査長が立っていた。
月島は宇佐美の登場に僅かばかりの驚きを見せたが、鯉登の方はどこか忌々しげな顔で眉根を寄せている。それもそのはずで、宇佐美と鯉登は同じ鶴見警部の熱狂的な信者である。自身の推しである鶴見に注目されたいと願う二人は、お互いに相手をライバル視していた。第七署では二人のことを“鶴見の同担拒否過激派”と呼ぶ者もいる。
──いかんな。ここで抜け出さなければいよいよ交番に戻れなくなる。
「それでは私は失礼しますので……」
月島は二人の面倒事に巻き込まれる前に足早くその場から退散した。鯉登ももう彼を引き留めるような真似はしなかった。必然的に宇佐美と二人きりとなり、鯉登の不快感が急上昇する。彼は不機嫌そうな顔で宇佐美を睨んだ。
「……私に何の用だ」
用件を尋ねるその声すら不機嫌である。宇佐美はそんな彼に相反するように歪な笑みを浮かべた。
「鯉登警部補にとって、とぉ〜……ってもイイお話があるんですよ」
「……!」
ピラッ、と提示された一枚の写真。そこには、隠し撮りされたと思わしき翔太の姿が映っていた。鯉登はすぐにその写真を宇佐美の手から奪い取り、食い入るように見つめた。興奮を隠しきれていない鯉登の様子に宇佐美は益々笑みを深める。
「翔太クンのこと、聞きたいですよねぇ?」
「……貴様、何を企んでいる……」
震える手で写真を握り、警戒心を孕ませた目でこちらを睨め上げる鯉登に宇佐美は片手を挙げて手のひらを広げて見せた。
「これだけ払って貰えるなら教えて差し上げますよ」
ニコリと笑う宇佐美に、鯉登は自分のポケットマネーを躊躇なく差し出した。
◆◆◆
「ごめーん、待った?」
「ううん、大丈夫。早く行こっ」
「うんっ」
少女達の明るい声が横を通り過ぎていく。
自分の背後から遠ざかっていく笑い声を聞き流し、尾形は腕時計に向けていた視線を前に向けた。
そこには、広場を埋め尽くすほどに溢れた人混みがあった。無意識のうちに尾形の眉間に皺が寄る。
日曜日のレジャー施設ほど老若男女で溢れ返る場所はない。それはここ、第七水族館でも言えることだ。
この水族館での目玉と言えば、イルカショーであったりシャチのショーであったり、水族館ではありきたりなショーばかりである。マスコットキャラクターでさえ、他所でもよく見るようなデザインのラッコのキャラクターである。だと言うのにここまで人気があるのは何故なのだろうか。尾形は手にあるパンフレットを見下ろして渋い顔を浮かべた。
「尾形お兄ちゃん」
そんな時に自分の名前を呼ばれて、尾形は曇らせていた表情をすぐに元の無表情に戻して後ろを振り返った。白いタイルで装飾された公衆トイレから、セーラー服を着た翔太が走って来るのが見えた。何度見ても見慣れないその姿に尾形は頭を抱える。
ネイビーのジャケットに白シャツ、黒のスラックスという簡単かつ目立たない装いで訪れた尾形と、まるで絵に描いたような典型的なマリンコーデの翔太が並ぶとそのちぐはぐさは異様なものに感じられた。尾形はこの格好で翔太を貸した白石のファッションセンスを密かに呪った。しかし今思えば、強引に近いやり方で翔太を誘い出した自分に対する報復措置とも受け取れる。
──我ながらかなり汚い手を使ったからな。
尾形は、翔太との二人きりの外出を猛反対する白石の怒り狂った顔を思い出してため息をついた。今まで散々面倒を見てきてやったことを理由に上げれば、白石も悔しそうに顔を歪めながらも最後は渋々二人きりの外出を許可した。
流石の尾形も、白石がまさかこんな形で自分に恥をかかせにくるとは思わなかった。
「尾形お兄ちゃん、早く行こう?」
そう言って手を握ってくる翔太を尾形は無表情で見下ろした。
似合わないわけじゃない──見て呉れはたしかに可愛らしいのだが、その可愛らしさが仇となり、少々強面の尾形と並ぶとどうにも奇妙に見えてしまうのだ。どこからどう見ても親子には見えない。事実親子ではないのだが、これではあまりにも尾形が不審者に見えてしまう。尾形は白石の余計な対抗心に舌打ちを漏らした。
「……さっと見て回って、さっと帰るぞ」
「イルカさんのショー見ようね」
「濡れるのは御免だ。俺は屋内から出ないからな」
「え〜」
「どうしても見たけりゃ今度はあいつと行けばいいだろ」
「じゃあ由兄ちゃんも一緒に誘ってくれれば良かったのに……」
「もういいから早く来い」
「あっ……」
少し不貞腐れた顔をして見せた翔太の手を掴むと、尾形は強引に彼を水族館の中へと連れ込んだ。予め買っておいたチケットを係員に渡して、足早に人混みを掻き分けて行く。次々と通り過ぎていく展示物を振り返り、翔太は悲しそうな顔で尾形の手を引いた。
「尾形お兄ちゃん、僕もっとゆっくり見たい……」
「後で嫌でもゆっくり見ることができるから我慢しろ」
「……?」
振り返りもせずそうぶっきらぼうに話す尾形に翔太は首を傾げた。
ここに来てからと言うもの、尾形の機嫌は常に悪そうである。翔太は初め、尾形から水族館に誘われた時はそれはそれは嬉しそうにはしゃいでいたが、ここまで連れて来てもらうまでの間の尾形は終始仏頂面で全然楽しそうには見えなかった。翔太は何か自分が悪いことでもしてしまったのではないかと不安に駆られた。
「……尾形お兄ちゃん」
「なんだ」
「……怒ってるの?」
よく聞かねば周りの人間の話し声に紛れてしまいそうな、消え入りそうな声で翔太は尋ねた。尾形は足を止め、翔太の方へと顔を振り向かせた。
「……怒ってない」
「…………」
「……何だその顔は」
「だって……尾形お兄ちゃん、イライラしてる……」
「…………」
「僕と水族館行くの、ホントは嫌だったの……?」
俯いたまま尋ねる翔太に尾形は何も言葉を返せなかった。お互いに立ち尽くしたまま沈黙を続ける二人の横を人々が通り過ぎていく。その中には楽しそうに会話しながら歩く親子連れの姿もあった。満面の笑みを浮かべて父親の手を引く子供と、俯いた状態で不安そうにしている翔太を見比べて、尾形は自分の目を手で覆うとため息をついた。
「……くだらねぇな……」
「え……」
「ボンボンのエスコートなんか任されるじゃなかった」
「尾形お兄ちゃん……?」
苛立ちを含ませた声色で呟く尾形に翔太は不安そうな顔を向けた。目元から手を浮かした尾形は、僅かな手の隙間から翔太を見下ろしてニヤリと笑った。
「俺の仕事はここまでだが……ここからは俺も“フリー”だ」
「……?」
「存分に楽しませてもらうぞ」
「翔太!」
どこからともなく、翔太の名を叫ぶ声が聞こえた。翔太はハッとなって辺りをキョロキョロと見渡した。
「翔太!」
「あっ……」
薄暗い館内──人混みの中から現れたのは、カジュアルフォーマルな服装をした鯉登音之進であった。彼は翔太と目が合うなり瞳を輝かせて頬を赤らめた。その反応はまるで、大好きな主人を見つけて喜ぶ飼い犬のようである。鯉登はすぐに翔太の元にまで駆けつけて来た。
「ここにいたのか!探したぞ!」
「色黒のお兄さん、どうしてここにいるの?」
「宇佐美が……いや、たまたまだ。友人と来ていたのだが途中で別れてな……」
「そうなんだ……」
翔太との会話の途中で、鯉登は翔太の側に立つ尾形へ鋭い視線を向けた。まるで「邪魔だからさっさと失せろ」とでも言いたげな表情に、尾形は意地の悪い笑みを浮かべると突然翔太の手を引いて自分のすぐ近くにまで引き寄せた。
「キエッ……!」
「ではせっかくですのでこのまま“三人でご一緒に”見て回りませんか? 鯉登警部補殿」
「ぐっ……尾形!貴様、これでは話が違うだろう!」
「さて、何のことですかね。俺は親切心で誘っただけでありモスが……」
「キエェェェーッ!」
鯉登の猿叫に辺りにいた客達が不審そうな目を向けた。そこには愛らしい少年を挟んで睨み合う二人の男の姿がある。その異様な光景に周りの人間は皆眉を潜ませて足早にその場から離れて行った。尾形は呆れた表情で自身の前髪を撫で上げた。
「ここではその猿叫もお控えください。外とは違うんですから」
「黙れ!そもそも貴様が調子に乗るのが悪いのだろうが!さっさと翔太から手を離せ!このケダモノ!」
「随分な言われようだ……。それがここまで下準備してきてやった部下へ掛けてやる上司の台詞ですか」
「貴様が私のことを本気で上司だと思っているとは思えん!その目から既に私のことを見下しているのがわかる!」
「フッ……これだから甘やかされて育ったボンボンは……」
「ないじゃとぉッ!?」
「喧嘩しないで……!」
「ッ……!!」
尾形の挑発に激昂する鯉登のスラックスを翔太は握りしめた。ハッと見下ろせば、セーラー姿の翔太が不安そうな目を己に向けている。鯉登は声にならない猿叫を上げて顔を真っ赤に染めた。
「ッ……翔太!」
「わっ」
その場に膝をついた鯉登にひしっ、と力強く抱きしめられ、翔太はあわあわと両手を振った。その顔は少しの恐怖に引きつっていたが、暴れて振り払うような抵抗まではしなかった。鯉登は幸せそうな微笑みを浮かべて翔太のぬくもりを堪能する。
「ああ……翔太は昔と変わらずむぜなぁ……。そん服もよく似合っちょうぞ……」
「……?」
「……いつまでそうしている気ですか。見て回るのならさっさと動きますよ」
「黙れ尾形」
「お兄さんも一緒にお魚見る?」
「ああ、見るとも!」
相手によってコロコロと表情と態度を変える鯉登に尾形は肩を竦めた。少し前までは馬鹿みたいに鶴見一筋だった彼が、今では一人の少年にこんなにも固執している。ここにきて尾形はようやく宇佐美の企みに気付いた。
──自分のライバルを翔太に集中させて本命の鶴見から引き離すって魂胆か。全く、どこまでも底意地の悪い男だ。
今気付いた、と言っても尾形も薄々そんな気はしていたのだ。最初こそ宇佐美から話を持ちかけられた時は彼の真意がわからなかったが、後になって詳しい説明を受けて尾形はようやく話の展開を理解した。しかし自分がただの下請け役に抜擢されたのだと知ると、尾形の中に面倒な気持ちもよりも苛立たしい気持ちが湧いてきた。
今まさに、翔太を抱きしめたまま幸せそうに笑う鯉登を見下ろして尾形はその苛立たしさを感じている。尾形の胸の内では黒く濁った蟠りがまるで癌細胞のように増殖していた。大した抵抗もせず戸惑ってばかりいる翔太にさえ怒りが湧いた。
二人を見下ろす尾形の目から、静かに温度が消えていく。
「翔太は何が見たいんだ?」
「ぁっ、あのね……イルカさんとね、ラッコさん……」
「そうか!よしわかった!翔太が見たいものは全て見せてやろう!」
「ほんと? いいの?」
「当然だ!」
尾形の身体の中でパチパチ、プチプチ、音がした。何の音なのか分からなかったが、尾形はこの音を、翔太と誰かが仲睦まじく話しているのを目にした時に覚えてられないくらいの回数で聞いてきた。
「ああ、夢みたいだな……翔太とこうして、また昔のように話せる時が来るとは……」
パチパチ、プツプツ、音は徐々に早くなっていく。尾形の空いた手が拳を作る。
「……あのね、お兄さん……」
「うん? どうした? 翔太」
「……お兄さんの名前は、なんて言うの?」
鯉登は一瞬驚いた表情を浮かべたが、その表情はすぐに柔らかな微笑みとなり翔太に向けられた。
「そう言えば再会してまだしっかりと名乗っていなかったな……。遅くなったが、私の名前は鯉登音之進だ」
「ぁっ……!もしかして、お母さんが言ってた、にぃに……なの?」
「!! 翔太!やっと思い出してくれたのか……ッ!?」
パチパチパチ、プチプチ、プチン。プツン。それきり、音がしなくなる。
つまり音を鳴らす何かが、尾形の中から失われてしまったのだろう。
「あっ!」
「翔太!」
尾形は翔太の元に歩み寄ると、彼の脇の下に両手を差し込んで抱き上げた。突然のことに戸惑う翔太を腕に抱き直した尾形は、狂気めいた殺気を隠そうともせず、呆然とする鯉登を睨むとすぐにその場から離れた。
「おい!待て尾形!」
残された鯉登はすぐに尾形の後を追った。しかしいくら呼び止めても彼は足を止めようとしない。ようやく追いついた鯉登は彼の肩を掴むと強引にその場で引き留めた。
「貴様……ッいきなり何の真似だ!」
「……言ったはずですよ。このまま三人で見て回るんです」
「だったら私を置いて行くな!」
「いつまでもグズグズしている貴方が悪いんでしょう」
「なっ……」
「通行の邪魔にならないよう少し移動させただけです。少しは周りの目を気にすべきですよ。それと……」
尾形は一旦そこで言葉を切って、ようやく鯉登の方へと顔を振り向かせた。その瞬間、鯉登は自分に向けられた彼の険悪な形相に言葉を失った。
「このご時世、ただ声を掛けるだけでも事案になり兼ねないのですから、今後は翔太へのスキンシップもほどほどにお願いしますよ。……鯉登警部補殿」
睨み潰そうとでもしているかのように、忌々しい表情で尾形は鯉登を睨んだ。鯉登は一瞬呆気に取られたが、やがて眉間に皺を寄せて額に青筋を張らせると、目尻を吊り上げて尾形の方を指差した。
「今の貴様に言われよごたなかわーッ!!」
翔太を腕に抱いた尾形に対する鯉登のこの怒鳴り声は水族館中に響き渡った。