第八話:虚無と楽園







 「梨由、愛してる……」
 武瑠は再び、くちびるを重ねてきた。
 「……っんっ」
 薄暗い部屋にはやわらかくて淫らなリップ音が響き、梨由はキスに酔いしれる。
 朝まで、抱きあっていたい、何もかも忘れてふたりきりの時間を過ごしたい。
 離してほしくない、離れたくない。

 「愛してるよ」
 キスの途中、くちびるを少しだけ放して武瑠は何度か愛を囁いた。
 恋人に捧げるような甘くて艶のある声は、自分だけに向けられている、そう思うほどに梨由は堪らなくぞくぞくした。

 くちびるをゆっくりと放してゆくと、零れた吐息が宙で混ざりあった。
 見つめあうふたりは互いの視界に、愛おしく想うひとだけを映していた。
 あとは何も見えない、甘美に昇り詰めた先に待ち受けていたのは奈落の底だったのか。

 兄と――否、彼と行き着けるのなら、例えそこが奈落の底でも梨由は構わなかった。
 何か、大切なものが麻痺している感覚はかろうじてうっすらと残っている、けれど、武瑠を愛している気持ちが何よりも大切だった。

 後戻りはとうにできなくなっている、ただ激しく狂おしい愛の赴くままに彼だけを感じていたい。
 愚かでもいい、この愛が報われるのなら。


 ほんとうのところはふたりには、今という瞬間しか見えてない、未来というものなど一毫も見えてはいない。
 報われたと、思い込んでいるだけだ、永遠の孤独を何とかして忘れ去るために。



 静かに涙を流した妹の頬にゆびを滑らせて、拭うと、武瑠は使用済みのコンドームを手際よく処理していった。
 乱れた着衣を整えてゆく兄を、梨由はぼんやりと眺めている。
 恋人同士になれたのなら泊まっていくくらいのことはして欲しかったのだけど、彼はすっかり帰り支度を済ませてしまった。

 「今日は帰るよ、明日の朝はたぶん危険だ」
 帰らないで、を口にしようとした妹のあたまを撫でて、兄は微笑んだ。
 梨由には意味がよくわかっていないのだが、武瑠は気づいていた。
 彼女のスマホが度々、細やかに震えていたことに。

 着信履歴を見て、妹はひどく困惑することだろう。
 そう思うことは武瑠にとって、愉しいことだった。

 最低だとわかっている、最悪だともわかっている、そう悟りながらも愛する妹を追い詰めたい。
 追い詰めることで、自分も追い詰められて、ふたりはどうやっても離れられなくなってしまえばいい。


 一度でも触れたら、歪むのは目に見えていた、だからこそもう歯止めはいっさい利かない。

 「おやすみ、梨由……」
 妖しい微笑みとおでこへのキスを落とし、武瑠は部屋を後にした。

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