おいでよ天使













 触れたいから、触れた。
 愛しているから、触れた。

 …――――初めからそれに応えたのは、お前だ。




 濃藍色の夜空に浮かんでいる満月を見上げていると、距離感というものがよくわからなくなる。
 だって、月はあんなにも近くに見える。
 月よりは控えめな光をいくつもぶら下げている星たちも、無数の電球のように見えて手が届きそうな錯覚に陥る。
 下手をすれば、どこかで千切れて落ちてきそうにすら見える。

 けれど全部、俺の手は届かない場所にあった。
 地上にいる限りは誰の手も届かない場所にあった。
 そんな夜空を見上げていたら、自分の存在がとても不確かに思えてきた。
 決して手の届かないものたちのほうが、圧倒的な存在感を示して俺を見下ろしているからだ。
 俺は、ちっぽけというほどの位にも、値してはいない。



 月の光は、人を狂わせると言う。
 俺もその狂気の沙汰にやられた一人なのか、そもそも根本的にどこかが狂っていたのか。
 彼女への愛は真っ当なものでありつづけたいと願っていたけれど、とうとう壊れてしまった。
 嫌だと思っても全てが歪んだ。
 憎らしいくらいに愛らしい、俺は自嘲を浮かべてきつく自分の髪を掴む。
 綺麗な夜空だ、秘めてきた狂気を爆発させるにはうってつけの綺麗な夜だ。

 愛は不思議だとつくづく思う、深く知るほどに、止め処なく謎めいてゆく。
 そのまま連れ去られるとは知る由もない彼女は俺の手を取り、微笑んで見せた。
 瞬時に俺の心を鷲掴みにしてしまう、心地よいやわらかさを彼女はいつも持っている。



 物思いに耽るように夜空を見上げていた俺は、じつは何も考えてはいなかったんじゃないかと思いながらカーテンをしっかりと引いた部屋へ戻ることにした。
 もう二度と過ちを犯せないようにと、ベッドへ拘束した彼女が待っている。
 今、あいつにとっての世界は俺の手の中にある――そう考えると思わず穏やかな笑みがこぼれた。
 月にも星にも手が届かない、自分の存在感は不確かになる、それと対比して彼女は俺の手の中にいた、彼女にとっての絶対の全ては俺でしかなかった。

 ようやく、閉じ込めることができた、不意に叫びだしたくなる嫉妬心や独占欲に悩まされることもなくなったというわけだ。

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