第四話:堕落の喝采







 気づくと梨由は、走り出していた。
 鉄太が心配そうに掛けた声を、呆気なく振り切ってしまった。
 ふたりで借りる予定だったDVDを手に、鉄太は立ち尽くす。

 しっかりと地面を踏んでいるのか、少しずつ踏み外していっているのか、自分が走る感覚すらもよくわからないまま梨由はひたすら走った。
 滲み始めた汗はいつしか、肌を伝い髪を濡らし、じっとりとした不快さを与えてくる。
 それでも走らずにはいられない。


 ただ、無心で、否涯てしなく乱され渦巻く心で、梨由は走った。
 また兄は、電話をかけてきただろうか?
 確かめる時間が惜しい、時間帯と梨由の状況から確信できていることは、

 武瑠は妹の部屋にいる――――――…




 待っているのかは、わからない。
 しびれをきらして帰ってしまうかもしれない。

 だとすれば、早く、早く帰らないと……


 一心不乱に走って、梨由はアパートへと辿り着いた。
 ここにきて気づいた、足がひどく痛む。

 それでも梨由は、兄がいてくれることをひた願いながら部屋の窓を見上げた。



 窓は、開いていた。
 そこから夜空へと昇る煙草の煙を、この上なく梨由は愛おしく思った。
 それと同時に、この上なく恨めしく。

 乱れた呼吸を整えることもせず、梨由は部屋へと通ずる古ぼけた階段を上がっていった。



 「おかえり」
 会社からそのままここに来たのであろうな武瑠は、外から射し込む明かりだけの部屋の窓辺で煙草を燻らせていた。

 「梨由の帰りが遅いから、お兄ちゃん心配しちゃったよ」
 そして梨由を見つめ、笑う。
 ほんとうに妹の帰りを心配していたのなら、こんな風に悠長に煙草など吸っていられなかっただろうに。

 「帰りに、鉄太と、DVD借りに、行ってた……」
 まずは知らぬ間に登録されていた電話番号についてを問うべきなのだが、梨由は素直にそう答えていた。
 汗がぽたりと畳に落ちる。

 「へえ……」
 また煙草の煙を夜空に吐いて、武瑠は笑いながら口にした。

 「梨由は彼氏とデートしてたのに、お兄ちゃんの事が気になって帰ってきちゃったんだ?」

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