海賊の子 | ナノ

描くもの


知多々布一丁目 アパート《コタン》──

杉元佐一は自分の住まいであるアパートの部屋に翔太を連れて来ていた。

築年数20年の木造アパートは二階建てで、杉元はその二階の奥の部屋に住んでいる。近所にはスーパーもコインランドリーも公園もあり、子育て世帯や単身世帯にとっても住みやすい地域だ。杉元もそこを気に入っていた。

「今日はよろしくね、翔太くん」
「……ん」

部屋の前で立つ、リュックを背負った翔太に杉元は優しく笑いかけた。翔太には白石との面会禁止の件は伝えておらず、今日は単純に杉元の家でお泊まり会をするというていで伝えている。杉元も流石に何日も翔太を預かるわけにはいかないので、今回は不信感を与えないように一泊二日の預かりで白石から翔太を取り上げていた。

緊張しているのか、翔太はここに来てから俯いてばかりいる。杉元はそれに苦笑いして見せながら部屋の鍵を開けてやった。

「面白いものとかは特に置いてないけど……不自由はさせないから安心して」

杉元が部屋のドアを開けてやると、翔太は部屋の中と杉元の顔を見比べて不安げな顔をして見せた。それもそのはずである。

杉元の部屋には、何もないのだ。1DKの間取りの奥にはこたつテーブルがあり、部屋の隅には畳まれた布団と小さな液晶テレビ、壁に掛けられた警備員の制服くらいしか見えない。引っ越して来たばかり、あるいは引っ越し前の状態だと言っても過言ではない。綺麗にしてあると言えば聞こえはいい方なのかもしれない。しかしそれが却って翔太を不安にさせた。

「ごめん。余計なものはあまり置かないようにしてるんだ。あ、食べ物とかはちゃんとあるから心配しないでね?」

翔太の反応に焦る杉元は言い訳を連ねて、いつまでも入ろうとしない翔太の代わりに先に部屋へと入った。杉元が先に入ったことに少し安心感が出たのか、翔太も続けておずおずと部屋に入る。

「トイレと洗面所はそっち。寝る場所はここだけだから、夜はここで寝るよ」

靴を脱いで部屋に上がった杉元は少し弾んだ声で部屋の中を案内した。しかし翔太から返事が返ってこないのを不審に思い振り返ると、翔太は何故かまだ玄関に突っ立っていた。杉元は首を傾げた。

「……翔太くん?」
「ぁ……」
「どうしたの、そんなところで。ほら、入っておいでよ。怖くないから」
「……お邪魔します……」
「うん、おいでおいで」

杉元の優しい笑顔と言葉に絆されたのか、翔太は緊張しつつも一度頭を下げてから部屋に上がった。「真面目な子だなぁ」と内心で呟き、杉元は普段から勝手知ったる顔で部屋に入ってくるアシリパを遠くに思いながら苦笑した。

「あ、そうだ翔太くん」
「……?」
「あのね、このアパートのお隣さんなんだけど……外国から来た人だから、もし会って挨拶しても言葉が通じないかもしれないんだ。でも、怖い人じゃないから安心してね」
「……うん」
「よし。じゃあ、今からちょっとその辺散歩してみようか。こっちの公園には割と子供がいるから、もしかしたら翔太くんと友達になれる子がいるかもしれないよ」
「……うん」

緊張の抜け切らない翔太の頷きを見て、杉元はなんだか振り出しに戻された気分で小さくため息をついた。やはり白石と引き離したのは良くなかったのかもしれない。

戻してやるべきか一瞬葛藤するものの、翔太のあの白石の部屋に戻るのを躊躇う姿を見てしまったからにはそういうわけにもいかない。きっと、あの部屋であの女に受けた酷い仕打ちがトラウマになってしまったのだろう。

杉元が尾形の部屋で翔太を見かけた時は、そのあまりの悄然とした姿にショックを受けたものだ。泣き腫らした目元と涙の跡、不自然に赤くなった片方の頬は暴力の痕跡があった。思い出すと、今でも杉元の中で燻っていた怒りが燃え上がる。いっそのこと、翔太をずっとここで護っていてやりたいとさえ思った。

しかし、それはきっと翔太自身が望まないだろう。あんなことがあっても、翔太は白石を求めた。自分を本当に護ってくれるのは白石だけだと信じて疑わないその純粋さは、杉元とって眩しくも美しくもあり、脆くも儚くもあった。

この子はきっと白石に裏切られた時、壊れてしまうだろう。自分を繋ぎとめるものを失うのが怖いのだ。だから白石から離れたがらないし、離そうとしない。その可愛げのある束縛心が、成長するに従って一体どうなっていくのか──杉元は翔太の成長した姿を想像し、どこか切ない気持ちに駆られた。


◆◆◆


杉元が翔太を連れて公園へ行くと、二、三組程の親子が遊具で遊んでいるのが見えた。公園は団地の公園に比べるとその広さは半分以下になるが、賑わいぶりで観るとこちらの公園の方が人が多い。

「どう? 翔太くん。声掛けてみる?」
「……いい」
「……そっか」

翔太は杉元の問いに首を振った。公園にいたどの子供も、自分の両親と楽しそうに遊んでいる。翔太は杉元と手を繋いだまま暗い顔を俯かせた。こんな状態の翔太くんをここに連れてきたのはマズかったかもしれない──杉元が「失敗したかな」と反省していると、ふと公園の奥に見慣れた男の姿を捉えた。

「あれ……珍しいな」
「……?」

遠くを見やって呟く杉元を不思議そうに見つめる翔太だったが、彼はすぐに翔太の視線に気付いて穏やかな笑顔を浮かべて見せた。

「あ、ごめんごめん。何でもないよ。ちょっと気になったことがあっただけ。それより、俺たちは向こうで遊ぼうか」
「……うん」

杉元が指差した先にあったのはブランコだ。他の子供はみんな滑り台や砂場、ジャングルジムなどで遊んでいる。しかし公園の奥にあるブランコには何故か誰もいない。杉元はなんとなくだが、その理由を察していた。

杉元が翔太を連れてブランコまで向かうと、公園の奥にあった木陰のベンチに一人の男が座っていた。男は、外国人だった。この暑さにも関わらず男は黒いマスクを着用し、木陰の下で黙々と何かをスケッチしている。警戒心の強い者からすれば不審者にも見えなくもない。だからなのか、公園にいるどの親子もこの辺りには近づかなかった。

しかし杉元だけは、この男のことをよく知っていた。

「どうも」
「……!」

杉元が声を掛けると、男は弾かれたようにスケッチブックから顔を上げた。それからその力強い視線が隣に向く。男と目が合った翔太は肩を跳ねさせ、咄嗟に杉元の後ろに身を隠した。

「昼間に外に出てるなんて珍しいな。いつもはもっと遅くに出てるだろ?」
「…………」
「……悪い、邪魔したな。あ、この子は知り合いの子で、今日ウチに泊まりに来てるんだ。この通り大人しい子だし、夜中にうるさくしたりはしないから安心してくれ」

男は杉元の言葉を聞いているのかいないのか、先ほどからずっと翔太を見つめていた。翔太は見つめられて居心地が悪いのか、益々杉元の後ろに隠れてしまった。

「翔太くん、この人が俺のお隣さんだよ。ヴァシリって名前で、ロシアから来た留学生なんだ。すごく絵が上手なんだよ〜」
「…………」
「…………」
「……あの、どっちでもいいから何かしら反応して?」

翔太は杉元のズボンを後ろから引いて、ヴァシリから離れようとした。一方でヴァシリは、まるで透視しているかのように杉元越しに翔太をじっと見ている。翔太が怖がっていると悟った杉元は、少し慌てた様子で翔太の背中を押してブランコへ向かった。ヴァシリは未だに、じっと翔太の姿を見つめていた。



「翔太くん、いくよ〜」
「うん……」

ブランコに乗った翔太の背中を杉元が軽く押した。ブランコに揺れる翔太の顔は無表情であったが、杉元はめげずに背中を押し続けた。

杉元がふとヴァシリの方へ視線を向けると、彼はもうスケッチを再開させていた。風景画でも描いているのだろうか──ここからでは見えない絵の内容を想像しながら、杉元は一定感覚で翔太の背中を押す。

「っ……杉元お兄ちゃん、怖い……!」
「あっ、ごめん!」

考え事をしていて、つい力加減を間違えてしまった。いつの間にか翔太のブランコは全力の立ち漕ぎに匹敵するほどに大きく揺られていた。杉元は慌てて翔太のブランコのスピードを緩めてやった。

「翔太くんごめんね!大丈夫?」
「……僕もう、降りる……」
「あ……」

ようやく止まったブランコから降りた翔太は、杉元を残して一人で近くの茂みに向かった。杉元は頭を抱え、「また失敗した」とやらかしてしまった自分を責めた。
茂みの側で屈む翔太の元へ杉元は歩み寄って、後ろからそっと声を掛ける。

「……翔太くん、さっきは本当にごめんね? わざとやったんじゃなくて……」
「杉元お兄ちゃん」
「えっ? な、なに?」
「猫じゃらし」

振り返った翔太がそう言って差し出したのは、この時期に多く見られる雑草の狗尾草(エノコログサ)だった。
杉元は突然突き付けられた猫じゃらしに呆気にとられていたが、翔太がそれをぐいぐいと押し付けてくるので、杉元は慌ててそれを受け取った。

「あげる」
「あ、ありがとう……」
「んふふ」
「……!」

杉元が礼を言うと、翔太は少し照れたように頬を赤らめてはにかんだ笑顔を見せた。その表情に、杉元もつられるようにして顔を赤らめると言葉を詰まらせた。

可愛い──キュンとした甘酸っぱい気持ちに駆られた杉元は、翔太の笑顔に癒されてつい顔を綻ばせた。

「翔太くん、猫じゃらし知ってたんだね〜」
「うん。由兄ちゃんが前に教えてくれた」
「へぇ、前は団地で見つけたの?」
「ううん。何でも屋さんの帰り道で見つけたの。そしたらね、由兄ちゃんが猫じゃらしのこと教えてくれてね、二人で持って帰ったんだよ」
「そっか〜」

白石のことになると饒舌になる翔太の反応を見て、杉元はこの時初めて白石のことを少し羨ましいと感じてしまった。自分がどんなに手を尽くしても、結局美味しいところは全部白石が持っていってしまうのだ。鯉登が嫉妬する気持ちも少しだけ分かる気がする。

「由兄ちゃんが寝てる時にね、これで足の裏とかこしょこしょするとね、由兄ちゃんがくすぐったーいってガバって起きてね、僕にこしょこしょの仕返しするんだよ。僕、あれ大好き」
「そうなんだ。……翔太くんは、由兄ちゃんが大好きなんだね」
「うん!」

今度は満面の笑みで大きく頷いてみせた翔太に、杉元の心の奥にモヤモヤとした嫌なわだかまりが湧く。

このまま返さないでずっと二人で過ごしたら、翔太くんは俺のこともこんな風に好きなってくれるのかな──
収まらない思いからついそんなことを考えてしまい、杉元はかぶりを振ると「そんなのある訳ないか」とそっと眉尻を下げた。

「……翔太くん、晩ご飯何にしようか」
「…………」

杉元が話題を変えて問うと、翔太はさっきまでの笑顔を消して口を噤んだ。何を考えているのかわからない無表情が杉元の顔に向けられる。

「……僕、何でも食べるよ」
「えっ? ……あははっ!なんだ、遠慮しなくてもいいのに。好きなもの作るよ?」
「ううん……」

それでも首を振る翔太に杉元は少し寂しくなった。
もっと俺にも我儘を言ってくれてもいいのに──杉元の中で、またあのモヤモヤとした気持ちが燻った。

「……じゃあ、そろそろ戻ろうか」
「……うん」

そっと手を差し伸べた杉元に、翔太は躊躇いなく自分の手を伸ばして繋いだ。その躊躇いのなさが、今の杉元には不思議と心地よく思えた。


◆◆◆


杉元と翔太がアパートへと戻ると、ちょうど今帰宅したばかりのアシリパと偶然出会った。
制服姿のアシリパは杉元と翔太が一緒にいるのを見るや否や、目を輝かせて二人の元まで駆け寄った。

「杉元!翔太!」
「アシリパお姉ちゃん……」
「あれ? アシリパさん、今帰り?」
「ああ、今日は部活も早く終わらせたからな。それより杉元、どうして翔太がここにいるんだ?」
「あー……えっと、今日はお泊まり会しようって話で……」
「そうなのか!それは楽しみだなぁ、翔太!」
「うん……」

満面の笑みで頭を撫でてくるアシリパに、翔太は頬を赤らめて頷いた。翔太は普段はなかなか会えないアシリパと、こうして触れ合えたことが嬉しいようだった。その照れ顔を見下ろした杉元は、ここに翔太を連れてきて少しは良かったかもしれないと思えた。自然と杉元の顔も綻ぶ。

「それで、杉元達のところはもう晩ご飯の献立は決まっているのか?」
「え? ああ、いや……それがまだなんだ。翔太くん、遠慮しちゃって食べたいもの教えてくれなくてさ……」
「だったらオムライスにしよう!私も今夜そっちに行くからな!」
「えっ!? アシリパさんまた俺の部屋に来るの!?」
「なんだ、ダメなのか」
「いやっ……だって、年頃の子がそんな……」

ごにょごにょと言い淀む杉元にアシリパは呆れた顔をして見せ、持っていたラクロスのクロスを肩に掛けた。

「杉元……まだお前はそんなことを気にしているのか? 私と祖母はこのアパートの一階に住んでいるんだから関係ないだろう」
「俺、アシリパさんの将来がちょっと心配になるよ……」
「余計なお世話だ。後で材料を持ってそっちに行くから鍵は開けておくんだぞ、杉元」
「はぁ……しょうがないなぁ」

アシリパが来ることに翔太は期待しているのか、先程から会話する二人の顔を何度も交互に見比べていた。杉元が諦めて了承の意を示すと、翔太はより一層目を輝かせて喜んだ。この顔を見てしまうと、もう杉元はアシリパを追い返せない。苦笑しつつも、やれやれとため息をついた。

「来るのはいいけど、寝るときは絶対帰ってよ?」
「えっ!?」
「いや、『えっ!?』じゃないよ。翔太くんがいるからって流石にそれはダメだよ」
「じゃあ、翔太は私の部屋で一緒に寝よう」
「ダメだってばもう……諦めが悪いんだから……」

これ以上ここで会話を続けると、その内本当に翔太を取られかねないと懸念した杉元は翔太の手を引いた。

「行こう翔太くん。部屋でアシリパさんが来るのを待……」
「あっ……」
「……?」

杉元が手を引くと、何故か翔太は足を踏ん張らせた。まるでまだ帰りたくないとでも言うように、翔太は杉元の手を離そうとする。

「どうしたの?」
「僕、公園行く……」
「えっ? でも……もう帰るって流れだったよね?」
「……ちょっとだけ……」
「何か理由があるの?」
「…………」

杉元が優しく問い詰めても、翔太は俯いて何も言わない。これに杉元とアシリパはお互いに顔を合わせて首を傾げた。理由を話そうとしない翔太に、杉元は優しく笑いかけて「いいよ。戻ろうか」と声をかけてやった。その瞬間、翔太の嬉しそうな顔が上がる。わかりやすい反応に杉元は思わず笑ってしまった。

「じゃあ私は一度自分の部屋に戻るぞ、杉元」
「ああ、うん。俺たちもすぐ戻ると思うから、アシリパさんも来るならもっと後からでもいいよ」
「わかった。じゃあまた後でな、翔太」
「うん……!」

翔太は大きく頷くと、手を振り去って行くアシリパに同じようにして手を振った。

「……じゃ、公園まで戻ろうか」
「うん」

杉元はそのまま方向転換し、翔太を連れて公園まで戻った。

──それにしても何でまた公園まで戻ろうとするんだろう。

杉元は隣を歩く翔太を一瞥してふと考えてみた。
特に何かを持って行ってはいないので、忘れ物をしたというわけではないだろう。やっぱり友達を作りたかったという風にも見えない。翔太はただ公園を目指して歩いていた。


二人が公園にたどり着くと、ちょうど公園から出ようとしていたヴァシリと再会した。翔太はハッとして、杉元の後ろへとススス……と隠れる。ヴァシリはその反応を見ると慌てた様子で片手を伸ばしたが、翔太の怯えを感じ取ったのか、その手は何も掴めないまま大人しく下がった。

「もう帰るのか?」
「…………」
「じゃあな」

頷くヴァシリに別れを告げ、杉元は翔太の手を引くと公園へ入って行った。

「あっ、翔太くん!」

翔太は公園に着くなり杉元の手を離して、真っ先に奥まで走って行った。焦った杉元が慌ててその後を追い掛ける。

「翔太くん、どうしたの?」

杉元が追いつく頃には翔太は茂みの側で屈みこんでいた。後ろからそっと覗き込むと、翔太は茂みの下から何かを引き抜いていた。

「もしかして、また猫じゃらし……」
「お花」
「えっ?」

翔太は杉元の顔の前に、引き抜いたものを見せつけた。翔太の手に握られていたのは、小ぶりな黄色い花だった。雑草の中にぽつぽつと不規則に咲いているそれは、おそらく誰のものでもない雑草花の一つだろう。杉元は目を瞬かせ、突き付けられたその花を手に取った。

「へぇ……小さくて可愛いお花だね」
「アシリパお姉ちゃんにあげるの」
「えっ」

翔太はニコリと笑って、両手に握りしめた花を口元まで持ち上げた。

「お父さんがお家に帰ってくるときはいつもお花を持って帰って来てね、お母さんにプレゼントするの。そうしたらね、お母さんがすごく喜ぶの。女の子はお花が好きなのよって、お母さんが言ってた」
「そうなんだ……素敵な話だね。アシリパさんもきっと喜んでくれるよ」
「うんっ」

翔太は摘んだ花を嬉しそうに握りしめて頷いた。杉元は、こんな天使のような子がこの世に存在したのかと、感動に目を涙で滲ませた。

「じゃあ、早速アシリパさんに持って行ってあげようか」
「うん……あ」
「? どうしたの?」

用も済んだので帰ろうとした杉元の元から、翔太はまたも離れて行った。今度は近くにあるベンチの元まで行って、翔太はそこで何かを拾い上げた。その手には、何か細長いものが握られている。

「今度は何を見つけて来たの?」

戻ってきた翔太に杉元が問うと、翔太は拾ってきたそれを見せてくれた。

「それは……鉛筆?」
「うん」
「誰の……あ」

杉元はすぐに思い当たった。こんなところで鉛筆を使うのは彼くらいしか思い浮かばない。

「ヴァシリが落としたのか……」
「……?」
「翔太くん、その鉛筆はさっき会ったヴァシリのものだよ」
「……外国の人?」
「うん。お隣さんだし、届けてあげようか」
「……うん」

翔太はまだ少しヴァシリに対して苦手意識があるのか、杉元の提案に渋い顔で頷いて見せた。何だったら俺だけで届けてやってもいいけど──そう思ってはみたが、杉元は翔太の成長のためにも、ここはやはり誰かとコミュニケーションを取れるようにしておくべきだと考え直した。


二人はそのままアパートへと向かい、杉元は自分の部屋の隣にあるドアの前で行くとそこで立ち止まった。持っていた鉛筆を翔太に渡し、インターホンを鳴らす。翔太の顔は緊張に強張っていた。

「大丈夫だよ。悪い奴じゃないから」
「ん……」

間もなくして、部屋のドアが開かれた。相変わらず黒いマスクを着用したヴァシリが、外で会った時と違う部屋着の姿で出てきた。着ていたシャツには何故か『しゃぶしゃぶ』という日本語がプリントされている。

杉元はそのファッションセンスに思わずツッコミを入れそうになったが、ここに来た目的を思い出すとそっと翔太の背中に手を添えてやった。

「突然悪いな。実は……ほら、翔太くん」
「……ん」
「……!」

杉元に促され、翔太はもじもじとしながら持っていた鉛筆をヴァシリに差し出した。ヴァシリは目を見開き、しばらく翔太と差し出された鉛筆を見比べていた。

「……落し物……」

翔太が震えながら言葉を発したのを合図に、ようやくヴァシリは翔太の手から鉛筆を受け取った。ヴァシリは受け取った鉛筆を少し興奮したように眺めると、突然片手を突き出し「待ってろ」とでも言うように制止をかけた。そのまま部屋の奥に消えたかと思うと、ヴァシリは何かを持って玄関まで戻ってきた。その手には、一枚の紙と小さな袋がある。彼はそれを、翔太の前に差し出した。

「あっ……」
「うわっ、似顔絵か……!?」

ヴァシリが差し出した紙には、翔太の似顔絵が描かれてあった。といってもそれは、風景画に溶け込んだものである。途中まで風景のみを描いていた中に、後から翔太の姿を描き足したようだった。猫じゃらしを持って笑う翔太の姿は、杉元の目から見てもとても愛らしいものだった。

「すごいな、お前!美大生って聞いてたけど、ここまで上手く描けるものなんだな!」
「わぁ……」

翔太は初めて描いてもらった似顔絵に感動しているようだった。あんな短時間でここまで正確に描写できるヴァシリの才能に、翔太は感嘆の声を漏らして目を輝かせている。ヴァシリは嬉しそうな翔太の反応に目を細ませた。

「ん? ……ねぇ翔太くん、これもくれるみたいだよ」
「えっ」

翔太がいつまでも紙を眺めていると、ヴァシリがずいと袋を差し出してきた。杉元が指摘すると翔太はようやく顔を上げて、その差し出された袋を受け取った。袋には何か、外国語のような文字が印字されている。

「たぶん、お菓子じゃないかな」
「……!いいの……?」

翔太が戸惑った様子で問うと、ヴァシリは微笑みながら頷いた。翔太は頬を赤らめるなり、慌てて頭を下げた。

「あ、ありがとう……!」
「良かったね、翔太くん」
「うん……!」

感極まる翔太の様子にヴァシリも手を振って見せた。「気にしないで」と言いたいのか、それとも「それじゃあまたね」と言いたいのか──何も話さないヴァシリに翔太は同じように笑顔で手を振って見せた。

「ヴァシリお兄ちゃん、またね。ありがとう」

翔太はそのどちらともとれる返事を返した。そうしてしばらく二人の手の振り合いが続く。

「…………」
「…………」
「…………いや、長くない?」

終わりが見えない手の振り合いにようやく杉元が止めに入った。

ヴァシリは別れを名残惜しんでいたが、杉元はいつまでもこうしている訳にもいかないので半ば強制的に翔太を自分の部屋へと連れて帰った。


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