第四話:堕落の喝采







 「昨日は、疲れて寝ちゃった?」
 上の空でいた梨由へと、鉄太が声を掛けてきた。
 我に返った梨由は、ここは大学の講義室であることを思い出す。
 次の講義は、彼と一緒だ。
 自分がどうやってここまで歩いてこられたのかも、曖昧すぎてよく覚えていない。


 「う、うん、電話…ごめんね?」
 梨由はぎこちなく笑って、隣を見た。
 いつも通りに笑おうと、いくら努めても、どうしてもぎこちなくなってしまう。
 「いや、何となく、疲れてそうな顔はしてたからさ。俺こそ無理言ってごめん」
 何も疑うことなく、鉄太は少し申し訳なさげに笑っていた。


 心臓に、針を刺されたような感覚が走り抜け、息が詰まる。
 これは、彼の優しさがなせる業だ。

 鉄太はいつだって優しい。
 だから彼は気づく由もない。

 今は、その優しさが、梨由の首を締め上げる縄にすらなりうることを。



 「ううん、そんなこと、ないって……」
 フォローを入れながら、梨由は彼から視線を逸らしていた。
 いたたまれなくなり、俯いてノートへと視線を落とす。

 「そうだ、梨由が見たいって言ってた映画のDVD、昨日からレンタル始まったみたいなんだけど」
 彼女が俯いてしまったため、明るく笑った鉄太は話題を変えようとした。
 瞬間、周りの喧騒が、途切れた気がした。



 鉄太は黙って、髪がかかる梨由の首もとぎりぎり、服が覗かせた白い肌を見ていた。
 正確には、白い肌に残る赤黒みがかった痕を。


 「あ、観たいかも」
 梨由は笑って顔を上げた。
 ようやく、ぎこちなさはなくなっていた。
 キスマークは隠れ、もう見えなくなる。
 わざと隠れるような服を選んだにしては、危うい、彼女は気づいていないのかもしれない。

 「じゃあ、今日一緒に借りに行こっか」
 鉄太はいつものように、優しく笑って提案した。



 今は、夏だ。
 梨由はエアコンの涼しさが嫌いで、窓を開けて暑さを凌ぐことが多い。
 蚊に、刺されたんだろう。
 鉄太は自分に言い聞かせた。


 梨由の首もとに吸い付いた雌の蚊は、ひどく貪欲で、彼女の血があまりにも美味しかったためむさぼったのに違いない。

[ 34/96 ]

[前へ] [次へ]

[ページを選ぶ]

[章一覧へ戻る]
[しおりを挟む]


戻る