渇愛の先
第七団地公園前交番──
二階堂洋平は、朝の立番を終えた後に在所にて書類整理を進めていた。浩平からの引き継ぎを確認し、今日行う業務の予定表に目を通す。
「尾形さん、判子下さい」
「部長に言え」
「尾形さんが近いんで」
そう言って洋平が差し出してきた書類を、すぐ近くで事務に当たっていた尾形は面倒くさそうに奪い取った。相変わらず協調性のない部下達を側から見ていた月島は、今日も何かと苦労するだろうなと先の事に頭を悩ませた。
「……一つ訊きたいんすけどぉ……」
洋平は書類とにらめっこさせていた視線をついと上げ、開いたままにされた交番の出入り口へと向けた。
「何であの子供がいるんです?」
洋平が指摘した先にいたのは、交番前の木陰でしゃがみ込んだ翔太だった。翔太は水筒を肩からかけて、交番前にある茂みの下を熱心に見つめている。何かを指でつついていた。
「また誰かが連れてきたんですか? ……まさか谷垣?」
「あ? いや、俺じゃないが……」
尋ねられた谷垣が困惑した顔を机から上げた。洋平は振り返り、ファイルを開いて目を通していた月島の方へ顔を向ける。視線に気付いた月島は訝しげな顔をして「俺なわけないだろう」と首を振った。
「…………」
三人の視線が一斉に尾形へと向けられた。尾形はその熱い視線など気にも留めず、黙々と判子を押す作業に勤しんでいる。月島が軽く咳払いして見せると、尾形はそこでようやく目を閉じてため息をついた。
「何ですか。俺の背中に答えが書いてあるとでも? 言いたいことがあるならハッキリ仰ったらどうです?」
「尾形巡査長、お前があの子を連れてきたのか?」
「俺がいつ子供を連れて署に行きましたか? 勝手に向こうから来たんですよ」
まるで自分は関係ないとばかりに言う尾形であったが──
「尾形お兄ちゃん、蝉が落ちてた」
「拾って来るなそんなもん」
翔太は死んでしまって動かなくなった蝉の死骸を在所の机の上に転がした。蝉に付着していた土が、ちょうど判子を押したばかりの尾形の書類にかかる。それでも尾形は淡々としていた。
「落し物……」
「死骸は遺失物には含まれん」
「じゃあ、僕落し物探してくる」
「いい。余計な仕事が増える」
「あっ!ちょっと!」
尾形は蝉の死骸を洋平の机に放り投げ、書類の上の土埃を手で払った。すかさず抗議の声を上げるが、尾形は全く知らん顔で事務作業に入っている。洋平は「ばっちぃ……」と顔を歪ませて、蝉の死骸を指先で摘み上げた。
「おい、お前!コレ持って帰れ!」
「……? 僕?」
「そうだよ!」
洋平は摘んだ蝉の死骸を、机の前にまでやってきた翔太に突き出した。翔太は両手を受け皿にさせ、死骸を受け取った。洋平は未だに嫌々した様子で汚れた手を振った。
「仕事の邪魔するなよお前!遊ぶなら公園行ってこい!」
「うん」
「おい、見える位置にいろ」
「うん」
「やっぱ尾形さんが連れてきたんじゃないですか!」
洋平が公園に行けと言った直後に尾形は翔太の遊ぶ範囲を指定した。洋平は勢いよく立ち上がってここぞとばかりに尾形を指差す。翔太はその間にも再び交番前まで行って、先ほどと同じように木陰の下に屈み込んでいる。月島はやれやれといった風に首を振って、痛む頭を抱えた。
「もういいから仕事をしろ、二階堂」
「絶対また何か持ってきますって!邪魔でしょあんなのいたら!」
「いいんじゃないか? 俺は気にならないぞ」
「谷垣の意見は聞いてない!」
尾形は自分のすぐ横で騒いでいる洋平の声を意識の片隅にやりながら、ふと視線を交番前へと向けた。木陰の下では屈み込んだ翔太が相変わらず地面を見つめてじっとしている。アリの行進でも見ているのか、それとも目新しい虫でも探しているのか──尾形は翔太の視線の先を予想し、結んだままの唇に微かな笑みを浮かべた。
その一瞬の表情の変化を偶然見てしまった月島は驚愕に目を見開き、尾形と翔太を何度か見比べた。普段何を考えているのかわからんこの男でもこんな表情を見せるのかと、月島は驚きと共にどこか温かい気持ちで彼の横顔を見つめた。
「……二階堂。浩平が警らから戻ってきたら、尾形の処理済み書類をファイルにまとめておくように」
「え〜っ!何でまた俺なんですか!」
「お前が手をつけた書類だろう」
「……浩平が作成したのに……」
「ぐちぐち文句を言うな」
分厚いファイルで後頭部を軽く叩かれた洋平が不満そうに唇を尖らせた。やる気も削げてしまい、洋平がだらだらと書類を書き進めていると、突然机の上に蝉の抜け殻が転がり込んできた。洋平は声にならない悲鳴を上げて椅子から飛び退いた。そして目の前にいた犯人を見るなり、洋平は拳を震わせて怒りを露わにした。
「……ッまたお前かよ!」
「落し物……」
「蝉の抜け殻は落し物じゃねぇっ!」
「ふっ……ある意味では遺失物だな」
「ふふふっ……!」
「谷垣お前笑ってんじゃねーよ!部長も笑ってないで何とかしてくださいよ!仕事捗らないんすけど!」
「お前の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったな、二階堂。そんなに仕事が好きだったのか」
「何ですかその六法全書」
「これか? 二日分の未処理ファイルだ」
ドサッと机の上に落とされた二冊分の分厚いファイルを前にして、洋平は今度は肩を小刻みに震わせた。机のふちに手をかけてファイルを見た翔太は「ふおぉ」と感嘆の声を漏らす。洋平はそんな翔太に対しキツい視線でキッと睨みつけるが、視線に気付いた翔太は洋平の顔を見るなり、花が咲いたように微笑んで見せた。洋平はしばらく唸り声を上げたが、全く怯む様子を見せない翔太についに根を上げた。対応を諦め、大人しく自分の仕事に戻る。
「翔太くんも、そのお巡りさんの仕事を邪魔しちゃダメだよ」
「はぁい」
月島に注意を受けた翔太は机から離れると再び交番前に戻って行った。ようやく静けさを取り戻した交番の前では、アブラゼミの鳴く声が聞こえる。交番内の誰かが在所を出入りするたびに、交番前の茂みに隠れて遊ぶ翔太を視線に捉えて無意識のうちに微笑んだ。
しばらくそうした時間が続き、時刻が昼時になった頃──
月島はふと時計に目をやり、黙々と書類整理を進めていた尾形の元まで向かった。
「尾形」
「はい?」
後ろから肩を叩かれて尾形は振り返った。月島が時計を指し「昼食をとっていい」と伝えると、尾形は時計を一瞥してから「ではお先に」と短く返す。その声が少しだけ憂鬱げだったのに月島は気付いたが、その理由には心当たりがあったので敢えて何も言わなかった。
尾形が心底面倒くさそうに固定電話を取ったのを見て、谷垣は苦笑いを浮かべた。彼がこれから電話をかける先は一つしかない。
「……第七団地公園前交番の尾形です。これから昼食をとるので休憩します」
返事を待たずに切ろうとした尾形だったが、受話器から聞こえてきた警笛の音に気付いて彼は渋々受話器を耳に充てがった。
「……何ですか」
『尾形巡査長。月島に伝えておいてもらいたいことがある』
電話の相手は鶴見警部だった。ここの交番では何故か署に電話をかけると鶴見警部に繋がるのだ。電話をかける度何かしらアクションを起こす上司に嫌気を感じていた尾形は、早く切ってしまいたい気持ちに駆られながらも鶴見の話に耳を傾けた。
『最近、第七駅前から君達の管轄までの間に引ったくりが数件起きているのは朝礼でも伝えていたが……警らの人員を増やす方針に意見が固まったので、近いうちに門倉巡査部長か宇佐美巡査長をそちらに派遣する』
「……何故こっちなんです?」
『複数の目撃証言から、犯人が団地方面に向かって逃走しているのが判明した。現場を取り押さえるのが一番手っ取り早いが、用心に越したことはないだろう? そういうわけで、今日から君達も見回り強化だ』
鶴見は最後に「昼食は10分程度で済ませるように」と言い残し、電話を切った。尾形は最後の言葉については聞かなかったことにしようと決め込んだ。
「また何か言われたか?」
席を立った尾形を見て月島が声を掛けた。尾形は先ほど受けた連絡を簡単にメモしていたので、そのメモを月島に手渡し黙ったまま交番を出た。交番前の木陰の下まで向かうと、翔太がこちらに背を向けて屈んでいるのを見つけた。
「翔太」
「!」
尾形が声を掛けると翔太はゆっくりと後ろを振り向いた。土を扱った後に額の汗を拭ったのだろう。翔太の顔はところどころ土に汚れていた。
「もう昼飯の時間だ。出前を取るがお前も何か食うか?」
「でまえ? ……でまえってなぁに?」
「デリバリーのことだよ、ボンボンめ」
尾形は翔太の土に汚れた手を取ると上に引っ張り上げた。立ち上がった翔太の手を引いて交番まで戻ると、ちょうど電話対応にあたっていた月島が通り過ぎて行った二人を二度見して、慌てて尾形の制服を後ろから掴んだ。足止めを食らった尾形は煩わしげに月島に振り返ったが、月島は尾形の制服を掴んだまま電話対応を続け、しばらくしてから電話を切った。受話器を置いた月島がようやく尾形の制服から手を離す。尾形は月島に向き合った。
「何です?」
「まさか翔太くんを休憩室に入れるつもりか」
「目が届く場所ですので。何か問題でも?」
「色々と問題ありだが、今日はやめておけ」
てっきり公私混同について言及されるとばかり思っていた尾形は、月島の“今日は”という部分に違和感を感じた。月島は耳打ちするように声を潜ませた。
「もうすぐ鯉登警部補がいらっしゃるぞ」
なるほど。そうきたか──尾形の脳内にあの褐色肌の薩摩隼人が思い浮かんだ。鯉登警部補はこの交番の責任者でもある、いわゆる『ハコ長』だ。いつ視察等で訪れてもおかしくはない。ここでもしあの男が翔太を見たら、公私混同での説教レベルでは話は済まないだろう。おそらく翔太に出会えた喜びよりも、翔太と共に昼食をとる尾形を見て嫉妬心を剥き出しにして暴れ回るに違いない。
「……翔太」
「なぁに?」
屈託のない笑顔を見せながら首をかしげる翔太に、尾形は目線を合わせるようにその場で屈むと翔太の肩に手をやった。
「今日はもう俺の部屋に戻れ」
「えっ……」
「お前がここに来るとは思わなかったから昼食は既に作ってある。帰ったらそれを食え」
「でも……」
「いいか。帰ったら鍵を二重にかけて、俺以外誰も入れるな。お前の大好きな由兄ちゃんでもだ」
「……うん」
さっきまで一緒に昼食を食べる風だったというに、突然そんなことを言われてしまった翔太はショックで落ち込んでいる。翔太は尾形の手を離すと、そのまま踵を返しトボトボと引き返して行った。
「……すまないな、尾形」
「面倒なことになるよりマシです」
翔太の哀愁漂う背中を見た月島が、若干申し訳なさそうに尾形に謝った。尾形は翔太を見送るような真似はせず、目を背けるようにして休憩室へと入って行った。
「…………おい」
「……?」
交番を出ようとした翔太を、後ろから呼び止めるような声が聞こえた。翔太が振り返ると、机に頬杖をついた洋平がむすくれた顔で翔太を見つめていた。
「キャッチ」
「えっ……あっ」
何かを投げる素振りを見せてきた洋平に、翔太はあわあわと両手を出した。そして飛んできた小さな物体を、翔太は危うく取りこぼしそうになりながらもなんとかキャッチに成功した。手で挟むように掴んだそれを見てみると、それは包装された小さな飴だった。翔太は目を輝かせ、洋平の方へ顔を向けた。
しかし洋平は既に顔を俯かせて執務にあたっていた。こちらを一心に見つめる翔太の顔をちらりと見ようともしない。
「双子のお巡りさん、ありがとぉ!」
「え?」
「チッ……早く帰れって」
突然大声で礼を述べた翔太に谷垣は驚いて振り返った。注目されることが恥ずかしいのか、洋平は顔を赤らめて頭を抱えた。その様子を側から見ていた月島は苦笑して、バイバイと手を振る上機嫌な翔太に対し、洋平の代わりに手を振り返してやった。
走っていなくなった翔太が完全に見えなくなったところで、月島はそっと背後から洋平の側に寄った。
「……先日泣かせてしまったことへの贖罪か?」
「……っるさいっすよ。そんなんじゃないです」
「何故翔太くんが今日、お前に自分から近付いてきたかわかるか?」
「知りませんよそんなの。どうせ気まぐれでしょ。ガキなんですから」
ペットボトルのお茶を飲みながら恥ずかしさを誤魔化そうとする洋平に、月島は背後でそっと微笑んだ。そして机の上に置いてあった開封したばかりの袋飴を見やり、何かに納得したような様子で目を閉じると踵を返した。
「……前日、お前と全く同じことを浩平がしていたぞ」
「ブッ!」
「書類は濡らすなよ」
「ゲホッ!ゲホッ!……ッ今のワザとでしょ、部長!」
噎せて憤る洋平から逃げるように、月島は交番の奥へと姿を消した。
◆◆◆
翔太が尾形の部屋に戻って既に数時間が経った。夏は日が長いので、時刻が19時近くになってもまだ外は明るかった。尾形は朝早くにエアコンをつけたまま出勤したので、翔太が一人きりでいても部屋の中で熱中症になることはない。朝昼晩の食事も既に用意してあった。
それでも翔太は、一人きりで過ごす時間を嫌った。尾形は交番勤務の警察官なために帰るのは翌日になる。なので、今夜は尾形は帰らない。翔太は一人きりの夜を過ごすことになる。翔太はその事実をまだ知らない。
「……尾形お兄ちゃん、まだかなぁ」
時計を見やり、翔太はぼそりと呟いた。ひとりぼっちの寂しさが翔太の心をじわじわと蝕んでいく。そんな時、静かな部屋の中で突然翔太の腹の虫が鳴いた。翔太はお腹を抱えてソファーで丸くなった。
「……お腹空いた……」
それもそのはずである。翔太は夕食どころか、昼食すらとっていなかったのだ。尾形は出勤前に、翔太の分の朝食だけはローテーブルの上に出しておいてやった。しかし、昼食と夕食に限ってはどちらも傷まないように冷蔵庫の中に入れていたのだ。由竹の家で暮らす間、翔太は冷蔵庫を開ける習慣(そもそも冷蔵庫の中に食べ物があるという認識)がなかったので、尾形の言う昼食がどこにあるのかわからなかった。これは尾形の盲点であった。
「……今、お家から出たら尾形お兄ちゃん怒るかな……」
翔太は交番にいるであろう尾形を思ったが、ベランダの窓へ顔を向けると外はもう暗くなり始めていた。今外に出てはいけないというのは、幼い翔太でもなんとなくわかっていた。
「……由兄ちゃん」
暗くなる前には、由竹はいつも翔太の元に戻っていた。面倒を見ていた杉元と軽く話しをして、別れた後に翔太との時間を大切そうに過ごした。思い出すと涙が出そうになり、翔太は何も考えないようにしようとソファーの背もたれに顔を埋めた。
そんな時、玄関の方から突然チャイムの音が鳴らされた。寂しさでどうにかなってしまいそうだった翔太は「きっと尾形お兄ちゃんだ」と思い込み、ソファーから飛び起きると玄関まで駆けつけた。辿り着いてすぐに翔太は玄関の鍵を開け、ドアを思いっきり開いた。
「尾形お兄ちゃん!」
「あっ……」
翔太がドアを開けた先にいた人物が、突然勢いよく開いたドアに驚いて一歩後ろに下がった。
違う。尾形お兄ちゃんじゃない──翔太はドアの前で困惑している人物を見上げて冷や汗を流した。
「……やはり、隠していらっしゃったのですね……兄様」
そこに居たのは、翔太にとって全く見覚えのない人物──そして尾形にとっては嫌という程見覚えのある男だった。男は恐怖に硬直する翔太の前に跪き、人の良さそうな好意の微笑みを向けて自分の胸に手を充てがった。
「初めまして。私の名前は花沢勇作と申します」
花沢勇作警部補──尾形百之助の上司であり、腹違いの兄弟でもあった。
「……お名前を窺ってもよろしいですか?」
「ぁ……白石、翔太……です」
勇作は、小鳥のさえずりのような声で名乗る翔太を見て、やや苦み走った微笑みを浮かべた。
嗚呼、この子が兄様のもう一人の弟──そして、私の弟にあたるのか。
可愛らしい、愛おしい、私の小さな弟。
「どうか、怯えないでください」
──私はあなたの異母兄弟なんですよ。
勇作は囁き、翔太の両頬にそっと手を伸ばした。