第十話:沈む細波
『どうした?梨由』
呆気なく、電話は繋がった。
兄の声は夜の囁きとは違い、日常にある穏やかさを持って耳に響いた、血の繋がった兄妹が交わす言葉以外のなにものでもない響きだった。
けれど鼓動は、実の兄に向けるべきではない愛情で跳ね上がる。
彼の声はこんなにも貴いものだったのかと、梨由は思い知る。
「あ、えっと、おはよう……お兄ちゃん」
しどろもどろになった梨由は努めて明るい声で、朝の挨拶をした。
えもいわれぬ安堵を覚えた後なのに、全身がぶるりと緊張に震えた。
『ああ、おはよう』
笑った武瑠は甘い声をしている。
時刻をまったく気に掛けていなかったが、外はまだうっすらとだけ明るい。
起こしてしまったのかもしれない。
『俺さ、起こされるのが嫌いだからいつも電源切って寝てんだよね』
妹がそれ以上何も言えずにいることを悟ったのか、未だ面白そうに笑いながら武瑠は言った。
『昨日はうっかり忘れて良かったよ……梨由から掛けてくれるなんて嬉しい』
とたんに、やりとりは恋人同士のようになる。
寝起きのせいではない甘さを、兄はわざと声に絡めている。
『何?声が聞きたかっただけ?』
甘いままで、問いかけられた。
はっとした梨由は、ありありと憶い出す。
夢の中で自分を抱いていた兄の力強さと、儚さを。
「海に消えたら迎えに行く」だなんて、今の武瑠なら言いかねない危ういことを言うから、夢と現実の区別がつかなくなってしまっていた。
最も厄介な点は、夢と現実の区別が一瞬でもつかなくなることではない、“今の武瑠なら言いかねない”ということだ。
「お、……お兄ちゃん……」
海に消えたりなんかしないで……と伝えたくても、どう伝えるべきかわからない。
梨由の心には得体の知れない不安が甦る。
そのとき、
『梨由』
急に声色を妖しくさせて、武瑠は妹の心を不安ごと奪っていった。
『まだ時間もあることだし、お兄ちゃんにえっちな声聞かせてみようか……』
背徳的な誘いだった、悪戯めきつつエロティックで、兄と妹の間ですることではない。
でもこれは、お遊びだから。
幼い頃の気持ちには戻れなくても、ふたりはいつまで経っても兄妹でしかいられないのだから。
「え……?」
体内まで熱くなった梨由は自分の躰がまだ濡れていることに気づく。
乳首も妙にじんじんして、敏感になっている。
『あと、音も』
濡れているのをまるで見透かすかのように、武瑠は付け足した。
大胆不敵に兄は妹を弄んでいる、それなのに――やはりどこかしらが不安定だった。
誰にも赦されない愛に於いてはきっと、束の間の安定すらも不安定でしかないのだろうけれど。
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