昨日は名前さんと一日ずっと一緒にいられた。沢山話せたし、触れたし、キスしたり、できた。あの細くて白い腕が縋るように俺の背中に回されて、ぎゅうって抱き着いてきた。わかしって、ずっと名前を呼んでくれた。頬が赤く染まって、小さく泣きながら、好きって呟く名前さんは、本当に可愛くて、ああもう、俺は何度彼女に殺されてしまいそうになったんだろう。

そんなことを、不覚にもずっと頭を駆け巡ってしまって、今日は一日呆けてしまってる。授業だってずっと上の空だ。目をつむって机に突っ伏してしまえば、簡単に昨日の名前さんを思い出すことが出来た。それだけで心臓は熱くなる。確実に、昨日よりも今日の方がずっと、名前さんを好きだ。だって昨日まではこんなんじゃなかったんだよ、全く。
普段は授業を真面目に受けてる俺が下をずっと向いていたから、周りの奴らや教師に心配された、が。お前たちじゃこの気持ちをどうにかなんて出来やしないだろ。どうにかできる人間なんて、この世に、たった一人しかいないんだよ。ちくしょう、どう責任とって貰おうか、アンタのせいで、俺はこんなにも馬鹿みたいな単純な思考回路しか働なくなってしまったんだ。どうやったって、海馬はアンタの記憶しか呼び起こさないんだよ。



テニスは、最近は思いの他調子が良かった。それもこれも、実は名前さんが教室で待つようになってからだと思う、認めたくはないが。図書室の方が安全だったし、安心ではあったが、…名前さんが見ていてくれてると思うと、多分どこかしら張り切っている自分がいるんだろう。向日さんにも鳳にも、いい感じだと褒められた。実際、自分でもそう感じるし。


彼女には、試合や部活に来てもらうことはしていない。名前さんが見たいと思っていることは知っていたし、何度か俺に隠れて試合を覗きにきていたことも知っていた。その時は、ただ見られるのが恥ずかしいって、思っていただけだから、黙認はしていた(見にきてくれるのは、嬉しいんだよ、一応)。だが、今ではそれが、どうしても許されないことの内に入ってしまうのだ。…一度、試合会場で名前さんが他校のヤツラに絡まれていた。質の悪いヤツラで、嫌がる名前さんを無理矢理どこか引っ張って行こうとしていて。おまけに、名前さんの腰とかにベタベタと汚らしい手で、触れていた、らしい。これが伝聞で表されるのは俺はその場にいなかったからだ。試合前のアップ中の、跡部さんと忍足さんが偶然現場に出くわして、助けてくれた。名前さんは、俺には言うなとふたりに頼んだらしいので、きっと俺がこのことを知らないと思っているだろう。だけれど、ふたりが当然黙っているはずがなくて、俺は自分の試合が終わった後にその事を知った。腸が煮え繰り返るとはあの時の感情を言うんだろう。酷い苛立ちを覚えた、その男たちに、自分に。でも、それよりも何よりも、聞かされた後直ぐに名前さんを探して会場を走って、やっと見つけた名前さんが、普段と何ら変わりのない笑顔を向けていることに、一番腹がたった。彼女は何も俺に言わなかった、きっと何も起きなかったから言わなかっただけだろう。俺に余計な心配をかけまいとするのが名前さんの性分だ。それは理解し
ている、いやってほど。だからこそ、俺に甘えてこない、助けを求めないでなにもなかった風に接する名前さんを見ると、自分の不甲斐なさとか無力さを目の当たりにするかのようで、許せなかった。年下だから、俺は頼りないんだろうか、でも、生まれてしまったんだから、仕方ない。本当なら、俺は名前さんと同い年に生まれたかった。それで頼ってくれるのなら。だって、名前さんが、忍足さんを頼ってるのを、知っていたから。

「苗字、頼りないやん、しっかり面倒みとき」

その時、忍足さんが俺に告げた言葉だった。どうして、名前さんのことを、忍足さんに言われなくちゃいけないんだって思った半面、その事に深く納得してしまった自分に気がついたときに、俺は自分の愚かさを呪った。
結局、彼女を守るために俺がとった行動というと、彼女に試合に来てもらわないようにするってことだった。試合に来ないで下さい、そうやって言った時の名前さんの寂しい顔を見ながらも、そうとしか、出来なかった。



過保護とか、心配性とか言われるが。本当に心配なんだから仕様がない。一番心配なのは、何かがあっても、名前さんが、俺に何も言わないことだから。
部活終盤のクールダウンも兼ねた軽いラリーを終えて、校舎を見上げた。彼女のクラスの教室の場所は、覚えている。明かりの灯った室内の、窓際にいる彼女。俺は目が悪いし、コンタクトを付けてても高が知れたもんだから、名前さんの姿はきちんと追えない。だけれども、目があった気がして、直ぐに逸らせてしまった。
…それを、向日さんが見ていて、ニヤニヤしてきた。


「若、お前耳赤いぞ」

「煩いですね、ほっといてください」

「お前らも熱いよなー、長いのに、」

「悪いですか」

「いや、いいことだなーってよ」


苗字がいて、お前本当に良かったよな。意味深に、向日さんが笑う。この部活の、レギュラーメンバーは皆知ってるであろう、あの時のことを、向日さんは思い出しとるんだろうか。

俺が中学2年の時、氷帝が全国で敗れたあの時。俺は、跡部さんから部長の座と、達成できなかった全国制覇の夢を託された。結局最後まで、勝たせてもらえないまま、跡部さんは部活を引退したんだ。
カリスマ性、人を魅き付ける美しさ、圧倒的な力、完璧なフォーム。跡部さんに憧れて、テニス部に入ったやつが、大半だ。そしてあの、青学の手塚さんとの試合と、負けはしたが、あのチビ助との試合。あの人が残していったものは、あまりにも大きすぎた。
部長を俺が継いだことに、不満を持つやつは多くいた。きっと、今の俺ならそんなことを気にすることはないんだろうが、あの時は違う。俺は、跡部さんに勝つことのないままに明け渡された場所に、自分が一番、納得できていなかった。
選ばれたからには、やらなくてはいけない、だが、俺は一度もあの人に勝てていないんだ。そんな俺が、跡部さんたちがいて成し遂げられなかった全国制覇に、氷帝を導けるんだろうか。
そんな弱音、一体誰に吐き出せる?吐き出してしまえば、きっと言葉は力を宿す。弱さなんか見せたら終わりだ、だって、跡部さんは弱さなんて一瞬たりとも、見せやしなかった。


引退してからも、向日さんや宍戸さんは部活に来てくれた。だが、跡部さんは一回も来なかった。強がってはいても、俺はずっと苛々していて、その時付き合ったばかりだった名前さんにも心配ばかりかけてしまっていた。ずっと俺の一方的な片思いで、それなのに彼女になにもしてやることが出来ない自分が更に恨めしかったんだ。でも、そんな時でも、名前さんはずっとただ傍にいてくれた。そして、柔らかく微笑んでくれた。ぎゅうと手を握って、

「私はそのままの日吉くんが好きよ」

って、言ってくれたっけな。その一言だけで、俺は全てをふっ切れたんだ。跡部さんの後は追わない、俺は俺で、あの人の影にはならない。そして、テニス部を引っ張って全国へ導いてやる。そうすることで、俺はあの人を越えるんだ。


あとは簡単だった。俺が部長で納得いかないやつだって、俺が迷わなければ、俺を認めた。名前さんがいたからだ。今俺がここにいるのは。初めて会った時から、彼女が欲しいって思っていたけれど。あの時に俺は、彼女を絶対に手放さないって心に決めた。名前さんは、俺のだって。



そんな俺と名前さんのことを知っているレギュラーメンバーは、正直厄介だ。俺が名前さんに、こう、心底溺れてしまっているというか。まあ、そんな風なことを知っているわけだから、俺達がふたりでいるのを見るだけでニヤニヤして、からかってくる。本当いい性格の先輩達だよ。鳳は鳳で、からかってはこないが、気をつかって俺達に気づかないフリをしたり、見てませんアピールをしてきたりするところが逆に腹立つな。樺地は妙に生温かい目で見守ってくるからそれも嫌だしな。


各自ストレッチをして今日の部活が終わり、部室へ戻った。レギュラー部室にはいつものメンバーが揃っていたが、一人欠けていることに気がついた。忍足さんがいない、そういえば、ラリーの時から見ていない気がする。あの人はマイペースなところがあるが、部活をサボるようなことはないので珍しい。気にしながも制服に着替えて帰り支度を整える。名前さんはもう下駄箱にいるだろうか。お先に失礼しますって部室にいるメンバーに告げて、扉を開けたときに、ちょうど忍足さんが戻ってきた。


「なんや、早いなぁ日吉」

「忍足さんこそ、もう皆着替え終わってますよ」

「そんうなん、ちと話しこみすぎたんかなぁ」


誰と、なんて質問する前に嫌な予感はあった。忍足さんはそんな種類の笑みを口許に湛えていた。名前さんと、いた?


「苗字、コートずっと寂しそうに眺めとったで」


瞬間、喉の奥から腹にかけての部分が一気に冷たくなった気がした。きっと忍足さんは全部知っているんだろう。名前さんが俺には言わない気持ちとかそういうことを、だからこそ、この人は、俺にこうして言葉をかける。


「過保護もな、たいがいにせぇへんと、お互いに潰れてまうよ」

忍足さんが、俺の肩に触れた。「籠の中は、安全やけど、中にいる鳥は外に憧れてしまうもんやんなぁ、そうやろ、日吉?」それだけ言うと、忍足さんは何にもなかったかのようにすれ違い、部室の中へと入ってしまった。


お互いに潰れてしまう。
なんとなくは、気づいていた。名前さんが、好きだ。好きで、姿が見えないと、不安になる。それこそ、一層のこと、籠に閉じ込めてしまいたいほどだ。自由に笑う名前さんが、好きなのに。そうだ、いつからか、俺の目の届かないところにいる彼女が不安で仕方なくなってしまって、いつしかそれが、大きな感情を生み出しているんだ。



大きく風が吹いた。桜の花びらが派手に舞った。彼女は桜の木の下のベンチに座って本を読んでいた。俺は、いつから、彼女の居場所を知らないと不安になった。いつから、彼女の全てが俺のものでなくてはそれが許せなくなった。それは、欺瞞だ。


「ひよ、お疲れ様」


名前さんは、いつもと変わらない笑顔で俺に振り返る。どうしと彼女はいつも笑顔なんだろうか。もし、この笑顔が俺に向けてもらえない日がきたとしたら、どうなるのだろうか。


「…ひよ?」


彼女は不安そうに俺を見上げた。きっと、今酷い顔をしているんだろう。それを隠すことすら、今は出来なかった。彼女に触れたくてどうしようもなくなって、桜の花びらに隠れるようにして彼女を抱きしめた。



「すいませ、」

「…大丈夫?」

「もう少し、このままで」


名前さんの腕が背中に回って、優しく撫でた。たまに彼女はそうする。俺の頭を撫でたり、あやすように。それはひどく心地が好くて、全てを許してくれるような甘さを孕んでいる。きっと、俺よりも、名前さんのほうが俺に甘いんだ。けれども、それはやはり、自分の無力さを実感してしまう。


「わか、私も好き、だから、大丈夫よ」


春は穏やかな空気を纏いながらも、大きく風を吹かせた。いつものような振りをして、彼女の手を握って一緒に帰っても、きっといままでの俺たちの関係は壊れてしまうことを、俺はどこかで予感していた。



春の嵐に思う


「忍足、お前、なんであんなことを言った」


跡部に渡すはずだったノートを渡すと、そら不機嫌な顔で言った。


「いや、なんかふたり、最近見てられへんやん」

「だが、俺達が口出すことじゃねぇだろ」


確かに、いくら可愛い後輩と、親しいクラスメイトとは言え、他人が口を挟んでええことではないことは分かっとる。けど、な。


「なんや、好きすぎるっちゅーのも、せつないもんやね」

「ふん、ただ日吉がまだ子供なだけだ」

「はは、厳しいなぁ」

「だが、たしかに、あいつらには嫌ってほどイチャつかれなきゃ調子がでねぇが、な」

「結局は、可愛いんやね、後輩が」

「馬鹿言え」


日吉には、意地悪くなってしまったかもしれん。けど、最近見てて思った、お互いの不安とかが膨れ上がっとるんに。折角好き合うとるのに、それって、なんか、切ないやん。ふたりには変わらずに、ドロドロしててもらいたいって思うんは、俺だけのエゴやないって、みんな思うとる。

20100328
ちょっと噛み合わないふたり。ひと波瀾ある、かも。
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