歓迎会
第七団地公園前交番──
谷垣源次郎巡査は、いつもの巡回の為の準備をしようとしていて、ふとあることに気付いた。
「しまった……」
「ん……どうした、谷垣」
職務に当たっていた真面目一筋の月島巡査部長は、地域の人々の困りごとだけでなく部下の困りごとにも敏感であった。谷垣の呟きを聞き漏らさず、何事かと尋ねてみた。谷垣はしばし言いにくそうにしていたが、月島相手では隠し通せないことを知っていたため、すぐに観念したように口を開いた。
「すみません……実は、警笛を忘れてしまったようで……」
「なに? 署に置いてきたのか?」
「はい、恐らく……」
「管理がなってないぞ、谷垣。いざという時どうするんだ」
「返す言葉もありません……」
猛省し謝罪する部下を見て、月島もそれ以上責めることはなかった。小さくため息をつくと、近くで書類整理をしていた二階堂浩平巡査に体を向けた。
「二階堂、仕方ないからお前が巡回を代わってやれ」
「え〜? 何で俺なんですか?」
「聞こえただろう。谷垣が警笛を忘れてきたらしいんだ」
「リコーダーならありますけど?」
「馬鹿者。リコーダーが警笛の替わりになるか。警告するのに音楽を奏でてどうする。大体何でリコーダーがここにあるんだ」
「拾得物です」
「拾得物を勝手に使おうとするなお前は!」
相変わらずふざけたことばかりを言う部下に、月島は先程よりも大きなため息をついた。何故こうもここの連中はどこか抜けている奴ばかりなのだろうか──月島が頭を抱えた時、交番に一本の電話がかかった。
「む……署からか」
普段谷垣以外誰も率先して電話対応に当たらないので、一番電話の近くにいた月島は自ら電話対応に当たった。むしろその方が余計な仕事も増えず、トラブルを回避できる。
「はい、第七団地公園前交番です」
『もしもし、税務署の者です〜』
「は……?」
ありえないところからの電話に、月島は一度耳から受話器を離して顔を歪めさせた。切ってしまおうかという考えが一瞬頭をよぎったが、電話越しの相手の声には頭が痛くなるほどに聞き覚えがあったので、月島は仕方なく受話器を再び耳元に充てがった。
『医療費の過払い金があり、還付の手続きのためお電話しました〜』
「……何のご用ですか、鶴見警部」
『おやぁ? その声は月島か〜? なぁんだ、それなら冗談が通じんな……面白くない』
「面白さを求めてウチの交番にイタ電するのはやめてください」
月島は午後の業務のことを考え、やはりここで切ってしまった方が良いのではないかと思ったが、電話の相手──鶴見篤四郎警部は、これでも自分の上司であるために勝手に電話を切ることはできない。それが月島を更に悩ませた。
「何もないのであれば切らせていただきますよ」
『まあ待て。月島お前、鯉登のことは覚えているか?』
「は……鯉登と言いますと、鯉登音之進警部補でありますか?」
『うむ』
月島の頭の中に、薩摩弁を話す褐色の男の顔が思い浮かんだ。以前まで同じ管轄で働いていた期間があったので、月島はすぐに鯉登のことを思い出せた。
「はい、覚えておりますが……」
『実は鯉登の奴が鹿児島からこっちへ戻りたいと急に言い出してな……』
「は?」
『半月ほど前から申請はあったのだが、あまりにも急過ぎて対応が間に合わなかったのだよ。だが今日からようやくウチの署に転勤となった』
「あの、失礼ですが鶴見警部……お話の内容が見えてこないのですが、それはどういう……」
『歓迎会をしよう!月島ァ!』
ガチャッ──
月島は、とうとう受話器を置いて一方的に電話を切った。そのまま席を立ってその場を去ろうとして、再び掛かってくる電話の音。出ようとしない月島に、二階堂が電話を指差し首を傾げた。
「出なくていいんですか?」
「お前が出てくれ。俺にはもう手に負えん」
こちらを振り返りもせずそう言う月島に、二階堂は仕方ないといった様子で電話に出た。
「はい、第七団地公園前交番。……え? はー……はぁ、あぁ、はい……わかりました。失礼します」
思った以上に早く電話を切った二階堂に月島は訝しげな表情を向けた。自分の時はあれだけ話を引き延ばされたのに、二階堂は鶴見警部と一体何の会話を交わしたのか。疑問に感じると月島は途端に怖くなってきた。
「……二階堂、警部は何と仰っていた?」
「はい? あー……なんか、パンプキン詐欺? の防止策についての書類をFAXで……」
「お前それは“パンプキン詐欺”じゃなく“還付金詐欺”だろう!電話対応ぐらい真面目にできないのか!」
受付所でギャアギャアと喚く同労者達に、休憩室で仮眠を取っていた尾形は一人静かに転職を考えたのだった。
◆◆◆
『歓迎会……?』
「うん……!」
僕は電話越しに聞こえるアシリパお姉ちゃんの声に頷いた。
本当は杉元お兄ちゃんのお家に電話したはずなんだけど、何故かアシリパお姉ちゃんが電話に出たから僕はそのまま伝えたいことを話すことにした。
「あのね、あのね、僕のお父さんが前にね、新しい人をお家にお招きしたら盛大な歓迎会をするんだよって教えてくれたの。だからね、杉元お兄ちゃんの歓迎会がしたいの」
『翔太の家ではそんな素敵な風習があったのか。すごくいい話じゃないか。わかった、私から杉元に伝えておこう。ところで白石はこの事を知っているのか?』
「うん。由兄ちゃんもいいよって言ってくれた」
『そうか!じゃあカラオケパーティーにしよう!』
「……?」
からおけ? からおけって、唐揚げ?
唐揚げパーティーって何だろう。唐揚げをいっぱい作ってみんなでワイワイパーティーするのかな。
『後でまた私から白石に連絡しておこう。今日はもう遅いから、翔太はもう寝たほうがいい。…………うるさいぞ杉元!私はまだ寝なくていいんだ!』
アシリパお姉ちゃんの声の向こうで、杉元お兄ちゃんの声が少し聞こえた。もしかして二人は一緒に暮らしているのかな。もしかして今二人は一緒にカレーを食べているのかな。アシリパお姉ちゃんはカレーは甘いのと辛いの、どっちが好きなのかな。もし辛いのが好きなのなら、杉元お兄ちゃんは甘口さんだから食べる時大変なんだろうな。あ、でもちゅーからっていうのがあるから大丈夫だ。
『…………で、そういうことだから……』
「え……?」
『カラオケ、楽しみにしてるぞ!おやすみ、翔太!』
「あっ……」
どうしよう、電話が切られちゃった。最後にアシリパお姉ちゃんが何か言ってた気がするけど、よく聞いていなかった。
「翔太、杉元のやつ何て言ってた?」
テレビを見ていた由兄ちゃんが、僕の方に振り向いて聞いてきた。僕は受話器を持ったままおろおろした。
「ぁっ……か、からあげ……」
「え? からあげ?」
「唐揚げパーティ……するって……」
「え〜何それ〜斬新〜」
──結局後から由兄ちゃんの携帯に電話がかかってきて、僕は何故か由兄ちゃんから電話のことで笑われた。僕は由兄ちゃんとその日だけ口をきかないことにした。でも、寝るときになってすごくいっぱい謝られたから、許してあげることにした。
僕はその日から電話が少し嫌いになった。
◆◆◆
次の日のお昼頃、学校がお休みのアシリパお姉ちゃんは杉元お兄ちゃんを連れて由兄ちゃんのお家まで来てくれた。杉元お兄ちゃんはお家に来て僕の顔を見ると目をウルウルとさせて、すごい勢いで抱きついてきた。
アシリパお姉ちゃんが言うには、僕が杉元お兄ちゃんの歓迎会をしたいって言ったことを聞いて、杉元お兄ちゃんは感動して喜んでくれているみたいだった。でも僕は強く抱きしめられてちょっと苦しかった。
「翔太ったらよ〜!アシリパちゃんのカラオケって言葉を理解できてなくて、唐揚げって認識しちゃってよ〜!可愛いのなんのって……」
「もうっ!由兄ちゃん言わないでっ!」
「んはぁ〜っ!ごめぇん!でも可愛い〜!」
歓迎会をしに行く途中で由兄ちゃんが僕の恥ずかしい話をする。僕は由兄ちゃんのお尻を叩いたけど、由兄ちゃんは喜んでばっかりでちっとも反省してくれない。アシリパお姉ちゃんも杉元お兄ちゃんも笑っていて、僕は恥ずかしくて帰りたくなってきた。
「だって……僕、からおけ知らないもん……。食べたことないもん……」
「あ〜!可愛い〜!」
「何言わせても可愛い〜!」
「翔太、カラオケは食べ物じゃないぞ」
「えっ」
「歌を歌うところだぞ」
アシリパお姉ちゃんの言葉に、僕は顔を熱くさせて由兄ちゃんのお尻を叩いた。
「いたっ!いたっ!翔太、ちょっ……なんで!?」
「……っ」
「お前がちゃんと教えてやらなかったから拗ねてんじゃないのか?」
「あははは、顔が真っ赤だな翔太」
「もう僕帰る……」
「え〜そんなこと言わないでよ翔太く〜ん」
「わっ……あっ」
僕が俯いたら、杉元お兄ちゃんは僕の体をひょいと持ち上げて肩車してくれた。高い位置から見える景色が、僕が普段見ている景色と違っていてすごく面白い。背の高い看板も、お店屋さんも、すれ違う人達も、みんな僕より背が低い。
「すごぉい……!」
「お、機嫌なおしてもらえた?」
「すごくいっぱい見える!」
「良かったな、翔太」
「お、俺だって……やろうと思えばできるんだぜ? 翔太」
「ふっ、シライシには無理だろ」
「真っ向から否定すんなよっ!あとその嘲笑もやめろ!腹立つな!」
「白石は怠け者だからお腹がポヨポヨしてそうだな!」
「アシリパちゃんまで!? 辛辣ぅ!」
楽しい。お父さんとお母さんがいた頃はいつも忙しくて遊んでもらえなかったから、こんなにたくさん誰かと笑えたのはすごく久しぶりだった。
「……!」
「……どうした? 杉元」
突然、杉元お兄ちゃんが足を止めた。僕の視界が左右に揺れる。杉元お兄ちゃんが辺りをキョロキョロと見渡していた。
「……ごめん、アシリパさん。翔太くん連れて先に行ってて」
「……何かあったのか?」
「たぶん、二人……いや、他にもいるかもしれない。パパラッチだとは思うけど……」
杉元お兄ちゃんは僕をゆっくり地面におろして、アシリパお姉ちゃんの前に押し出した。なんだかちょっと怖い顔で、脇道の方を睨んでいる。何かあったのかな。
「……杉元お兄ちゃん行かないの……?」
「大丈夫だよ翔太くん、すぐに後から追いかけるから!」
「翔太、杉元もこう言ってるし先に行こうぜ」
「……早くきてね……?」
「うん。すぐに片付けて行くよ」
片付けるって、何を片付けるんだろう。どこの道も別に汚くないのに。せっかくみんなで一緒に歓迎会できると思ってたのに。
「……翔太、由兄ちゃんが肩車してやるよ!」
「えっ……」
「ほらっ、行くぞ!」
「わっ」
俯いていたら、今度は由兄ちゃんが僕を肩に持ち上げた。ちょっとフラフラしたけど、由兄ちゃんは僕をちゃんと肩車できた。さっきより安定しない景色だけど、由兄ちゃんの肩車もすごく楽しい。ゆらゆらの肩車は由兄ちゃんの肩車だ。
「ぅ、お、重くなったなぁ、翔太……」
「やればできるじゃないか、白石!」
「へっ、こ、こんくらいっ……訳ないぜ!」
僕はそのまま次の電柱のところまで肩車された。電柱のところで由兄ちゃんがギブアップして、アシリパお姉ちゃんは呆れた顔でため息をついた。由兄ちゃんは犬さんみたいな鳴き声を出してシュンとしたけど、アシリパお姉ちゃんは僕の手を引いてそのままカラオケ屋さんに向かった。その後を、由兄ちゃんが慌てて追いかけてくる。
でも、杉元お兄ちゃんは追いかけて来なかった。
◆◆◆
「ここがカラオケだぞ、翔太」
「わあ……」
初めて来たカラオケ屋さんは広くて、キラキラしていて、音楽が流れていた。お部屋にはテレビがあって、ソファーとテーブルがある。
アシリパお姉ちゃんは店員さんからもらったカゴからマイクを取って、僕に渡してくれた。初めて触ったマイクは重たくて硬い。どうやったら声が大きくなるんだろう。
「カラオケなんて久々だなぁ〜!アシリパちゃん、何歌う?」
「私は別に後からでも大丈夫だ。それより翔太は何がいいんだ?」
「えっ……」
「ほら、食べ物も注文できるんだぞ。好きなものを頼んだらいい」
「わぁ……」
そう言ってアシリパお姉ちゃんが見せてくれたのはメニュー表だった。お父さんとお母さんとレストランに行った時は、いつもメニューに写真がなかったからこんなメニューを見たのは初めてだ。
「じゃあ俺頼んであげるよ。翔太、何か飲みたいものあるか?」
「ぁ……わ、わかんない……」
「じゃあオレンジジュースにしようか。私はジンジャーエールにするから」
「じゃ、俺はお酒でも頼もうかな」
「おい白石、翔太がいるんだから自重しろ」
「冗談だって〜!もう、真面目なんだから〜アシリパちゃんは〜」
由兄ちゃんがお部屋にある電話でどこかの誰かと話している間に、アシリパお姉ちゃんは変な機械を使って何かをしていた。僕がそれを覗き込んだら、気付いたアシリパお姉ちゃんがクスッと笑って僕に機械の画面を見せてくれた。
「ほら、これで歌いたい曲を選ぶんだ。翔太は何か歌いたいものはあるか? 入れてやるぞ?」
「ぁ……僕、お歌……あんまり、知らない……」
「じゃあ、翔太はなんの歌なら歌えるんだ?」
「えっと……きらきらぼしと、かえるの歌と、おしょうがつと、こいのぼりと、君が代」
「年相応かと思ったら最後にすごいもの入れてきたな、翔太……」
「恐るべし姉さんの英才教育……」
「……?」
アシリパお姉ちゃんは苦笑いを浮かべて「じゃあ鯉のぼりにしよう」と言うと、機械の画面をペンでタッチして何かを操作した。そうしたら、お部屋に流れていた音楽が突然止んで、目の前にあった大きなテレビに大きな文字が出てきた。するとすぐに僕の知ってるこいのぼりの音楽が流れてきた。テレビ画面にたくさんの文字が出てくる。出てきたのはお歌の歌詞だった。
「ほら、もう始まるぞ翔太。マイクを使え」
「ぁっ……」
アシリパお姉ちゃんは僕に自分のマイクを握らせてきた。すると、僕の出した小さな声がすごく大きくなって、お部屋の中いっぱいに響き渡った。
「ぁ、ぁっ……」
「落ち着け翔太!ほら、歌詞を見て……」
「ぁ……こ、こいの……ぼり……」
「緊張して声震えてるのが丸わかりだなぁ……」
「可愛いなぁ」
「ぐすっ……おおきい……まごい、は……ぉ、おとぅ、さ……」
「変えようぜこれ!これちょっと変えようアシリパちゃん!」
「そ、そうだな!きらきらぼしにしよう!きらきらぼし!」
訳がわからなくなって思わず泣いちゃったら、アシリパお姉ちゃんが慌てて音楽を止めた。その後すぐにきらきらぼしが流れ始めて、僕は頑張ってお歌を歌った。僕のお歌が大きくなってちょっと恥ずかしかったけど、アシリパお姉ちゃんも由兄ちゃんも楽器を使って盛り上げてくれて、ちょっと楽しかった。
しばらくして、由兄ちゃんが歌っている間にお部屋に飲み物が届いた。由兄ちゃんは食べ物も頼んだみたいで、飲み物以外に料理やお菓子もテーブルに並んでいる。どれも食べたことがないものばかりだ。
「どうした翔太、食べないのか?」
「……おしっこ……」
「え?」
「おしっこしたい……」
アシリパお姉ちゃんに言うのはちょっと恥ずかしくて、僕は俯きながら小さく呟いた。アシリパお姉ちゃんは「何だそうか」と言うと、僕の手を引いてソファーから立ち上がった。
「どこ行くの……?」
「ん? トイレに行きたいんだろう?」
「ぼ、僕っ……一人で行ける!」
「付いて行かないで大丈夫なのか?」
僕は何度も頷いた。だって、アシリパお姉ちゃんは女の子だもん。それに僕はもう6歳だから、一人でトイレに行ける。
「トイレの場所はわかるのか?」
「うん」
「まあ、受付近くにあったしな……」
アシリパお姉ちゃんはちょっと渋った顔を見せたけど、僕が「漏れちゃう」と言うと、仕方ないって顔で僕の手を引いてお部屋を一緒に出た。
「じゃあ、私はここで待っているから。トイレはあの受付所のすぐ左だから迷うんじゃないぞ?」
「大丈夫だもん……」
僕はアシリパお姉ちゃんの手を振りほどいて、トイレまで走って行った。
◆◆◆
真っ直ぐ廊下を進んで、受付所っていうところを左に曲がったらトイレのマークが見えた。中に入って、ドア付きのトイレに入る。
ここでも音楽が聞こえるのはちょっと面白い。僕がおしっこをしていると、トイレのドアが開けられて誰かが入ってくる音が聞こえた。
「せっかっ鶴見警部が開いてくれた歓迎会なんに、ないでわいまで来たんじゃ!鶴見警部と月島だけでん良かったとに!わいん顔を見たや気分が盛り下がっ!」
「俺だって来たくて来たわけじゃありませんよ。理不尽な上司命令で仕方なく来たんです」
男の人の怒鳴り声が聞こえる。それに、もう一人の男の人の声はちょっと聞き覚えがあるような気がした。
「今からでもよかでわいはもう帰れ!わいとおっくれなら二階堂ん方がまだマシや!」
「そんなに俺を邪険に思うのなら宇佐美を呼べば良かったのでは?」
「宇佐美も宇佐美でいけ好かんでやっせん!じゃっどんわいもわいだ、尾形!」
「はぁ……」
怒鳴り声を上げる男の人のよくわからない言葉から拾った名前を聞いて、僕は心臓がどきりとした。もしかして、ドアの向こうにいるのは尾形お兄ちゃんなの?
「そんなことを言うためにわざわざ俺をここに連れ出したんですか、鯉登警部補。急な異動申請と言い、あなたは相変わらず無鉄砲だ」
「ないじゃと〜ッ!?」
僕はそっとトイレのドアを開けて、隙間から外を覗き見た。隙間からは、怒った顔をした色黒のお兄さんが見える。そして、尾形お兄ちゃんとよく似た背中が見えた。
──尾形お兄ちゃんかもしれない……!
じっと見つめていたら、さっきまで僕が座っていたトイレから水が流れる音が聞こえた。たぶん、自動的に流れるトイレだったんだ。水が流れる大きな音に、色黒のお兄さんと、尾形お兄ちゃんがこっちに振り向いた。
「あっ……」
どうしよう。尾形お兄ちゃんと目が合っちゃった。僕は慌ててドアを閉じた。
「だ、誰かいたのか……」
「……出ましょう、鯉登さん。ここはおしゃべりをする場所じゃない」
「っ、お前に言われなくてもわかっている!」
どうやら二人共出て行ってくれるみたいだ。尾形お兄ちゃんと話せなかったのは寂しいけど、僕は少しホッとした。
「翔太!」
「!!」
アシリパお姉ちゃんの声だ。ドアを叩く音が聞こえる。
「翔太!中にいるのか!? 遅いぞ!ウンコか!?」
「翔太……?」
アシリパお姉ちゃん、あんな大声でうんこなんて言っても大丈夫なのかな。女の子はおしとやかじゃないとダメなんだって先生が言っていたのに。このままじゃアシリパお姉ちゃんがお嫁さんに行けなくなっちゃう。
僕はそっとドアを開けた。もう二人共居なくなってるかなって思ってたら、二人共まだドアの前に立っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「翔太!翔太ー!ウンコなのかー!?」
僕はそっと個室の中に戻ろうとした。
そうしたら突然、後ろから誰かに抱き上げられた。
「わいもしかして翔太か!白石翔太か!」
「ふぇっ……?」
脇の下に手を入れられた状態でひっくり返されて、僕は僕を抱っこする人と向き合わされた。僕を抱っこしているのは、嬉しそうな顔をした色黒のお兄さんだった。
「ないも言わんでんよか!おいにはわかっちょる!にしてん大きっなったなぁ、翔太!むぜとは相変わらずだ!」
「ぁっ……ぁっ……」
「まさかこげん所で会ゆっとは思わんかった!わいんおやっどんが亡くなった時、いっき行ってやろごたったが葬式には間に合わんかった!すまんかった、翔太!」
「うぅ〜っ……!」
「どげんした翔太!ないで泣いちょっど!? おいだ、鯉登だ!にぃにがわからんのか!?」
「取り敢えず降ろしてやったらどうですか、鯉登さん」
「翔太ッ!!」
お兄さんの言っていることが全然わからなくて怖くて泣いていたら、トイレのドアが突然蹴破られた。見たら、アシリパお姉ちゃんが男子トイレに飛び込んでいた。
「キエェェェッ!!」
「ハッ……翔太を離せ!」
驚いて叫ぶ色黒のお兄さんに体当たりしたアシリパお姉ちゃんが、僕を強引に引っ張っると腕で抱きしめてくれた。僕はもう訳がわからなくて、泣くことしかできないでいる。
「おねぇちゃ……っ」
「お前ら何者だ!翔太を誘拐するつもりだったのか!?」
「なっ、ないゆっ……んんっ、何を言ってるんだ!そんな訳ないだろ!」
「そこを動くな!すぐに警察を呼んでやる!」
「あー……悪いなお嬢ちゃん」
言い争っていた二人の間に、尾形お兄ちゃんの冷静な声が割り込んだ。
「俺達がその警察だ」
振り向いたら、尾形お兄ちゃんが写真の入った黒い手帳を僕達に向けていた。それは、テレビで見たことのあるような警察手帳だった。