タコクラゲ *福祉職員ボリス+研修生コプ+モブ*





「……コプチェフくん、ちょっといいかな?」


うわ、また俺か……今度は何を言われるんだろうか。
背後から掛けられた声に、コプチェフはそろりと振り返った。



今週から二週間に渡って行われる福祉施設の実習。大学で学んだことを実際に現場で働いてみて体験することは興味があったし、施設の利用者の方々と関わるのもそこそこ楽しいのだが、しかしどうしても苦手なのが、

この実習担当のボリスさんだ。

実習担当というと、外部から実習に来た学生に仕事の説明をしたり質問を受けたりと、何かと面倒を見てくれる優しい存在をイメージするのだが、彼は実習生相手にも色々と厳しい。実習初日から挨拶はきちんとしろとか指示ばかり待っていないで積極的に動けとか、とにかくこの人の前では気が抜けないのだ。

「実習で疲れているところに毎日実習日誌を書いて提出しなきゃならないのが大変なのはわかるがな、人に書類を提出する時には一度自分できちんと確認するのがマナーだぞ?お前これ誤字だらけじゃねぇか」

ボリスにそう言われて返ってきた昨日の実習日誌には、誤字やら文法の間違いを指摘する赤字で埋まっていた。
う……確かに、昨夜は疲れて朦朧とする意識の中、やっと書いた日誌には何を書いたか殆ど覚えてはいなかったけれど、でもこんなにびっしりきっちり直さなくても。ニュアンスで伝わっているのなら少しくらいの誤字は見逃してくれたっていいじゃないか。
ていうか、実習担当からのコメント欄にも誤字脱字の指摘が書いてあるし……俺の実習の働きぶりについてのコメントはないのか?ちょっと凹むぞ。

とはいえ、こちらはあくまでも実習生の身。自分が未熟であることは否めないので、何とかこれ以上目を付けられないよう、大人しく二週間を過ごすしかない。
コプチェフは「すみません」と言うと、赤字だらけの実習日誌を受け取った。





*****





「お前、また呼び出されたのか?何か大変な人が担当に当たっちまったな〜」
「あ、ヴァレリー。そうだよ〜もう毎日ビクビクしながら実習だよォ」

朝の申し送りが終わり、利用者が居る居住棟へ向かう途中、背後からポンと背中を叩かれる。顔を上げると、同級生のヴァレリーがニヤニヤとしながら項垂れたコプチェフの顔を覗き込んでいた。
彼もコプチェフと同様、この施設に実習に来ているのだが、実習担当者がコプチェフとは別なので、実習中も殆ど別行動となっている。
……くそぅ、他人事だと思って。

「や〜でも俺あの人が担当にならなくてホッとしたよ。あの人誰に対しても怖ぇし」
「そうなんだよね。ここの利用者もボリスさんはちょっと怖い存在になっているみたいだし……」

ここ数日ボリスさんの後について実習をしてみて思ったこと。
『福祉の仕事に携わる人』というと、人当たりが良く、いつもほがらかで誰にでも優しく……というイメージが何となくあるものだが、彼はお世辞にもそれに当て嵌まるとは言えない、というか、寧ろ真逆の位置に居るのである。
人と関わる上で、相手と良い関係を築いていくことは、この仕事の大前提とも思われるのだが、彼の態度を見る限り、本当にここの利用者が、この仕事が好きなのか、よくわからない。

「……何でこの職に就いているんだろう?」








「あれ〜コプチェフくんじゃないの?ちょっと、ちょっと」

午前の活動を終えると、お昼からは入浴と余暇の時間だ。
入浴介助の準備の為、洗濯カゴやシャンプー類をほいさほいさと浴室に運んでいる途中、何処からか名前を呼ばれてコプチェフが足を止める。
泳がせた視線の先、居住棟と食堂の間の廊下で、誰かが手招きをしていた。

……困ったな、今頼まれた荷物を運んでいる最中なのだが。
しかし呼ばれて無視をすることも出来ず、コプチェフは一旦荷物をその場に置くと、呼びかけられた方へ歩み寄った。雑務は少し遅くなってしまうが、利用者の要望に応えることの方が優先だ。

「どうしました?」
「あのね、これ見て」

尋ねるコプチェフに、ニコニコとしながらその人が取り出したのは手の平よりも少し大きめの瓶にギッチリと入った大量の飴玉だった。
あ、この方……確か実習初日から何かと話し掛けてくる利用者さんだ。たしか名前は、ヴェーラさん。

長い間、施設という閉鎖的な空間や人間関係の中で暮らしていると(それでも近年はだいぶ開放的になった方だが)、外部から来た人間に強く興味を抱き、何かと話し掛けてくる方が居る。
このヴェーラさんも実習初日からコプチェフを甚く気に入り何かと話し掛けてきて、上手く話を切り上げられなかったコプチェフは、実習早々ずっと彼女の話を聞くハメになった。そして「実習に来たのならもっと色んな方と関われ」と、実習早々ボリスから叱られたのだ。

そんなちょっと苦い記憶がある為、彼女の呼びかけには少しだけ及び腰になるが、好かれていること自体に悪い気はしない。コプチェフは彼女の顔の高さまで腰を屈めると視線を合わせて話の続きを待った。

「これね、色々な色があって綺麗でしょ?美味しいから、皆には内緒で一緒に食べよう?」

あー……これは困ったパターンだ。
どうしようか。この方が自分を慕ってくれる気持ちは嬉しいのだが、今は実習中であり、しかも頼まれた仕事を中断している状態なのだ。
まして実習先の施設の職員の許可なく利用者から食べ物などを貰うというのは、あまりよろしくないような気がする。でもそうするとこの方の好意を無下にすることになるし、どう断れば良いか……

「おい、いつまで経っても荷物を持って来ないと思ったら、こんな所で何をしてる?」

突然背後から掛けられた低い声にビクリと肩を震わせる。
ヤバい、と、背中を丸めて恐る恐る振り返ると、そこには恐怖の実習担当、ボリスが腕組みをしながら仁王立ちしていた。

「すすすすみません!今行きま」
「ちょっと待て。その手に持っている物は何だ?」

慌てて仕事に戻ろうとするコプチェフの声を遮って、ボリスがヴェーラの手に持っている物を指摘すると、今度は彼女の方がビクリと肩を震わせた。

ボリスが僅かに目を細める。

「飴玉、だな……これ何処から持って来た?」

え、本人の物じゃないのか?
ボリスの言葉にコプチェフもヴェーラの方へ向き直ると、ヴェーラは気まずそうに視線を逸らした。

「アンタ今糖尿を患って食べる物は制限されていますよね?こんなもの何処から持って来たんですか?」

ヴェーラが答える代わりにニタリと笑みを浮かべる。どうやら笑って誤魔化したいようだったが、たたみかけるように「誰の部屋から持って来たんですか?」と質問されると、あからさまに視線を逸らして口を噤んだ。

そのまま一向に答えようとしないヴェーラに、ボリスが溜息をひとつつくと、静かに彼女へ手を差し出した。

「とりあえず、それは一旦預からせてもらいます。その瓶をください」
「……」

ボリスの言葉に、口を尖らせて拗ねたような顔をしてはいるものの、反論や抵抗をしない辺り、自分のしていることに自覚はあるようだ。
それでも返すのが惜しいのか、ヴェーラは瓶を差し出すことはせず、胸の辺りで力なく瓶を抱えたままだった。

しかしボリスが瓶を取り上げた瞬間、

「……人の物盗って、この泥棒!」

突然、火が付いたようにボリスに食って掛かった。

「他人の物を盗ったのはどっちですか。これは持ち主に返します」
「いいじゃないのちょっとくらい!このケチ!」
「他人の物にちょっとも何もありません。ケチでも泥棒でもいいですが、まずは自分の身体のこと考えてからものを言ってください」
「なによこの意地悪!悪魔!」

こ……これは、所謂修羅場というやつだろうか?
あのいつもニコニコと話し掛けてくる彼女に、こんな荒々しい一面があったなんて……

しかしヴェーラの剣幕に対してもボリスの返答は飄々としたもので。コプチェフはおろおろとボリスとヴェーラのやりとりを交互に見ていたが、

「もう、あんたなんか嫌いよ!!」

一方的に言葉を切ったヴェーラが、叫びながらその場を走り去った。

「む……捨て台詞を言って逃げたな」
「捨て台詞って、ボリスさん……」

面と向かって「嫌い」と言われたにも関わらず、まるで日常の一コマのようにさらりと流しつつ相手の行動を分析するボリスさんのメンタルは一体どうなっているのか。
俺なら毎日一生懸命にお世話している人にそんなことを言われたら暫くは凹むな……

「まぁ今は怒りが俺だけに向かっている状態だから、外に飛び出すようなことはないだろ。それよりも、コレ」
「え……」

ずいとコプチェフの目の前に差し出されたのは、運ぶ途中だった入浴準備の道具だった。
いつの間に。

「刃物だけじゃなく、こういったシャンプーや洗剤類もちょっと目を離した隙にイタズラをしてしまう利用者も居るんだ。誤って飲み込んだりしたらどうするんだ。途中で別のことをする時には、こういった物は安全な場所に持って行ってからにするんだな」

叱られてしまった。

「すみません……不注意でした」
「取り敢えず、これは俺が運んでおくから、お前は入浴介助の時間が来るまで待機してろ」
「はい……」

しゅんと落ち込むコプチェフに構わず、荷物と飴の入った瓶を持ってさっさとその場を去るボリスを見送って。
緊張が解けたこともあり、一人になった途端に一気に脱力感が襲い、コプチェフはその場にしゃがみ込んだ。

……何も、出来なかったな。

彼女の態度を見る限り、あの飴の瓶はおそらくボリスさんの言う通り、誰かの物を勝手に持ち出したのだろう。
それはいけないことだ。
いけないことだけど、でも。

だったら何故彼女は、それを隠れて一人で食べてしまわないで、俺と食べようなどと言い出したのだろうか。

「内緒で」と言いながらも、あんな人通りの多い居住棟と食堂の間の廊下で、瓶を抱えてぶらついていたのは。
俺の姿を見つけて、嬉しそうに呼びかけた彼女は、もしかしたら。



――ただ誰かとその嬉しさを共有したかったのではないか?



もっと別の言い方をしていたら。
俺が、あの時に何かを言っていれば、何か変わっていたのだろうか。

あの場に居ることに耐えきれず逃げ出してしまった彼女は、今どんな気持ちなのだろうか。


ボリスさんはああ言っていたけど、やっぱり心配だ。
入浴時間まで待機……まだ時間はある。

コプチェフは壁に掛けられた時計を見て時間を確認すると、走り去ったヴェーラを探しに館内を回った。








――居た。

思いの外すぐに見つかって良かった。
館内を探し始めて数分。機械室へと続く廊下の突き当たりに、彼女は小さく膝を抱えて座っていた。

まるで、誰かから声を掛けてもらうのを待っているように。


さて、見つけたのは良いが、どう声を掛けたら良いものか。
逡巡しながらもコプチェフが近付いて行くと、その姿をチラと見たヴェーラが、小さく口を開きぼそりと呟いた。

「……ちょっとぐらいいいじゃない。あの人本当にケチなんだから」

まだボリスへの怒りは収まらないようだ。

いや、他人の物を勝手に持って来てケチも何もないだろ。
喉元まで出掛かった言葉を寸前でぐっと飲み込み、コプチェフはヴェーラの目の前まで行くと、膝を曲げて視線を合わせ、出来るだけ穏やかな声で話し掛けた。

「う〜ん、でもあれはヴェーラさんが病気になるのを心配して言っているのだと思いますよ?」
「そんなことないわよ!あの人が意地悪なだけなんだわ!!」

おっと、ボリスさんへのフォローは逆効果だったようだ。
これでは会話にならない。ちょっと視点を変えて話してみようか。

「でも、病気を持っているというのは、本当なんですね?」
「……うん」
「今は何処の具合が悪いのか、教えてもらってもいいですか?」
「……毎日お腹にね、注射をしなきゃならないの」
「毎日なんですか。大変ですね」
「自分でね、こうやって刺すんだけど、時々すごく痛いの」

コプチェフの質問に、ヴェーラが自分の腹部を片手でさすりながら、もう片方の手をグーの形にして腹壁に当ててみせる。
先程のボリスとのやりとりの中で、彼女が糖尿病だと言っていたところから、この仕草はおそらくインスリンの注射をしている真似なのだろう。実際にやっているところは見たことが無いが、ペンのような小さな注射器で、それは患者自身で打たなければならない、という話を聞いたことがある。

飴の話題から病気の話題に移行した途端、彼女からさっきまでの怒りの表情は消え失せ、悲壮感に満ちた顔に変わった。
しかしこの話題だと取りあえずこちらの話は聞いてもらえそうだ。コプチェフは彼女の心を開く糸口を探る為、話を続けた。

「痛いのは、辛いですね……」
「毎日痛いし、好きな物も食べられないし、もう止めたい。私の身体だし放っておいて欲しい!」

話しながら辛いことでも思い出したのか、ヴェーラが再び声を荒げ、更に深く膝を抱えて蹲る。
コプチェフは先程から激しく気分が上下する彼女を、じっと見据えた。


――彼女の行動には、間違っている点が多々見られる。
でも、一理ある言い分も見受けられる。
これはただ単に正しい正しくないの話だけでは解決しない問題のように思える。
彼女の病気や彼女の辛さは、彼女の主観を通して体験されるものであり、他の人にはわかり得ないものだから。甘えるな、と、一喝したところで、彼女にその言葉は全く響かないだろう。
たぶん、今の彼女自身に必要なのは、そういうことではないような気がする。


「……でも、病気になったら、俺が悲しいです」

ヴェーラがわずかに顔を上げる。

「……ホント?」
「はい。今せっかくこうやって楽しくお喋りをしているのに、もしヴェーラさんが入院しちゃったら、もうお話し出来なくなるじゃないですか。それは、俺は寂しいです」
「寂しいの?コプチェフくん……」
「俺だけじゃないですよ?他のスタッフや利用者さんだって、きっと寂しくなると思いますよ」

……こんな曖昧な言葉を投げかけても良いのだろうか。
元気付ける為とはいえ、言ってしまってから少し後悔するコプチェフに、しかしヴェーラは、少し何かを考えるように一度視線を落とすと、

「……うん」

静かに頷き、徐にズボンのポケットに手を入れ、ゴソゴソと何かを取り出した。

「ヴェーラさん、それは……」

ポケットから取り出されたのはいくつかの飴玉だった。
驚いた。まだそんなところに隠し持っていたのか。

「ううん、これは盗ってないよ?この間家族が持って来てくれた物なの。あとこれだけしかなくなっちゃったから、もったいなくて食べられなかったの」

コプチェフの顔を見て、ヴェーラが慌てて弁解をする。
確かに、先程彼女が持っていた瓶の飴とは、少し形状が異なる。なるほど、これが無くなりそうになったから、彼女は他人の部屋に侵入して飴を持って行ったのか。
根本的な理屈はおかしいものの、この人にもその行動を起こすだけの理由があったという訳だ。

「これ、あげる」
「え……いいんですか?」
「うん、全部あげる」
「でも、そんな大事なものを」
「ううん。あの人嫌いだけど、あの人が言っている通り、これが身体に悪いことはわかってるから、我慢する。でも捨てるのはもったいないし、心配してくれるコプチェフくんになら、いいわ。あげる」

ヴェーラが飴をコプチェフに差し出す。


……家族から貰った宝物のようなものを、自分が貰っても良いのだろうか。

少し迷って。
しかし、少し寂しそうに微笑んでくれる彼女を見て、コプチェフはその飴を受け取ることにした。





*****





――何が、正解だったのだろうか?

落ち着きを取り戻したヴェーラを居室まで送り届けて。コプチェフは飴玉を握り締めながらぼんやりと廊下を歩いていた。

ふと、立ち止まり、手の平を広げて飴玉を見る。

先程ボリスが預かった色とりどりの飴とは違って、彼女から受け取った飴は印刷のない透明な包装紙に包まれて、その中の飴は全て半透明の黄褐色をしていた。


べっ甲飴だ。


家族が持って来たということは、たぶん色とりどりのどの飴よりもこの素朴な飴が一番好きなのだろう。
この飴玉を、どうするべきか。

実習をしていて、困ったことがあったら、まずはそこの実習担当職員に報告をしなければならない。自分はただの実習生だし、実習先に迷惑がかかってはならないからだ。
でも、そうすると自分にならと信頼し、この飴玉を渡してくれたヴェーラさんがこれまで隠れてこの飴を食べていたことが明るみに出て、彼女の信頼を裏切ることになる。

自分を信じて飴を渡してくれた彼女が、責められるのは、正直見たくない。
彼女はもう隠し持っている飴はないと言っていたし、このまま自分が黙って見逃していれば……








「――ボリスさん、お話があります」

やっぱり、黙っていることは出来なかった。

職員室の扉を開け、目的のデスクの方を見ると、ボリスは何か書類のようなものを書いている最中だった。
コプチェフは一度深呼吸をすると、気合いを入れるように前を向いて、ズンズンとボリスの方へ近付いて行った。

まずは、この飴の事情を説明しないと。それから、彼女の言い分もきちんと伝えなきゃ。
彼女の行動にも、ちゃんとした理由があったことを、伝えるんだ。

「ああ、ちょっと待ってくれ。今もうちょっとで書き終わるから」
「……何ですか?それ」
「受診願。怪我や病気の疑いがある際、この紙に気になった利用者の様子や症状を書いて、ここの常駐の看護師に医療機関への受診の伺いを立てるんだ。
彼女は定期的に受診しているが、まだ次の受診予定日まで期間があるからな。少し予定日を早めて、一度彼女の間食について話が出来ないかと思ってな」

言いながらボリスが希望機関名と日時などを埋めていく。
受診者名には、ヴェーラの名前があった。
あの場ではあっさりと彼女の話を躱していたが、ボリスさんもちゃんと彼女のことを考えていてくれたのか。

「ボリスさん。さっきのあの飴は、」
「ああ、あれは持ち主に返した。別の棟の利用者の物だったが、その人時々食堂や談話室に持って来ては他の人に見せびらかしていたらしい。それを見て羨ましくなったんだろ」

そうだったのか。
てかこの人本当に仕事早っ。俺が彼女と話をしている間に、入浴の準備を終え、瓶の持ち主を特定して返し、受診願まで書いていたのか。

「ボリスさん、あの、これ。ヴェーラさんから預かりました」
「お前、これ……」

コプチェフが手の中の飴玉を広げて見せる。流石にこの飴を隠し持っていたことまでは気付かなかったボリスが、驚愕の声を上げながらコプチェフを見た。

「家族の方が、面会に来た時にこっそり持たせてくれたそうです。飴玉の包装もさっき預かった物と違いますし、嘘はついていないと思います」
「家族か……身体のことはちゃんと家族にも話をしているんだけどな。全く、道理で食事改善をしても数値が悪くなるわけだ」

ギッと椅子に深くもたれて、こめかみを押さえながらボリスが溜息をつく。
面会時に居室で家族がこっそり持たせたものなら、スタッフも気付けない訳だ。

久々に会った家族に美味しい物を食べさせてあげたい。
その気持ちはわからなくもないが、しかしそのちょっとした想いが、逆に彼女の行動を更に制限させてしまうことになるとは。


皆、誰かを想ってやっていることなのに。

どうしてこうも上手くいかないものなのだろうか。


「彼女は家族から貰ったこの飴が無くなってしまうのが嫌で、他人の部屋から飴を持って行ったんです。でも、話したらちゃんとわかって、飴を俺に渡してくれたんです。だから――」

だから、
何と言えば良いのだろう。

彼女を許してください?彼女の行いを見逃してください?
いざ言葉にしようとすると、どれも正当性がなく、自分の私情が入った勝手な言い分に聞こえる。

彼女の気持ちを伝えようと意気込んで来たはずなのに。
これは、ただの俺のエゴなのだろうか……?


言葉に詰まり、コプチェフが俯いていると、



「よく知らせてくれたな」



ボリスが、手の平の飴玉をひょいと一つ手に取り、窓から差し込む陽の光に透かせて見上げ、

「ふむ、破れや穴もないし……大丈夫そうだな」

そう言って、ポンと再び飴玉をコプチェフの手に平に乗せて戻した。

「あの、これ……」
「彼女がお前に託した物だろ?だったらお前がそれをどうするか決めろ。…まぁ、実習に来て腹壊されたんじゃ大変だから、いま封の破れがないかだけ確認させてもらったが。
流石に賞味期限はそこに書かれていないから確認のしようもないけど、前回家族が面会に来たのはまだ一ヶ月程前のことだし、食べても一応問題はないと思うぞ?」
「じゃなくて、ヴェーラさんのやっていたこと、見逃してくれるんですか?」
「う〜ん……見逃しはしないけど、今のやりとりはお前とヴェーラさんとの間のやりとりだからな。だったらこれはそれで終わりだ。あとはこっちで別のアプローチを考えてみる」

思いの外あっさりとした対応に戸惑ってしまった。

「あ……あのヴェーラさんは、きちんと受診したらお菓子が食べられるようになるんですか?」
「取りあえず、次の受診で検査の結果を聞いて相談してからだな。糖尿病は一生付き合っていかなければならない病気だが、改善次第ではある程度の間食も出来るし、インスリンの注射もなくなる」
「ホントですか!」
「改善すれば、な」

良かった。彼女が今の気持ちを保持し続けてくれれば、もしかしたらそれも夢ではなくなるのかもしれない。
コプチェフがホッと胸を撫で下ろすと、受診願を書き終えたボリスが椅子から立ち上がり、腰を伸ばした。

「さ、この話は終わりだ。もうすぐ入浴の時間だから、お前は着替えの服を持って先に準備してろ」
「あの、失礼ですがボリスさんはヴェーラさんに話をしに行かなくてもいいんですか?彼女、誤解したままじゃ、」
「ああ、あれはあの人流のストレス発散法だ」


……へ?


「そう、なんですか……?」

「自由に食べたいものも食べられないと、誰かに八つ当たりでもしなきゃやってられないだろ。彼女、瓶を取り上げた瞬間に怒り出したろ?当たる対象と口実が欲しかったんだろ。
ま、俺はここではこんな役回りだからな。大体あんなモンだ」
「そんな……」

ボリスさんだって、ちゃんと彼女のことを考えているのに。
共に長い間ここで生活をしているのに、それをヴェーラさんは知らないままで、ボリスさんも弁解しないなんて……

「そんなのって……」
「……そうだな。本当は俺も根気よくあの人が納得出来るまで話をすれば良いんだけどな、目の前で好物を取り上げちまったからなぁ。まともに話を聞いてもらえるまで少し時間が必要だと思ったし。それに、あの場にはお前も居たしな」
「え、それはどういう」

「ありがとな」

コプチェフが目を丸くする。
この人が実習生に礼を言うなんて、思いもしなかった。

「お前が、説得してくれたんだろ?」
「え、はい。どうしても気になって……一応」

でも、今は罪悪感でいっぱいだ。
コプチェフは、手の平に戻された飴を、ぎゅっと握りしめた。

確かに、説得は出来た。
その時は、少しでも彼女の気持ちが晴れればと思って言ったことだったけれど。

でも、俺はただの実習生で。彼女と話しをしたいと言いながらも、二週間後には居なくなってしまう存在なのに。
その後も彼女はここでの生活がずっと続いていくことを考えずに、寂しいなんて、適当なことを言って。

なんだかまるで、自分の都合の良いように彼女を騙しているんじゃないかという気持ちになった。

「お前がそこまで気に病むことはねぇよ。あの人もわかってはいるんだ。でも、わかっているのとそれを自制できるのは、別の話だからな。我慢できずに数日後には同じことを繰り返してしまう。まぁ、それはこちら側の言い訳にしかならないんだがな。本当はこんなことをしなくても済むような、もっと別のアプローチがあるのかもしれない。
……人との関わりなんて、何が正解かなんて、わからないもんだ。例え長年勤めていてもな」

そう言って、窓の外を見るボリスさんは、


少し、遠い目をしていた。



ああ、この人も一生懸命模索しているんだ。
自分達実習生から見たら、ここの職員はずっと大人で、みんな経験も豊富で。何でもわかっているように見えるけど、

本当は毎日悩みながら、利用者と関わっているんだ。



「凹むだろ?」
「え……?」

ボリスが視線を戻し、コプチェフを見る。

「ここの人達の『寂しい』に、上手く応えられないとさ」





ああそうか
『寂しい』んだ






彼女がずっと自分に話し掛けてくるのも
他者の部屋から飴を持ち出してしまったのも
ボリスに対してあんなに激しい感情をぶつけてきたのも
実習生の俺なんかの話に、素直に耳を傾けてくれたのも


寂しい、からだったんだ


やり方は決して適切ではないけれど
誰かと関わりたくて
誰かに認めてもらいたくて
誰かに特別に思って欲しくて、仕方ないんだ


でも、
何時間彼女の話を聞き続けても、どんなに彼女の要望に応えたとしても、きっとその想いは完全に解消はされないだろう。
自分達は、決して彼女の求める本当の『特別』にはなれない。
誰にでも平等に接しなくてはいけないから。そのバランスを欠いた時、きっと自分も、相手も、潰れてしまうだろうから。

それが仕事、だから。




家族と離れて暮らす寂しさを

他者と上手く関われない孤独を

自分の想いを適切な形で表出出来ない悔しさを


自分達は、どうしていったら良いのだろう?



誰かを立てると、誰かが傷付くこともあって

何かを選ぶと、何かを捨てなければならないこともあって



他者の幸せというのは、簡単に測れるモノではなくて




それをここの人達と見つけていくは、すごく途方もない作業なのかもしれないけど――










結局、その飴は食べることが出来なかった。





*****





「二週間、お世話になりました」

十四日間の実習を終えて。
コプチェフ達実習生は、施設の管理者と、それぞれお世話になった職員にお礼を言いに回っていた。

少し、ここの生活に慣れた頃だったのに。終わってしまうのは何だかヘンな感じだ。
利用者の方にもたくさん寂しがられて。嬉しい気持ちと寂しい気持ちと申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになって、不思議な気分だ。

「おう。また学校での勉強、頑張れよ?卒業して就職先に困ったら、いつでも来い。ここは常に人手不足だからな」

ボリスのところにも挨拶に行くと、デスクで事務作業をしていたボリスが、頬杖をついたままこちらを向いて、ニッと笑った。

「それ、俺が就職浪人になるってことですか?」
「あんな実習日誌の書き方じゃあな。面接の前に論文試験で落とされるぞ」
「う……頑張ります……」

ボリスさんがいつでも来い言っているのは、実習生へのお決まりの社交辞令だろう。自分達にはこの後も卒業まで、いくつもの施設での実習が待っていることを、知っているのだから。

学生にとって、ここでの実習はあくまでも卒業の為の一つの通過点。

だけど、俺は―――


「ボリスさん、俺ちゃんと勉強するんで、俺が学校を卒業するまで待っててくださいね?」

きっぱりと言い放って、コプチェフもニッと笑って返した。

最後の意趣返しは上手くいったようだ。
思いも掛けなかったコプチェフの言葉に、ボリスは一瞬目を丸くしたが、それから、


「……来たら扱き使ってやるよ」


あ、れ……?

言葉では、とんでもなく恐ろしいことを言っているように思えるのだけど。

まるで安堵したように、少し緩めた目元は、俺が実習中に見たどの顔とも全然違うもので。
自分よりもずっと年上のはずなのに、思いの他幼く見えるその笑顔に、



初めて、素の彼を見た気がした。





少しだけ心臓が高鳴る。

実習初日はとんでもなく怖かったけど。
実習最終日までものすごく厳しかったけれど。

もう一度、この人と一緒に、仕事がしたい。


そう思った。





コプチェフが大学を卒業し、就職の面接を受けに再びここにやって来るのは、あと二年半後―――



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