「えぇえええ、引っ越し!?こ、今週末!?」

「あん、なにか問題でもあんのか?」



正直、問題ありまくりだと思うのですが。
日吉くんとふたり、マンションの一室を貸してくれた、中学のときから私たちを知っていてくれる、所謂保護者的な存在にあたると思う、跡部くんに挨拶するために彼と待ち合わせた水曜日の午後。久しぶりに顔をみた跡部君は、相も変わらずといった整った顔立ちと他人に有無を言わせぬ態度で現れた。


日吉くんは、先週で講義選択がひと段落してしまえば、1、2限目とはやい時間に講義が入ってはいるものの、ずいぶんと大学生活に慣れて落ち着いていた。私の方も、バイト先にはひとり暮らしの資金が貯まるまで、との約束だったので、徐々にシフト数を減らして、私の代わりに入った女の子に仕事の引き継ぎをしているところで、時間に余裕も出てきた。こうしてふたりで会える時間も増えてきて、なんで私たちはあんなにもすれ違ってしまっていたんだと思うくらいに穏やかな日々を送れていた。高校と比べてしまうと、やはりキャンパス内では会えることは少ないけど、私は午後の実習が終わってしまえば全部の時間が自由になったし、日吉くんと一緒にいることだって出来た。些細な時間でも会えれば幸せだし、前のような日吉くん不足に悩まされることもなくなった。多分、それはこれから一緒に暮らせるっていう精神的に大きな支えがあるからだと思うんだ。

今日も、日吉くんの午後の講義が終わるのを待って、一緒に大学構内のカフェテリアで待ち合わせしていた。跡部くんは経済学部なのでキャンパスは違うのだけれど、お礼をいいたいって言ったらわざわざこちらのキャンパスまで出向いてくれた。
いや、それは迷惑になってしまうのでいいです、と電話で交互に口にした私たちだけれども、一度決めた跡部くんを動かそうなんて梃子の原理を使ったって無駄な話で。どこでこの話を聞き付けたのか忍足くんを交えた4人でカフェテリアの窓際奥の席にについていた。



「お前ら一緒に暮らすって決まってて、更に住居も決まった。なにを躊躇うことがあんだよ」

「いや、跡部さん別に躊躇わってるわけではなくてですね…」

「今週末って急かな?って思って、ね」

「人手なら俺様がテニス部を寄越してやるから問題ねぇ、こういうのは急いだほうがいいんだよ」



普通の大学と比べたら随分と豪勢なカフェに奇妙な顔ぶれ。私と日吉くんと忍足くんはまだしも、キャンパスの違う跡部くんがいる。目立って仕方がなかった。
跡部くんと忍足くんが並んで座って、跡部くんの向かいに日吉くん、日吉くんの隣に私という席順だ。氷帝学園に通うものなら幼稚舎から大学部まで知らぬ者はいないとされるかつてのテニス部レギュラーの3人が久しぶりに集まったとなったので、周りにはギャラリーも集まり始めている。騒がしくするのを良しとしないて思った集まった女の子たちは、静かにしながらも、ひそひそとこの奇異なテーブルに好奇の視線を寄越す。

多分、みんなはこんな視線なんか慣れっこなんだろうけれど、私みたいな一般人は動物園のパンダかなんかになったみたいな落ち着かない気分だ。だって、こんなイケメンに囲まれることなんて、ないんだもん。大勢の人の視線にもなれない。私はせいぜい同じ学部、同じ科の生徒の前でプレゼンテーションする程度の規模の注目しか体験したことがないんだから仕方がないと思う。私みたいなちんちくりんがこの席に座っているこの光景は、なんとまいたたまれないだろう。
普通女の子がこんな状況になれば、感涙ものかもしれないが、実際この場面で落ち着いた心境でいられる女の子は、相当肝が座っているか、相当の美人さんのどちらかだと思う。個人個人では、日吉くんとはずっと一緒にいるわけだし、忍足くんとも友達としてずっと仲良くしているわけだから、こんな気持ちにはなったりしないけど。こうも揃ってしまうと、見慣れていても、うっとそのオーラにやられてしまう。
そしてその一番の理由は、跡部くんにあると思う。私と跡部くんは、同じクラスになったこともなければ、ろくに話したこともない。日吉くんを通じて知っているだけだったし、お互いに挨拶する程度だし。あと私たち氷帝生からすると、部長や生徒会長として学校を引っ張っていく圧倒的なカリスマ性をもつ、リーダーとした印象が強いから、そんな彼が目の前にいるとやはり気後れしてしまう。
私がこの場になんとかいれるのは、隣に座ってる日吉くんが私の手を、テーブルの下でぎゅっと握っていてくれているから。私が人見知りなのと、気を許せるようになるまでにならない男の人が苦手だって知っている日吉くんは、跡部くんが来たときからずっと私を気にかけて私を落ち着けるように手を繋いでいてくれる。



「もうガスや水道はなんら問題なく使える。引っ越しの業者は手配しておく。それまでに、必要な家具を容易するなり、荷物を纏めるなりしておいてくれ」



私達の話を聞く気がないのであろう跡部くんは、鞄から皮張りのシンプルな手帳を取り出して、引っ越しの手続きなどをしようとしている。私たちは顔を見合わせてどうしよう、と目配せしてみるけど、日吉くんは目を伏せて頭を振る。諦めてください、と言っているようだ。私の向かいに座る忍足くんも「跡部は決めたら聞かんからなぁ」、と苦笑。
いつも日吉くんの話にきいていたような跡部くんの手際の良さ、もとい、ゴーイングマイウェイなところに私も吊られて苦笑。本当に今までは、一言二言交わすくらいだったから分からなかったけれど、完璧なリーダーというよりは、世話好きなお兄さんみたいな印象だ。日吉くんがきっと、よほど可愛い後輩なんだろう。隣で溜息をついてる日吉くんを見て思わず笑ってしまうと、日吉くんは不満そうに私をねめつけた。



「…なんです」

「ううん、いや、ひよは素敵な先輩を持って幸せねって思って」

「せやね、ほんま日吉は幸せもんやね」

「俺は不満だ…!」



ムスッとしたまま紅茶に口をつけて、そっぽを向いてしまうその仕種は、身体付きは大人になっても変わらない。むしろ、跡部くんや忍足くんみたいな先輩の前だと、私の前よりも頑張って大人ぶろうとして拗ねてしまってるような、そんな感じ。私といる時よりも子供っぽい表情で、なんだか少し悔しいなぁ。まだ見たことのない日吉くんが沢山いるんだもん。
にこにこと笑いながら日吉くんをからかう忍足くんも、私といるときやクラスでいるときとどこか違う。跡部くんも、沢山の人の前でパフォーマンスしているときと違う。男の子同士だと、子供っぽくなるんだなぁって思うと、もう成人近いこの学園中の憧れの的である3人も、やはり普通の学生なんだと親近感が沸いた。私の緊張が少し解れたのが繋いだ手から伝わったのか、日吉くんの親指が、私を褒めるみたいにいいこいいこと私の掌を撫でた。私も負けじと掌を擦り合わせてにぎにぎとしてみたら、日吉くんの顔がみるみるうちに赤くなって、「っ、名前さん!」と、怒られた。私は日吉くんの、もう昔と比べたら幾分かはなくなってしまったが、テニスラケットでできたまめのある皮膚の感触とか、男の人にしては細くて関節が骨で飛び出てる指が好きだから手を繋ぐと必要以上に絡めたくなってしまうのだけれど。日吉くんにはそれが恥ずかしいみたいで、やるといつも怒られてしまう。



「全く、アンタは油断も隙もない」

「なに、テーブルの下でやらしいことしてるんとちゃうよなぁ」

「してないよ、ま、まさか!」

「自分ら顔真っ赤やで」

「全く、俺様がわざわざ動いてやってんのに何してやがんだお前らは」



手帳やら電話やらを駆使していた跡部くんが、呆れたような口調と共にメモを寄越した。手帳のページを几帳面に真っ直ぐに切ったそれには、整った文字で色々と書いてあった。日付に時間、引っ越し業者の名前と番号、あとはかつてのテニス部レギュラーの見知った名前が数人。



「今週末、引っ越しだ。忘れんなよ。必要なメンバーにも連絡しておいた」

「…は、はぁ、ありがとうございます」

「はは、日吉も苗字もがんばりや」

「や、忍足、テメェも手伝え」

「え、俺のスケジュールは無視かいな」

「当たり前だ」



こうして、後輩想いの暴君、もとい、仕切り屋さんの強引なスケジューリングで私たちの引っ越しの日にちは決定した。今週はまだバイトの引き継ぎが残っていたりで部屋を片付けたり荷造りする時間はあまりないのだけれど、跡部くんがやる気満々みたいなのでなにも言わないでおこう。ほら、善は急げというじゃないか。日吉くんも、文句を言いながらも満更ではなさそうなので、良しとした。
今回は跡部くんにお礼を言うための席だったのだが、なんかより感謝する形になってしまった。高校卒業とともに跡部財閥の跡取りとしとのノウハウを学ぶべく、大学以外でも多忙な生活を送る跡部くんが、次の予定へと向かうためにカフェテリアを後にするのを、私と日吉くんは深いお辞儀と共に見送って、この奇妙な顔ぶれの集まったお茶会は解散となった。



* * *



そして、いよいよやってきた週末。メモの指示にあった通りに荷造りを終えて自宅で待っていたら、時間ぴったりに引っ越し業者と、自家用車で忍足くんがきた。



「おはようさん、苗字」

「おはよ、今日はありがとうね」



手伝うと言う両親はおいておいて、私の部屋にあったものは次々と業者さんの手によって運び出され、あっと言う間にほぼ空っぽになってしまった。きっと私用で帰ってくることもあるだろうから必要最低限のも、あとは、マンションには不必要なもの、日吉くんと分担して使わなさそうな家具、家電だけを残した私の部屋は、随分とこざっぱりとしていて、広く感じた。
そういえば、私が生まれてからのほぼ20年、ここで暮らしてたんだなぁと思うと、妙に感慨深くなる。今までは日吉くんと一緒に暮らせる楽しみとか、あとは急な引っ越しによる慌ただしさで忘れていた感情が、日焼けした壁と極端に密度のなくなった部屋によって喉のあたりに込み上げた。変なの、別に一生の別れでもなければ、県外に引っ越すわけでもない。いつだって戻ってこれるのに。「これで全部ですか?」引っ越し業者さんの言葉に頷きながらさようならを告げるべく、部屋をもう一度、ぐるりと見渡した。狭い狭いって文句を言ってたけど、そんなこと全然なかったなぁ。



「…寂しいん?」

「…ちょっと、ね」

「阿呆やな苗字」

「なにがよ」

「さよならやないやん。むしろ、新しい自分の居場所が増えるんやで、最高やん」



なぁ?って、忍足くんが柄にもなくウインクを投げて寄越して私の頭をくしゃりと撫でた。もう、止めてよ、グシャグシャになっちゃう、なんて言いながらも、彼の優しさにも心の中で感謝した。「ほな、愛しの日吉との愛の巣に行こか」いつも私と日吉くんを助けてくれた忍足くんにそっと促され、私は生まれてからの時間を過ごした部屋と家を後にする。お父さんとお母さんが、いつもの調子で「日吉くんにご迷惑かけちゃだめよ!」「あんたみたいな子には勿体ないくらいの素敵な人なんだから!」という中でも、少し泣きそうだったのには気がつかない振りをして、元気いっぱいに手を振った。日吉くんと喧嘩したら、実家に帰りますごっこをするためにまた戻ってくるよ、なんて。



「泣くかと思った、苗字」

「泣かないよ、なんで泣くの」

「案外涙もろいやん」

「だって、これから私は幸せな生活を送るのに、泣くのなんておかしいでしょ?」

「はは、せやね」



忍足くんの車の助手席に乗って、愛しの日吉くんの待つマンションへと走る。忍足くんはなにも言わなかったけれど、窓を開けて風に当たる目頭がじんと熱くて、私の言葉数は自然と減ってしまった。
カーステレオから流れる曲が、忍足くんの大好きな恋愛ものの曲で、それに合わせて隣から聞こえる鼻歌を聞きながら、右から左へと流れる景色を眺めた。

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