第八話:虚無と楽園
兄に寄り添ってはもらえず、相も変わらず果てしなく孤独でどこまでも淋しいことに変わりはなかったが、梨由はとりとめのない幸せを感じながら眠りに就いた。
彼女は他の物事をいっさい、忘れ去ってしまっていた、眠る前にスマホの着信履歴の確認すらしなかった、それは起きてからも同様だった。
とても危険な状態へと陥っているのだと、自分で気づけているうちと、すっかり麻痺してしまってからではその危険性は比べものにならないのだ。
「おはよう、梨由」
朝、バイトでしばらくは今までのように会えないと言っていた鉄太が、なぜか彼女のアパートへと迎えに来た。
彼の笑顔にぎこちなさは少しもなく、梨由の全身をじわじわと罪悪感が這い上がってゆく。
兄と約束をしてしまった、鉄太とはもう別れるという約束を。
兄の、武瑠の勘は不思議なほどによく当たるものだと僅かながらに感心はしたものの、彼氏には別れ話を持ち掛けなければならない。
梨由の心は震えた、鉄太の笑顔が自然とそこにあるほどに、こちらが日常であるべきなのだと無情にも気づかされてゆく。
「大丈夫か?また具合悪そうだけど」
消え入りそうな声で挨拶を返してきた彼女の頭を、鉄太は心配そうに撫でた。
彼の優しさが、痛い、無数の針となって心臓に突き刺さってくるみたいだ。
全ては自分のせいだ、鉄太はただ紛れもなく優しいだけだ、だからこそ彼の優しさは梨由にとっては堪えがたい激痛となる。
「辛いようなら、今日は無理はしないほうが……」
話があって迎えに来たのだとしか思えない鉄太だが、彼女がずっと俯いているために今日は一日休んでいてはどうかと提案しようとした。
そのとき、不意に、隣の部屋のドアが無造作な音を立てて開いた。
「あ、おはようございます」
梨由は慌てて、隣人への挨拶はきちんとしていた。
鉄太のときも同じくらいのトーンで返せば良かったと後悔していると、隣人の男性は一言も挨拶を返しはしなかった。
まるで、とてつもなく奇異なものでも見るかのような視線で、梨由を見ている。
冷やりとした梨由は思わず、後退ろうとした。
すると、その場の異様な雰囲気にはあまりにも似つかわしくない明るさで、鉄太が口にしたのだった。
「あの、すみません。やっぱり毎晩そちらにも聞こえてしまってましたよね?」
梨由は彼が利かしてくれた機転の意味を、始めは知らずにいた。
隣人の視線は鉄太へと移り、鉄太は気まずそうだが嫌みのない笑顔で続ける。
「ご迷惑をおかけしてしまって本当にすみません。その、俺のちょっと変わった性癖に彼女には無理矢理付き合ってもらっていまして、お恥ずかしながら、アニメとかの影響で……悪いのは全部俺なんです。彼女を変な目で見ないでやってください」
梨由は顔を上げて、本日初めてちゃんと鉄太の顔を見た。
言っていることの意味は未だによく呑み込めていないが、彼の言葉の真意を探ろうと試みていた。
「ああ、なるほどね、てことはあなたが“たける”さんね。てっきり本当のお兄さんとしているのかと思っちゃったよ、昨日は彼女に嫌がられたから途中からは名前にしたんだね」
「そ、そうなんです。ほんと、すみません……」
鉄太の人徳か、隣人はすんなりと言葉の意味を汲み取ったようではははと笑って見せた。
実際には、汲み取られたのは架空の言葉の意味だった。
梨由はようやく、鉄太は必死になって自分を犠牲にしているのだと悟ることができた。
「まあ、おじさんもそういうのわからなくもないけど、彼女に嫌われないようにほどほどにしとかないといけないよ?……変な目で見ちゃって悪かったね。彼氏のこと、叱っておいたほうがいいよ」
隣人の男性は打って変わって悪戯めいた視線を梨由へと向けふざけた忠告をすると、好意的に鉄太の肩まで叩いてから出勤していった。
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