海賊の子 | ナノ

祝福された道


尾形百之助にとってその日は最悪な一日であった。

いつも通りパンパンに詰まった予定をこなしながら過ごし、谷垣と交替を終えて帰路に付いた頃にはすっかり朝日が昇っていた。天気予報が外れて雨が降り、冷たく湿っぽい雨粒が頬にかかる。傘を持ち合わせていなかった尾形は小走りで団地の道を走っていた。

自分の部屋に戻るなり、なにをする気力も起きずにベッドへと身を投げる。さすがにそのまま濡れた体で寝転ぶことには抵抗があったので、尾形はタオルでざっと身体だけは拭いた。

帰り際に鯉登から押し付けられた書類の見直しも明日でいいかと括って、尾形は気がつけば眠りこけていた。


◆◆◆


「百之助」

朧げな声で名前を呼ばれた。けれどその声には聞き覚えがあった。

「あんこう鍋、できてるよ」

寒い冬の朝だった。子供の頃、体調を崩し風邪を引いた当時の俺の面倒を母は淡々と看てくれた。
食欲もなく何も食べたくはなかったが、俺のために作ってくれたのかと思うと残すのも気が引けた。重たい体を無理矢理起こし、枕の傍に置かれた器と箸を手に取った。

「きっと、今夜こそ帰ってくる」

狭い台所から聞こえてきた母の言葉に、箸を動かす手が止まった。
母が“誰”の帰りを待ち望んでいるのか──俺には既にわかっていた。そしてこのあんこう鍋が“俺”のために作られたものではないということに気が付いて、微かに湧いた食欲もすっかり失せてしまった。

そうだ。このあんこう鍋は、父のために作られたものなのだろうと──


──当時、父は警視正として第七警察署の署長を務めていた。世間体を考えれば愛人との間にできた子供の俺は、愛人とともに疎ましく感じただろう。密やかに養育費を払っていたが、そんなものは雀の涙程度のものだった。

父に捨てられ気がおかしくなった母は、冬になると毎日毎日あんこう鍋を作るのだ。まともに働くことなどできやしない。俺の面倒のほとんどは祖父母が見てくれた。誰も出稼ぎには行けない。だから冬になると、あんこう鍋での出費が増えて生活が苦しくなる。それでも母はあんこう鍋を作り続けた。二度と帰ってこない父を想って。

俺の言葉などもう届かないだろうと思った。だから俺は母に言った。死ねば父が会いに来るかもしれないと。愛情が残っているのなら、葬式に来てくれるかもしれないと。
てっきり俺は、母が自分の息子である俺を殺して葬式をあげるものだと思っていた。殺される覚悟はあった。

しかし翌日の朝、母は首を吊って死んでいた。自分を殺して自分の葬式をあげた。これも全て、母が自分のためにやったことなのだと俺は察した。父からの愛情は全て自分のものだと思い込んでいたのか、俺を殺して葬式に誘き出そうとは思わなかったようだ。

中学にも上がっていない息子と年老いた両親を残して自分から逝くことなど、まともな人間は考えない。母はそれほどまでに父との再会を待ち望んでいた。

だが父は来なかった。今まで隠し通してきた膿がようやく一つ消えたと言っても過言じゃない。それをわざわざ自分から周りに公表するような危険な真似を、父がする筈もなかった。

よほど冷静で聡明な人に違いない──俺は会ってみたくなった。だが自分から向かったところで、面会を断られれば会うことなど叶わない。だから素直に警察学校へ入った。どこで嗅ぎつけたのかは知らないが、父はかつての愛人の息子が警察官になったと知ると、逃げるように警察組織から外れて雲隠れした。行き先は本妻と、その本妻との間に生まれた息子──花沢勇作のみが知っている。

彼と警察署で初めて出会った時は面食らったものだ。キャリアコースで俺より出世していた彼は、何度注意しても部下の俺を『兄様』と呼んだ。「ひとりっ子育ちでずっと兄弟が欲しかった」と俺にまとわりついた。

あの屈託のない笑顔──「ああ、これが両親から祝福されて生まれた子供なのだ……」と心底納得した。俺が異母兄であることは知っている癖に、愛人の息子であるということは知らされていなかったのか。俺が望まれずに生まれてきた子供だとは微塵にも思っていないのだろう。同じ職場で彼のことを知る度に胸焼けがした。独身寮に押し掛けられる度に吐き気を催した。

だが警察官を辞めるつもりは今のところはない。もし俺が警察官を辞めるとすれば──

その時は、犯罪者になる時だ。


◆◆◆


昼過ぎ、どこか近くを走る救急車のサイレンの音で尾形は目を覚ました。

──また、嫌な夢を見たもんだ。

思ったと同時に、ひどい寝汗と頭痛に頭を抱えた。ただ体が重たく、鉛のようでヒリヒリ傷んだ喉が身体の異常事態を訴えていた。

──クソ、やらかしたな。

寝入る直前の自分の行いに完全に非がありすぎて、尾形は情けなさに目を覆った。
覚束ぬ足取りでリビングへと向かい棚から引っ張り出した体温計を咥える。明日の予定を思い起こして、早朝に全体朝礼があるという事実に頭が唸った。悪化させるワケにも行かず、出席しないワケにも行かず。とタイミングよくピピっと鳴った体温計が示した体温は予想通りの38度越え。

尾形は解熱剤を飲む線も考えたが、これ以上体に負荷をかけて空回るのも違う気がして彼は自分の上司のメールに体温計の写真を送り、休む旨伝えるべく文を打ち込んだ。

動く体力すら無く、そのままベッドへ寝転がり掛け布団を引っ張って布団にくるまった。
口から漏れる咳を片手で抑えつつ、尾形は静かに瞼を閉じた。


◆◆◆


「尾形巡査長は風邪で休んでいるよ」

月島の言葉に翔太はぽかんとした顔で立ち尽くした。

学校帰り、チカパシと共に交番に訪れた翔太は大好きな尾形に道端で摘んできた花をプレゼントとしようと思っていた。なのにその尾形が今日はいないと知るや否や、翔太は手に持っていた花を握り締めて暗い顔を俯かせた。月島の顔に焦りの表情が浮かんだ。

「翔太くん、そんな落ち込むことはない。きっとすぐに会える」
「そうだよ翔太!元気出しなよ!」
「……うん」

必死に慰めてくれる月島とチカパシの言葉にも、翔太は力ない返事を返すのみだった。交番の出入り口で翔太が出て来るのを待っていた杉元は、どこか複雑な心境で空を見上げる。

あの尾形が風邪か──

今までに一度だってあの男が体調を崩して休んだところを見たことがなかった杉元は、実はサボるための口実ではないかと一瞬疑った。それは月島も思ったことだったが、尾形から明日の朝礼欠席の連絡と体温計の写真が送られてきたのは昼過ぎで、昼食中の月島はたまたまそれを確認出来た。 尾形は本当に風邪を引いているようだった。

「尾形なら風邪菌も逃げ出すくらいだと思ってたけど案外ショボいな、あいつ」
「そうだな」
「本人がいないからって好き勝手なことを言うな」
「洋平、尾形のパシリが何か言ってるぞ」
「怖い怖い」
「お前らな……ッ」
「やめろ。休んでいる尾形のことをここで話していても何もならないだろう。仕事に集中しろ」

月島から注意を受け、二階堂の二人は面白くなさそうに鼻を鳴らして仕事に戻った。谷垣はまだ何か言いたげであったが、月島からの物言わぬ圧を感じて彼も大人しく引き下がった。

「……翔太くん。今日のところはもう帰った方がいい。尾形がいないこともあって、やる事が増えて忙しんだ。俺たちも今日は構ってやれそうにない」
「……うん」

諭された翔太は小さく頷いた。諦めてもらえたことにホッとしつつも、元気のない翔太を見るのは少し胸が痛んだ。月島は黙ったまま翔太の頭を撫でると、大量の書類を持って交番の奥へと去って行った。

「……行こう、翔太」
「うん……」

チカパシに手を引かれ、翔太は落ち込んだ顔で踵を返した。

「……待ってくれ、翔太くん」
「……?」

その時、帰ろうとした翔太を突然谷垣が呼び止めた。振り返る翔太に谷垣は歩み寄り、机の上にあった封筒を取ると翔太に差し出した。

「翔太くんは確か尾形巡査長と隣同士だろう? 良ければこの封筒を彼に届けてやってくれないか?」
「えっ」
「えーっ!翔太って尾形と隣同士なの!? じゃあ俺も行く!」
「チカパシ、お前は真っ直ぐ帰るんだ」
「何で〜!?」
「真っ直ぐ帰らないとインカラマッが心配するぞ。それに、お前は騒がしくするからダメだ」
「俺別に騒がしくしないよ!」
「既に騒がしいだろ」
「っていうか、やかましい」
「うるさい!バカ二階堂!」
「はい、公務執行妨害罪で現行犯逮捕」
「ゴム鉄砲の刑に処す」
「うわーっ!やめろバカ!痛い!痛い〜っ!」
「ははははっ!」
「よせ二階堂!」

机の引き出しからゴム鉄砲を取り出した二階堂達が、何発もの輪ゴムをチカパシに向けて撃ち放った。まさか反撃を受けるとは思ってもみなかったチカパシは慌てて交番から逃げる。爆笑する双子に谷垣は怒鳴りつけた。

「……谷垣さん」
「えっ」

二人に気を取られていた谷垣は突然名前を呼ばれて、その視線を腰元に移した。そこには封筒を持った翔太が、谷垣を真剣な表情で見上げていた。

「僕、頑張って届けてくるね」
「……ああ、よろしく頼む」

谷垣は翔太に対して敬礼して見せると、優しい微笑みを浮かべて翔太の頭を撫でてやった。そのまま踵を返して交番から出て行った翔太を見送り、彼も自分の席へと戻った。

静まり返った交番で、二階堂の二人だけがつまらなさそうな顔をしていた。


◆◆◆


翔太は交番を出た後、真っ直ぐ自分の部屋にまで戻って持っていた鍵を使ってドアを開けようとした。

「ちょ、ちょっと翔太くん!」
「……?」
「封筒、尾形に渡さなくてもいいの?」
「まだいいの」
「まだいいって……」

呼び止めた杉元にも翔太は気にせず部屋の中に入って行った。まだ由竹は帰っておらず、部屋の中はシンとしている。翔太はランドセルをリビングに置くと、まずは洗面所に入って行った。翔太が手を洗う音を聞きながら杉元も後に続く。

「杉元お兄ちゃん」
「えっ? なに?」

洗面所から出てきた翔太が杉元の元まで駆け寄ってきた。

「ご飯ってどうやって作るの?」
「えっ、ご飯? ご飯って、白いご飯のこと?」
「うん」

何でそんなことをいきなり訊いてきたのか杉元には分からなかった。お腹でも空かせているのか──そう考えながら、杉元は台所まで向かった。

「えっと……この炊飯器に、ここにあるお米を入れて炊くんだよ」
「……?」
「……翔太くん、ご飯食べたいの?」
「ううん。作りたいの」
「何で?」
「おにぎり作りたいから」
「おにぎり? おにぎりが食べたかったの?」
「ううん。作りたいの」
「……?」

杉元はますます訳がわからなくなってきた。取り敢えず今の翔太は、おにぎりを作るためにご飯が必要らしい。杉元は置いてあった炊飯器を開けた。

「じゃあ……1合くらい炊こうか。俺が炊くから、おにぎりは一緒に作ろう、翔太くん」
「うん」

杉元は早速ご飯を炊く作業に取り掛かった。慣れた手つきで準備を進める杉元を、翔太は側でじっと見つめている。見られているとどうしても意識してしまい、杉元は少しぎこちない動きで米を洗った。

「……お米、洗うんだ」
「えっ? 洗わないの?」
「うん。由兄ちゃんは洗わないよ」
「ぅえっ!? コレ無洗米!?」
「無洗米……?」
「うわ〜どっちだろ……。いや、でも言われてみれば濁り少ないし……もういいや、このまま炊こう」

杉元は考えることをやめ、お米を入れた炊飯ジャーを炊飯器にセットした。ボタンを押して、これで米の準備は終わった。

「よし。あとは炊き上がるのを待つだけだ。……ところで翔太くん、おにぎりなんか作ってどうするの?」
「……尾形お兄ちゃんに、あげるの」
「えっ!?」
「あっ……尾形お兄ちゃんに……」
「いや、聞こえたけどっ……え、尾形に作ってやるの?」
「うん」
「おにぎりを?」
「うん」
「えー……」

なんて優しい子だろう──杉元は翔太の優しさに胸を打たれたが、相手が尾形となるとかなり複雑な気持ちになった。そうなると自分はあの尾形のために米を炊いてやっていることになるのだろうか。
いや、違う。これはあくまでも“尾形のためにお米を炊こうとする翔太くんのためにお米を代わりに炊いてやっている”だけなのだ。つまりこれは、全て翔太くんのためにやっていること──杉元はそう自分を無理矢理に納得させた。

「……じゃあ、炊き上がるまで二人で待ってようか」
「うんっ」

納得させてもやはり心の奥にわだかまりが残る。杉元は尾形のことを少し羨ましがりながら、炊き上がるまでの残り時間を翔太と過ごした。


◆◆◆


暗闇の中、意識の片隅で何かが鳴り響いている。その音を聞く度にひどい頭痛が尾形を襲った。

──こんな時に一体どこの馬鹿が来やがった。

尾形は鳴り止まないインターホンの音にようやく目を覚ました。
寝かせていた体を無理矢理起こそうとするが、体は鉛のように重く起き上がるのも一苦労だ。

そう思った瞬間、胃のあたりにとてつもない不快感を感じた。

──まずい、吐く。
胃の中身が喉に向かって駆け上がってきて、喉が熱くなる。こんな場所で吐くのは絶対にダメだ。床が汚れる。

尾形は玄関に向かう前にトイレへと向かった。しかし間に合わず、尾形はトイレのドアの前で膝をつくと腹部を抑えて床に俯いた。

「ぐっ……お゙ぇ……ッ!」

固形物と液体がまじったものが尾形の口から吐き出されていく。つんとする匂いは嘔吐を誘発するのに充分すぎるものだった。ごぶ、と喉から音がしてまた吐き出す。

『百之助』

尾形は悪寒に震えた。どこからともなく聞こえた朧げな声には聞き覚えがあった。

『あんこう鍋、できてるよ』

幻聴だ。熱でおかしくなっている。
尾形は頭を抱え、目を固く閉ざした。

『きっと、今夜こそ帰ってくる』

記憶に焼きついた首吊り死体が、母に良く似た声でそう話した。
目を見開くと、目の前に出来立てのあんこう鍋が見えた。

「……ッ」

ハッと息を呑んで改めて見ると、それが自分の吐き出した吐瀉物だとすぐに気付いた。だんだんと冷静さを取り戻し、尾形は重い体を自分の力だけで引きずり上げた。

──ピンポーン……

また、あの耳障りなインターホンの音が聞こえた。キィン、と耳鳴りがしてぐわんぐわんと視界が揺れる。頭にじわじわと変な感覚が襲った。それでも尾形は立ち上がり、すぐ近くの洗面所で口を濯がせて玄関まで向かった。

寄りかかるようにドアに手をついて尾形がドアスコープを覗くと、ドアの前には翔太が立っていた。

「……何の用だ……?」

尾形は掠れた声で呟いて鍵を一つだけ開けた。チェーンのついたままのドアを開けると、ドアの隙間から翔太が顔を覗かせてきた。

「……尾形お兄ちゃん?」
「……なんだ」
「風邪、大丈夫……?」
「……誰から訊いた」
「月島おじちゃん……」
「チッ……」

尾形はメールを送った上司に内心で悪態をついた。翔太は心配そうな表情を浮かべて、尾形の顔を見上げている。尾形はそんな翔太を睨むように見下ろした。

「……用件はなんだ」
「ぁ……これ、谷垣さんからお届け物……」
「……あぁ」

ドアの隙間から封筒を差し出され、尾形はそういえばこの封筒を交番に忘れてきたことを思い出した。一つ返事で封筒を受け取った尾形はそれを玄関の横に置いた。視線を戻すと、翔太はまだこちらをじっと見ている。尾形は眉根を寄せた。

「……まだ何か用か」
「ぁっ……あのね……」
「…………」
「ぉ、おにぎり……作ったの」

そう言って翔太は、ドアの死角からおにぎりが詰められたタッパーを取り出して見せた。

「尾形お兄ちゃんに早く元気になってほしくて……僕、尾形お兄ちゃんのために頑張って作ったよ」
「…………」
「……上手に握るの、難しくて……ちょっと失敗しちゃったけど……」
「…………」
「ぁ……でも、ちゃんとできた方のおにぎり詰めたよ?」
「…………」
「…………尾形お兄ちゃん、もしかして……おにぎり……きらい?」
「…………」

尾形は無言でドアを閉じた。

急に閉じ切られたドアに、翔太は眉尻を下げて顔を俯かせた。手に持ったタッパーを見下ろし、じわりと目に涙をにじませた。

──しかしその時、閉じられたばかりの目の前のドアがゆっくりと開かれた。

翔太が顔を上げると、熱に浮かされて顔を赤らめた尾形が髪を掻き上げているのが見えた。

「……寄越せ」
「……!」

たった一言そう告げた尾形に、翔太は慌ててタッパーを差し出した。受け取った尾形はしばらくそれを眺めて、やがて翔太の顔を見た。尾形の結ばれた口元に微かな笑みが乗った。

「餌付け成功だな」
「……うんっ」

笑顔で大きく頷いた翔太に尾形は目を細ませて笑った。


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