海賊の子 | ナノ

隣人トラブル


由兄ちゃんと一緒に暮らし始めてもう一週間経った。由兄ちゃんは僕にテレビのニュースは見せてくれないけど、お笑い番組とか仮面サーファーは見せてくれる。

あと、時々由兄ちゃんはきちっとした格好で外に出て行く。ちょっと前に由兄ちゃんのお家にスーツを着た男の人達がやって来て、なんだか由兄ちゃんと揉めているみたいだった。それから由兄ちゃんは時々自分一人で出掛けることが増えてきた。今日も、由兄ちゃんはお外に出掛けるみたいだ。いつものだらしのない格好じゃなくて、きちっとした格好をしている。

「翔太、鍵は絶対開けるんじゃねぇぞ」
「うん……」
「知らない人が来たら知らんぷりしろよ? 絶対に開けんなよ?」
「うん……」

由兄ちゃんは何度も何度も確認して、最後によし!と笑うと、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「じゃあ行ってくるからな!」
「うん……行ってらっしゃい」

バイバイして見送ると、由兄ちゃんはそのまま玄関を出てドアを閉めた。カチリ、と鍵がかけられる音がする。僕はそのまま玄関に座って、由兄ちゃんの帰りをじっと待つことにした。

「……まだかなぁ」

今日は何時くらいに帰ってくるんだろう。お腹が空いたら食べろよって言って置いて行ったカップ麺は、昨日食べたカップ麺と同じものだ。実はあんまり美味しくなくて、僕はちょっと好きじゃない。でも、由兄ちゃんはいつも美味しい美味しいって言って食べてるから、僕も美味しいって言って食べる。

「お腹空いたなぁ」

キュル、って鳴ったお腹を隠すように膝を抱きしめた。お母さんが作ってくれたカレーが食べたくなってきた。暑い夏に作ってくれるお母さんのカレーは、甘くて美味しくて、僕の大好きな味。お父さんが食べるカレーは僕のカレーより色が濃くて、こっそり味見したらすごくすごく辛かった思い出がある。

「お母さん……」

僕には由兄ちゃんがいるからもう寂しくないって思ってたのに、お母さんのカレーを思い出したらなんだかまた泣き出しそうになってしまった。ぐしぐしと目をこすって、僕は顔を洗いに洗面所に向かった。

「わ……」

洗面所には脱ぎ散らかされた由兄ちゃんの服が床いっぱいに広がっていた。由兄ちゃんはお洗濯しないのかな。そう言えば、お布団もずっと敷きっぱなしだった気がする。
お母さんはよく僕のベッドのマットと毛布を干してくれていた。そうしたらふかふかになって、お日様の匂いがして、その日の夜はぐっすりと眠れたっけ。

「あ……」

そうだ。由兄ちゃんのお布団を干してあげよう。お洗濯はまだ難しくて僕にはできないけど、お布団ならお母さんと一緒に干したことがあるから僕にもできる。
僕はリビングに行って、敷かれたままの由兄ちゃんのお布団を引きずり上げた。埃がブワァッて舞ってくしゃみが止まらなくなっても、僕はお布団を一生懸命ベランダの外まで持って行った。

「んっ……しょ」

洗濯物が一着も干されていない由兄ちゃんのベランダには、ゴミ袋がいくつか転がっていてハエが飛んでいる。お布団をリビングの床の上に一旦置いて、僕は掛けたままの竿に手を伸ばした。

「んっ……!んっ……!」

手を伸ばしたけど、ちょっとだけ届かない。僕は近くに置いてあったゴミ袋を持って来て、その上に乗り上げた。ゴミ袋はぐらぐらとしていてあまり安定しない。でも、由兄ちゃんのお部屋には椅子がないからこれを使うしかない。

試しに手を伸ばしてみたら、なんとか竿を掴むことができた。これならお布団を干すことができる──そう思ってホッとした途端、足元のゴミ袋が突然弾けて中身が飛び出した。

「あっ!」

足の支えが消えてガクン、と体が落ちそうになった。咄嗟にぎゅっと竿を掴んだら僕の体は竿に宙ぶらりんになった。これじゃあまるで僕が干してあるみたいだ。

「ブッ」
「……?」

どうしようかな、って思っていたら、隣から突然吹き出すような声が聞こえた。顔を向けたら、尾形お兄ちゃんが顔を逸らして肩を震わせていた。

「尾形お兄ちゃん、こんにちは……」
「……何やってんだ、お前。懸垂でもする気か?」
「けんすい、ってなに?」
「待ってろ、そっち行くから」

尾形お兄ちゃんはベランダを伝って、こっちまでやって来た。猫みたいにひょいひょいと動くから、たぶん尾形お兄ちゃんも由兄ちゃんと一緒で運動神経がいいんだと思う。

「危ないことすんなよ、白石泣かせのお坊ちゃん」
「僕の名前、翔太だよ?」
「ああ、知ってる」

尾形お兄ちゃんは僕の脇の下に手を入れて抱っこすると、そのまま僕を竿から降ろしてくれた。すると散らかったベランダを見下ろして、前髪を撫でつけながらため息をついた。

「相変わらず汚ねぇな……今度谷垣連れて厳重注意と指導させるか」
「ぁ……ぼ、僕が汚したんだよ? 由兄ちゃん、悪くないんだよ……?」
「お前なぁ、俺が何年ここに住んでると思ってんだ」
「……わかん、ない」
「少なくともお前がくる前からここはゴミ屋敷だ。関わるのも面倒だから放置していたが、時期が時期だけに流石に臭う。異臭騒動で俺の交番に住民が駆け込んでくるのも面倒だ。いい加減、あの馬鹿にここを片付けさせる」

尾形お兄ちゃんがそう言った途端、僕のお腹がまたキュル、と鳴った。僕は慌てて自分のお腹を抑えた。でも尾形お兄ちゃんは僕のお腹の音に気付いたみたいで、ちょっとびっくりした顔を僕に向けていた。

「なんだ、腹減ってんのかお前」
「……うん」
「朝飯は食ったのか」
「……ううん」
「……もう昼間だぞ。飯はどうした」
「カップ麺があるよ」
「カップ、麺……?」
「うん」

尾形お兄ちゃんはふとリビングを覗き込んで、突然僕の目線に合わせるように屈み込んだ。お兄ちゃんのジトッとした目が僕の目をじっと見つめている。

「お前……昨日は何食った」
「カップ麺……」
「朝飯は?」
「カップ麺」
「昼飯は?」
「食べてない……」
「晩飯は?」
「カップ麺」

「そこに置いてあるのと同じ」と僕が言ったら、尾形お兄ちゃんはすっと立ち上がって隣のベランダに戻って行ってしまった。
でも少ししたら玄関のチャイムが鳴らされて、ドアの向こうから「俺だ開けろ」と尾形お兄ちゃんの声が聞こえた。鍵を開けたら尾形お兄ちゃんが現れて、突然僕をヒョイと抱き上げた。

「尾形お兄ちゃん、どこ行くの?」
「俺の部屋」

尾形お兄ちゃんは隣の部屋のドアを開けて、サンダルを脱ぐと僕をリビングまで運んで行った。尾形お兄ちゃんのお部屋は由兄ちゃんと違ってすごく綺麗に整頓されていた。床だって、ゴミひとつ落ちてない。でも置いてある家具が少なくって、なんだかちょっと物足りないような気がする。

「待ってろ、今なんか食えるもの出してやる」
「えっ……」
「お前、あー……クソ、コレしかないか」

尾形お兄ちゃんが台所で何かゴソゴソしている。炊飯器の中を確認すると、鍋を出して水を入れ出した。今からお湯を沸かすみたいだ。

「贅沢はなしだぞ、お坊ちゃん。……って言っても、あんな食生活続けてた今のお前に贅沢もクソもないか」
「……? 僕の名前、翔太だよ?」
「わかってる」

ふ、って笑った尾形お兄ちゃんは、お湯が沸騰すると何かの袋を鍋の中に沈めた。腕時計を見て、今度は僕の方へやって来る。尾形お兄ちゃんはテーブルの上に置いていたリモコンを取って、テレビの電源を入れた。パッと映ったテレビ画面には、お昼のニュース番組が流れていた。

「テレビでも見て待ってろ。後五分程度は掛かる」
「うん……」

僕は台所に戻って行った尾形お兄ちゃんを見送って、それからテレビ画面に目をやった。由兄ちゃんに見るなって言われたニュース番組を見てもいいのかなって思ったけど、僕はチャンネルを変えられないから黙って見ることしかできない。

『昨夜未明、〇〇区の〇〇交差点で飲酒運転による事故が発生しました。運転手は……』

画面が変わって、事故現場の映像が映し出された。ぐちゃぐちゃになった車と、たくさんの警察官の姿が見える。誰かが救急車に運ばれている様子も映っていた。運ばれて行ったあの人は、大丈夫なのかな。今も病院にいるのかな。

『……続いては、白石貿易会社、白石社長についてです』

どきん、と心臓が強く脈打った。お父さんの顔が、テレビに映っていた。

『一週間前に葬儀を終えたばかりですが、現在白石家では遺産相続について親族間で……』

ピッ、と突然テレビ画面が消えた。あ、と振り返ると、リモコンを持った尾形お兄ちゃんが無表情でテレビ画面を睨んでいた。お兄ちゃんはそのままリモコンをソファーの上に放り投げて、また台所に戻って行った。

「ぁ……尾形お兄ちゃん、僕もお手伝いする……」
「いい。もうできた」

僕が立ち上がろうとしたら、お皿とスプーンを持った尾形お兄ちゃんがむすっとした顔で戻って来た。

──あ、カレーの匂いだ。

そう思った途端、目の前のテーブルの上にカレーが入ったお皿とスプーンが置かれた。お肉もお野菜もほとんど見えない。僕の知ってるカレーより、ちょっと色が濃いような気がする。この色は、お父さんが食べるカレーの色だ。

「まず言っとく。お前には絶対辛い。だからコレ飲め」

そう言って尾形お兄ちゃんは僕の前に牛乳が入ったコップを置いた。コップになみなみに注がれた牛乳は、尾形お兄ちゃんがテーブルに置いた衝撃で中身がちょっとだけ溢れてしまった。黒いテーブルに真っ白な牛乳が点々に広がっている。

「レトルトカレーで悪いが、連日カップ麺よりはマシだろ」
「…………」
「……食わないのか」
「ぁ……いた、だき……ます」

僕はスプーンを取ると、濃い色のカレーを掬ってゆっくりと口の中に入れた。

──辛い。すごく辛い。お父さんのカレーの味がする。

「ぅっ……ぐすっ……」
「っ……そんな辛かったか? クソ……やっぱ谷垣に甘口買ってこさせりゃ良かったな……」
「うっ……おい、しぃ……」
「無理するな。牛乳飲め、牛乳」

グイ、と牛乳が入ったコップを押し付けられて、僕は泣きながら牛乳を飲んだ。ヒリヒリと痛んで熱くなった舌が冷たい牛乳で冷やされて、カレーの辛さが少しだけ薄れていった。
僕はすぐにまたカレーを頬張った。そうしたら、またお父さんのことを思い出してボロボロと涙が溢れてきた。濃い色のカレーの上に僕の涙がポタポタ落ちて、尾形お兄ちゃんがちょっと慌て気味に僕が咥えたスプーンを取り上げようとした。僕はそれを、絶対離さないようにして強く引っ張った。

「おい、本当に無理するな。やせ我慢して食う必要ないんだぞ」
「んんんッ……!」
「べってしろ、べって。洗面所で口ゆすいで来い」
「んんんーっ……!」
「何つー強情なガキだ……」

降参だ、と言って尾形お兄ちゃんはスプーンから手を離すと両手を挙げた。僕がシクシクと泣きながらカレーを食べてる間、尾形お兄ちゃんはちょっと呆れたような顔をして僕の顔をじっと見つめていた。

「……もう零すな、取り上げたりしねぇから」

そう言って尾形お兄ちゃんは腕を伸ばして、ボロボロ出てくる僕の涙を指で拭ってくれた。僕は少しもカレーを零してなんかいないのに、尾形お兄ちゃんは変なことを言う。変なことを言うけど、僕はその言葉を聞いて何故だかすごく安心していた。

お父さんのカレー味は、僕にはまだまだずっと早かったみたいだ。


◆◆◆


「はぁ〜ぁ……。あの疑われようじゃ、まだ時間かかりそうだなぁ……」

身内の用意した多数の弁護士を相手にするのは本当に疲れる。かと言って追い返すわけにもいかないし、翔太がいる手前で込み入った話をするわけにもいかないしで、本当に苦労が絶えないなぁ、俺。

『由竹、俺にもしものことがあったら、その時は翔太達のことを──』

「…………」

気の重たげな表情を浮かべていた自分の頬をぶっ叩いて、目の前にある部屋のドアを勢いよく開いた。

「翔太〜!たっだいま〜!由兄ちゃんのぉ、おかえりだぞぉ〜ぅ!」

いつもよりもっとハイテンションな様子で部屋に飛び込むが、夕日に照らされた部屋の中はしんと静まり返っていて、そのどこにも翔太の姿はない。

「……え? 翔太……?」

おいおい、いつもの「おかえりなさい、由兄ちゃん!」はどうしたんだ〜? 俺の可愛い天使サマは一体どこに隠れてるんだ〜?

「あ……そういえば、鍵……」

俺、掛けたっけ? 掛けたよな? 掛けたはずだ。だって翔太がいるから。俺の大事な、兄貴の──

「ッ……」

ぬるい風が吹いた。顔を上げると、開きっぱなしのベランダの窓が見えた。不自然な位置に引きずられた俺の布団と、ぐちゃぐちゃに散らかったベランダのゴミ。ビュウッと強い風が部屋を拭きけた瞬間、俺は猛ダッシュでベランダまで向かった。外に飛び出すと、柵から飛び降りる勢いで下を覗き込んだ。

「翔太ッ!!」
「あ、由兄ちゃん」
「えっ?」

ベランダの真下を覗いていた俺の真横から、翔太の弾んだ声が聞こえた。思わず顔を向けると、隣のベランダで何故か双眼鏡を持った翔太が尾形の腕に抱かれてこっちに手を振っていた。

「……あらぁ〜翔太ちゃ〜ん。どうしたの〜そんなところで〜」
「あのね、尾形お兄ちゃんと野鳥見てたんだよ。由兄ちゃんも一緒に見ようよ」
「そうなのぉ〜? 尾形お兄ちゃんと野鳥見てたのぉ〜? へぇぇぇぇ〜?」
「…………」

一瞬の間の後、俺は全身のありとあらゆる筋肉を駆使して尾形のベランダへと乗り込もうとした。

「おい、気を付けろ」
「ンゴォォォォ!!どの口が言っとんじゃお前はぁぁぁ!!」
「鳩よけ、置いてあるぞ」
「んぎゃああああああ!!」
「由兄ちゃん危ない!」

ベランダの中に飛び込もうとした瞬間、尾形が足元にある刺々しい鳩よけマットを指差したのを見て俺はびっくら仰天してそのままベランダから落ちそうになった。しかし間一髪のところで脚を柵に引っ掛けることに成功し、なんとか落下は免れた。

「迂闊なことするなよ、こいつが真似したらどうする」
「できるかぁッ!」

ベランダの柵にぶら下がったまま、俺は滝のような汗と涙を流して叫んだ。ちょうど近くを飛んできた鳩がその声にビビり上がったのか、俺の顔に糞を落として飛び去っていった。

「由兄ちゃん、大丈夫……?」
「大丈夫じゃないよぉ〜!助けて〜翔太〜!」
「尾形お兄ちゃん、由兄ちゃん助けてあげて……」
「いい鳩よけになる。このまま置いとけ」
「おンまっ……!マジでふざけッ…」
「仕方ねぇな……降ろすか」
「あ、嘘です〜助けて欲しいです〜尾形さん引き上げお願いしま〜す」


その後俺を引きずり上げた尾形は、何故か俺に部屋とベランダの掃除と、翔太の飯の面倒を毎日三食しっかりと管理するという誓約書を書かせてきた。
翔太も翔太で尾形にすっかり懐いて楽しそうにしているし、全く、とんでもない野郎を隣人に持っちまったぜ。


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