海賊の子 | ナノ

壊れた心


「翔太、明日はシリアル食べてみるか?」

そう言って由兄ちゃんは、顔くらい大きな箱を手に取って僕を見下ろした。ここは何でも屋さんで、いま僕と由兄ちゃんはお買い物をしている。

「シリアル?」
「おう、牛乳と混ぜて食べるやつ」
「おいしい?」
「まぁな」
「じゃあ、食べる!」
「よし、明日の朝飯決定!そうと決まればあとは牛乳〜……」

楽しそうな顔でカートを押す由兄ちゃんの後を追いかける。牛乳がある場所は、お肉が売ってあるところをまっすぐ進んだ先にある左の方だ。僕はもう、この何でも屋さんの中の売り物がどこにあるのかほとんど知っている。

「由兄ちゃん、待って〜」
「うふふ〜。ほらほら翔太〜、捕まえてごらんなさ〜い」
「もぉ〜!」

由兄ちゃんはふざけて僕の先を少し早く歩く。由兄ちゃんばっかりカートを押してズルい。僕もカートを押してみたいのに、全然替わってくれない。僕はどんどん先に進む由兄ちゃんの後を追いかけた。

「急ぎすぎて転けるなよ、翔太……ッうわ!」
「きゃあっ」
「あっ」

由兄ちゃんが僕の方に振り向きながら歩いていたら、前の角から出てきた人とぶつかった。カートとカートがぶつかったから、ガシャンと大きな音が鳴った。由兄ちゃんは慌てて頭を下げた。

「す、すみません!全然前見てなくて……!」
「ああ、いいんですよ。そんな、お気になさらないで」

僕が追いつくと、由兄ちゃんはゆっくりと頭を上げてびっくりしたように目を見開いた。由兄ちゃんとぶつかった人は、とってもとっても綺麗な女の人だった。すらりとしていて、爪にはキラキラの絵の具がつけてある。見たこともないくらいの長いまつ毛をしていた。

「こちらこそ、前方不注意だったので……お怪我はありませんか?」
「……あっ、い、いいえ!俺は全然……」
「あら、可愛いお子さんですね」
「……!」

女の人と目が合った。僕は急いで由兄ちゃんの後ろに隠れた。そうしたら女の人はニコリと笑って、由兄ちゃんはその笑顔を見て顔を真っ赤にさせた。

「息子さんですか?」
「い、いえ!この子は兄の子で……」
「まあ、面倒見のいい方なんですね。こんなに懐いて……うふふ、可愛い」
「……あの、お見掛けしない方ですね。近所にお住まいなんですか? 俺、白石由竹って言います。貴女のようなお美しい方とこうして出会えたのも何かのご縁……良ければ今度お茶でもいかがですか?」
「まあ、ふふふっ……!いいんですか?」
「もちろん!」
「…………」

由兄ちゃん、いつもより顔が真っ赤で目がキラキラしている。もしかして、この女の人と友達になりたいのかな。
僕は女の人の顔を覗き見てみた。やっぱりすごく綺麗な人だ。でも、何で爪に絵の具を塗っているんだろう。僕はそれが一番よく分からなかった。

「ほら、行こうぜ翔太」
「あっ……」

僕がじっと女の人を見ているうちに、由兄ちゃんは女の人とお話しが終わったみたいだ。鼻の下を伸ばしている由兄ちゃんがるんるんと前を歩くから、僕も慌てて後を追いかけた。由兄ちゃんは鼻歌まで歌っていて、すごく機嫌が良さそうだ。

「……ねぇ、由兄ちゃん」
「ん〜? 何だ?」
「由兄ちゃんは、あの人とお友達になりたいの?」
「お友達……お友達ねぇ〜。まあ、まずはそこからかな〜」
「……?」

由兄ちゃんはさっきからなんだか変だ。デレデレとしていて、恥ずかしそうな顔で笑う。頭の後ろを何度も掻いて、ニヤニヤしながらお買い物を続けた。

その時の由兄ちゃんは、僕のお母さんとイチャイチャするお父さんとそっくりな顔をしていた。


◆◆◆


次の日の朝、僕が目を覚ましたら由兄ちゃんはもうお洋服に着替えていた。いつもと違ってしっかりとした格好をしているから、今日もどこかにお出掛けするのかな。

「あっ、おはよう翔太!今日由兄ちゃんな、大事な用事があるから帰りが遅くなるかもしれねぇんだ」
「えっ……」
「杉元も昼前には来るから、今日は二人でお留守番できるか?」
「……うん」

僕は小さく頷いた。由兄ちゃんはニカッと笑うと「じゃ、朝飯にするか」と言って台所に向かった。

こんなのいつものことなのに、やっぱり由兄ちゃんと一緒にいられないのは少し寂しい。でも、由兄ちゃんは忙しいから──お父さんやお母さんみたいに、僕を置いて行かなきゃ何もできなくなっちゃう。だから、僕も我慢しないといけない。寂しいなんて言ったら、由兄ちゃんが困っちゃう。

「ほら、シリアル」
「あ……」

テーブルの上を見つめていたら、由兄ちゃんが何か、白いスープのようなものを僕の前に出した。シリアルって、このスープみたいなお料理のことなんだ。お皿を触ってみたら、スープみたいなのに冷たくてなんだか甘い匂いがする。甘いスープは飲んだことがないから不思議な感じだった。

僕がテーブルに置かれたスプーンで食べようとすると、由兄ちゃんの携帯から突然電話が鳴った。由兄ちゃんは慌てて電話に出て、目をキラキラさせた。

「あっ、おはようございます!……いえいえ!大丈夫ですよ!……えっ、もう駅に? あっ、迎えに行きます!ええ、大丈夫ですよ!この白石に全てお任せください!」
「……?」

由兄ちゃんは顔を赤くさせてなんだか興奮しているみたいだった。それに、なんだかちょっと嬉しそうな顔をしていた。

「翔太!悪いけど由兄ちゃん今からもう出るから……」
「え……」
「それ食ったらちゃんと歯磨きして、杉元が来たらついでに食器洗ってもらっとけよー!」
「由兄ちゃ……」

由兄ちゃんはバタバタと落ち着かないままお家から出て行った。あんな風に慌ててお出掛けする由兄ちゃんは初めて見た。一体どこに行くんだろう。楽しいところなのかな。僕はついて行っちゃダメなのかな。

「……ついて、行っちゃ……ダメ」

お父さんもお母さんも、みんな僕を置いていく。お父さんは海賊船に乗って宝物を手に入れに海へ行くのに、僕は連れて行ってもらえなかった。お母さんは魔法を使って世界を飛び回るのに、僕は連れて行ってもらえなかった。僕にだけ、なんにもない。船も魔法もなんにもない。だからいっぱいお勉強して、いつかお父さんとお母さんと一緒にいられるようになろうと思ってたのに──

「……いいもん」

由兄ちゃんは毎日帰ってきてくれる。僕と毎日お風呂に入ってくれる。毎日毎日お布団で一緒に寝てくれる。だから、寂しくなんかない。少しくらい、待つことなんて平気だもん。

きっと、すぐに帰って来てくれる──


◆◆◆


「……翔太くん、もう寝る?」
「ん……」

杉元お兄ちゃんの声に、パチッと目が覚めた。顔を上げたら、苦笑いした杉元お兄ちゃんが僕の顔を覗いていた。

「もう0時過ぎだよ。白石、まだ帰らないかもしれないし……もうお布団に入ろうよ」
「んん……」
「翔太くん……」

僕は首を振った。由兄ちゃんが帰ってくるまで僕は待つことに決めたんだ。夜ご飯もお風呂も杉元お兄ちゃんと終わらせちゃったけど、眠るときは由兄ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ。

「……はぁ。じゃあもう一回、電話掛けてみるね?」
「ん……」

そう言うと杉元お兄ちゃんは立ち上がって、自分の携帯で電話をかけ始めた。すると、電話が繋がったみたいで杉元お兄ちゃんは何かを話しながら玄関の方へ向かって行った。

「おい……遅過ぎるぞお前。……いや、遅くなるとは聞いてたけど……。……翔太くん? まだ起きてるよ。……本当か? ……わかった。じゃあ戸締りして俺は帰るぞ」

電話が終わったみたいで、杉元お兄ちゃんはこっちに振り返ると歩いて戻ってきた。眠い目をこすっていたら、杉元お兄ちゃんは僕の頭を撫でて優しく笑った。

「翔太くん、白石もうすぐ帰ってくるって。いま、団地の下にいるらしいよ」
「……ほんと?」
「うん。俺ももう帰るから、白石が来るまで鍵とか窓とか開けちゃダメだよ」
「ん……バイバイ、杉元お兄ちゃん……」
「バイバイ翔太くん。おやすみ」
「ん……」

杉元お兄ちゃんは立ち上がって、荷物をまとめると玄関まで向かった。僕がウトウトとしているうちに杉元お兄ちゃんは出て行ったみたいで、ドアの閉まる音と一緒に鍵がかけられる音が聞こえた。

──すごく、眠たい。
でも今寝ちゃったら、由兄ちゃんと一緒に寝ることができなくなっちゃう。もうちょっと、後もうちょっとで帰ってくる。僕は頭を振ったり目をこすったりして、由兄ちゃんの帰りをずっと待った。


しばらくすると、玄関の鍵が開けられるような音が聞こえた。僕は下がりかけた瞼をパチリと開けて、急いで玄関まで向かった。

「由兄ちゃ……」
「汚いけど、どうぞ〜」
「お邪魔します〜」
「っ!」

この人は、だれ?

開いた玄関のドアの向こうから、由兄ちゃんと、女の人が現れた。僕は女の人の顔を見て、ハッとした。
この人はたしか、昨日何でも屋さんで由兄ちゃんとぶつかった綺麗な女の人だ。どうして由兄ちゃんと一緒にいるんだろう。何でここに来たんだろう。だってもう、寝る時間なのに──

「あっ、翔太〜。まだ寝てなかったのか」
「こんばんは、翔太くん」
「ぁ……」
「翔太、この人、エイコさんって言う人で……昨日会ったから覚えるよな? それで、終電ないみたいだから……今夜ここに泊まるんだ」
「ごめんね、突然お邪魔しちゃって」
「…………」

僕は、すごく嫌だった。この女の人の匂いも、顔も、声も嫌だった。きっとこの人は、僕の由兄ちゃんを盗ろうとしてるんだ。
僕は由兄ちゃんを盗られないように足にしがみついた。

「あっ、コラ!挨拶しろよ翔太」
「……っ」
「寂しかったのよね、翔太くん」
「…………」
「ごめんね〜。こいつ人見知りなところあって……」
「……由兄ちゃん、早く僕と寝よ……」
「えっ。あー……そう、だな」
「……?」

由兄ちゃんは困ったような顔で頬っぺたを掻くと、後ろにいる女の人の顔をチラチラと見た。女の人はずっとニコニコとしていて、由兄ちゃんが玄関から動かないのを見ると突然由兄ちゃんの腕に手を回した。由兄ちゃんの顔が、りんごみたいに真っ赤になった。

「別に……今日じゃなくても、いいのよ?」
「えっ、ああ、いやっ……!」
「それとも……寝かせた後にでも……」
「……っ!」

由兄ちゃんの耳元で、女の人がコソコソと何か話している。僕はムッとなって、由兄ちゃんの足を引っ張った。そうしたら由兄ちゃんはハッとなって僕を見下ろして、慌てた様子でお家の中に入った。

「翔太!晩飯と風呂は済ませてるよな?」
「……うん」
「じゃあ布団敷いてやるから、一緒に寝ようぜ!」
「…………」

由兄ちゃんは何故か真っ赤な顔でお布団を敷き始めた。僕はその間に後ろに立っている女の人の顔をちらりと覗き見た。ずっと携帯を見ている。その時初めて見た女の人の無表情が、少しだけ怖かった。

「翔太、今日はこっちの部屋で寝ようぜ」
「えっ」

そう言って由兄ちゃんは、普段使わない隣のお部屋に入って行った。そして何故か、由兄ちゃんは僕が使うお布団をそこに敷いた。いつもはリビングで由兄ちゃんのお布団と並べているのに、どうして僕のだけこのお部屋に敷くんだろう。

「ほら、来いよ。もう眠いだろ? 添い寝してやるから……」
「……由兄ちゃんのお布団は?」
「俺の布団? あ、ああそれは……あの、エイコさんに使ってもらうから……」
「…………」

僕はその時、由兄ちゃんと一緒に寝るはずだった場所を盗られたような、嫌な気分になった。ムッとしながら僕がお布団に入ったら、由兄ちゃんも一緒にお布団に入ってくれて、掛け布団を上からかけてくれた。その時添い寝してくれた由兄ちゃんは、やっといつもの由兄ちゃんみたいに笑ってくれて、僕のことを優しく見つめた。

「……ほら、目を閉じないと眠れないだろ?」
「…………由兄ちゃん」
「ん?」
「……絶対、どこにも行かないでね……」
「……ああ。わかった」

掛け布団の上からぽんほんとされて、だんだんと瞼が重くなる。今までずっと眠たいのを我慢していたから、すぐに瞼を閉じてしまった。なんだか眠っちゃダメなような気がしたけど──閉じた瞼はもう上がらなかった。


◆◆◆


「おはよう、翔太くん」
「……!」

由兄ちゃんじゃない声にびっくりして僕は目を覚ました。勢いよく飛び起きたら、隣には見覚えのない女の人がいた。一瞬誰だかわからなかったけど、すぐにこの女の人が由兄ちゃんが連れてきた女の人だと気付いた。

「由竹くん、用事があるらしいからもう出掛けてるの。翔太くん、一緒に朝ご飯食べましょう?」
「…………」

お部屋を見渡してみたけど、本当に由兄ちゃんはいなかった。今は何時だろうと時計を見たら、もう朝の9時だった。昨日夜更かししちゃったから、今日はお寝坊さんだ。

「……由兄ちゃん、どこ行ったの……?」
「だから、用事があるから……」
「なんでまだここにいるの……?」
「…………」

僕がそう訊くと、女の人は眉間にシワを寄せて僕をにらんだ。その顔にびっくりして僕が口を閉じると、女の人は黙ったまま立ち上がってお部屋から出て行った。女の人のあんな怖い顔、初めて見た。僕は怖くて、しばらくお部屋から出られなかった。




着替えてしばらくじっとしていたけど、お腹が空いて僕は仕方なくお部屋から出ることにした。女の人は、まだリビングにいた。携帯を見ながらのんびりしている。僕はビクビクしながら台所に向かった。

「あ……」

台所の流しの中に、昨日食べたあの白いスープの中身が捨ててあった。由兄ちゃんが買ってくれたシリアルだ。空っぽのシリアルの箱が、ゴミ箱から見えた。

「あれ? 食べたかったの?」

驚いたような声が後ろから聞こえた。振り返ったら、携帯を片手に持った女の人が僕を見下ろしていた。

「ごめーん。だって翔太くん、出てこないんだもん。お腹空いてないのかと思っちゃった」
「…………」
「何、その顔。私が悪いわけ?」
「ぅ……」
「一緒に食べようって誘ったのに出てこない翔太くんが悪いんじゃん。由竹くんの前でこの事言って泣いたりしないでよ? 私悪くないんだから」
「…………」

僕は小さくうなずいた。誘われたのに出てこなかった僕が悪いから、しょうがないと思ったからだ。泣きそうになったけど、僕はなんとか我慢して顔を洗いに洗面所まで行った。

「あ、そうだ。翔太くんさー」
「……?」

洗面所に入ると、後ろからあの女の人がやって来た。

「洗濯物干せるよね?」
「ぇ……」
「もう洗ってあるから、洗濯機の中の洗濯物干しといてね」
「ぇっ……ぁ……でも、僕……届かない……」
「はぁ? 届かないじゃないでしょ。干したくないからって嘘つくなよ」
「で、でも……」
「あんた由竹くんに面倒見てもらってるのに家のこと手伝いもしないの? どんだけ甘える気?」
「ぅ……」

でも、本当に僕の身長じゃ竿に手が届かないんだもん。そう言いたかったけど、女の人が怖くて僕は何も言えなかった。ずっと下を俯いていたら、女の人がこっちまで歩いて来た。ビクリと肩を震わせたら、女の人は僕の腕を掴んで洗濯機の前まで引きずった。

「ぃやっ……」
「これくらいやれよ!」
「うぅ……っ」
「早くしろって!」

僕は女の人の言うことを聞いて、洗濯物を取り出してカゴの中に入れた。カゴが重たくて引きずったら、突然女の人に頬っぺたを叩かれた。ジンジンとして痛いのがジワリときて、目からポロリと涙が落ちた。

「何引きずって楽してんだよ!持てよちゃんと!ほらっ!」
「うぅーっ……ぅっ、うっ……」
「あーもう面倒くさっ!だからガキって嫌いなのよ……!」

女の人は洗ったばかりの洗濯物で、僕の顔を乱暴に拭った。それが痛くて暴れたら、女の人がまた手を挙げて、僕は叩かれると思って目をぎゅっと閉じた。

「叩かれたくないなら早く干して!できるでしょ!?」
「ぅ……」

僕はコクコクと頷いた。重たい洗濯カゴを慌てて持ち上げて、落とさないようにしながらゆっくりとベランダまで向かった。

「ひっく……ぐすっ……」

ベランダに出て、僕は鼻をすすりながらハンガーを取った。由兄ちゃんの大きなシャツをハンガーにかけて、めいっぱいに手を伸ばして竿まで持ち上げた。でもやっぱり、僕の身長じゃうまくハンガーが掛からない。それでも何度かジャンプして、ようやく一つ干すことができた。

激しく動いたから汗が出た。外は暑くて、喉が乾く。お水が飲みたい。
僕がベランダからリビングに戻ろうと振り返ったら、あの女の人が立っていた。僕はうっかり悲鳴を上げそうになって、慌てて両手で口を押さえた。

「あんたさ、まだ干し終わってないのに何部屋に戻ろうとしてんの? 終わるまで中に入れないからね?」
「……っ」

そう言って女の人はピシャリと窓を閉じた。鍵をかけられて、カーテンまで閉められた。

「……ぅ、うっ……うえぇ……」

僕はもう我慢できなくて、その場に屈みこむと泣き出してしまった。

「よしにぃちゃぁ……ひっく、よしにぃちゃぁん……!」

手が震える。顔が熱くて、涙も鼻水も止まらない。早く由兄ちゃんに帰って来てほしかった。もうあの女の人と一緒に居たくなかった。

「ひっく……ひっく……」

僕は立ち上がって、後ろを振り向いた。ベランダの柵の上によじ登って、下を見下ろした。思った以上に高くて、ここから落ちるのは少し怖かった。だけど──

「ぐすっ……ぐすっ……」

僕は柵に脚をかけた。太陽の光で焼けた鉄の柵は熱い。頑張って登ると、景色がもっと広く見えた。
ここから降りたら、あの女の人がいる部屋に戻らなくていいし、由兄ちゃんにも会えるかもしれない。

「ぐすっ……由兄ちゃん……」


僕は勇気を出して、柵から飛び降りた。


「ッおい!!」
「っ!」

その瞬間、突然横から服を掴まれて引っ張られた。体が傾いて下に落ちそうになったけど、すぐに腕を掴まれて上に引きずり上げられた。首が一瞬締まって苦しかったし、強く腕を握られて痛かったけど、引き上げられた瞬間にしっかりと抱きしめられて、僕は何もかもが頭の中から吹き飛んでしまった。

「何考えてんだお前……!死ぬ気か……!」
「…………」

驚いた顔をした尾形お兄ちゃんが、僕の両肩を掴んで僕の顔を見つめていた。尾形お兄ちゃんの顔を見た瞬間、僕は咄嗟に言葉が出せなくなってしまった。僕が何も言わないでいると、尾形お兄ちゃんは眉間にシワを寄せて僕の目元を親指で撫でてきた。さっきまで涙が出ていたから、尾形お兄ちゃんの指は涙に濡れた。すると今度は、その手がそのまま僕の頬っぺたに滑る。僕は女の人に叩かれたことを思い出して、また涙を流した。

「……誰がやった」

尾形お兄ちゃんはいつもより低い声でそう訊いた。僕はまだうまく言葉が出てこなくて、静かに泣くことしかできなかった。

「……来い」

僕が何も言えずにいると、尾形お兄ちゃんは僕を腕に抱いてお部屋の中に連れ込んだ。お部屋に入ると涼しい風が吹いて、僕の前髪を少しだけ吹き上げた。風が冷たくて気持ちいい。気持ちよくて、何も考えられなくなる。

「ここで待ってろ」

尾形お兄ちゃんは僕をソファーの上に降ろして台所まで向かった。僕が膝を抱えて待っていると、ガサゴソした音の後にしばらくして、尾形お兄ちゃんがこっちまで戻って来た。その手には、何か袋のようなものがある。

「これで冷やしとけ」
「っ……」

冷たい。突然頬っぺたに冷たい袋をくっつけられた。でも、氷みたいに冷たいのに氷みたいに触っても手が濡れない。不思議な氷の袋だ。

「白石はどうした」
「…………」
「翔太」
「…………」

僕は首を振った。どこにいるかなんて僕にもわからない。あの女の人なら知ってるかもしれないけど、戻って訊く気にはなれなかった。その時女の人の顔を思い出してしまって、僕の体が無意識に震え出した。頬っぺたを叩かれた時のことがまだ頭から離れない。僕は下を俯いてボロボロと涙をこぼした。

「…………」

尾形お兄ちゃんはそれ以上何も訊かずに、僕の頭の上に手を置いた。手を置いても、由兄ちゃんみたいに撫でてはくれない。

それでも、それだけで僕は安心できた。


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