3年D組、行き慣れた道を行く。3年生のクラスが並ぶこの廊下を俺が歩いていたって誰もなにも言わない。普通下級生が上級生の校舎を歩くときは居心地の悪さや好奇の視線などを感じるものだが、もはや俺にはそういったものは一切ない。そんなの感じるレベルに俺はいないのだ。

3年D組、既に空っぽに近い教室で机に向かう目当ての人物を見つけた。書き物をしていて俯いているが、すぐに分かる、名前さんだ。ペンを動かす度に重力に従った髪がサラサラと揺れている。声をかけようと思ったのだが、何故だかそれを躊躇う心がひとつ。教室の入口に立ってこちらに気づくよしもない名前さんの姿を眺めた。



あの騒動が、嘘のようだ。今の気持ちは穏やかだし、なんというか…もっと、もっと名前さんが好きになった。本当あの人は俺を一体どうしたいんだろうか。魂でも奪う気なんじゃないかってくらい、俺を掴んで放さない。まあ、もう、奪われたも同然なんだが。
彼女が不安で震えていたことも、精一杯に背伸びしていたことも、悲しみを閉じ込めていたことも結局はお互いの裏目に出てしまっていたわけではある、けれど。俺を思ってしてくれた彼女の隠し事を暴いてみれば、そこに残るのは、あれだけ彼女を傷つけてしまった俺をも、抱きしめて好きと言ってくれる彼女の気持ちだけで。俺の意地も焦りも、そんなくだらないもの全部を取り払ってしまうほどだったんだ、それは。


春の日差しが彼女を包む。表情は伺えないけれど、背中をずっと見るのも悪くない。髪の毛の隙間から覗く耳とか、小さくて些細な部分まで俺と違う、女の子のものだ。あれが赤く染まると本当に美味しそうなんだよなぁ、とか。耳の後ろあたりを撫でるとくすぐったそうにするなぁ、とか。彼女の仕種のひとつひとつにまで俺の記憶は作用する。ノートに書き込む瞼が伏せられて顔につくる影のひとつひとつまで全部俺のもので。
そういえば、こうして彼女の後ろ姿を見詰めるのは久しぶりだった。好きなんだが、どうしてか胸の奥がざわめく感じがする。穴が空くんじゃないかってくらい名前さんのことを見て、ふと、記憶が蘇えった。
そうだ、俺は、名前さんと気持ちが通じ合う前、一方的に彼女を思っていた時。俺はずっと、彼女の背中をみていたんだ。合点がいった、声をかけるのを躊躇う理由が。多分、あの時の気持ちが蘇ったんだろう。きっかけは他人から見たらどうってことのないことで、俺が中等部に入ったばかり時、名前も学年も知らない名前さんに惹かれた。惹かれて惹かれて惹かれすぎて名前さんについて沢山調べた。…調べました。
彼女の名前からクラスから選択科目から良く行く場所まで。ただ眺めることしかできなくて、ずっと見てた背中。ワイシャツにもカーディガンにもブレザーにもおまけにジャージや体操服にも毎日心の中で挨拶した。何度か声をかけようとしたけど同じ回数だけ飲み込んだ。
せめてもの願いをこめて、彼女の真っ直ぐな背中に、振り向け振り向け振り向け振り向けと何度も念じた。今では思い出だ。懐かしい。声をかけられないもどかしさ、俺の目の前で知らないやつらと笑い合う名前さん、苦々しい。本当に、俺からの矢印だけが突き刺さっては彼女にはなんにも届かない。


今は、そんなことしなくったって、俺と名前さんは恋人同士なのだから、俺が一言「名前さん」と呼べば簡単に振り向いてくれる。振り向いて更には飛び切りの笑顔をくれるのだろうけど。彼女との関係なんかなかった頃は、ただ後ろ姿に語りかけるしか出来なかった。
だって、名前さんは俺の顔すら知らない頃だ。まだ準レギュラーですらなかったし。知り合いでもなかったから相当な一方通行だった。そこから、忍足さんたちの協力を得て、知り合いになって、付き合うまでに至ったんだが。
名前すら知らなかった名前さんが、まさか俺の隣に、ずっといてくれてるなんて。あの頃の俺に教えてやりたい、あの人は俺の腕の中で笑ってくれるんだぜって。そしたら背中を眺めるだけじゃなくて、もっと積極的になにかしら出来たんじゃないだろうか。

だけれど、その時に一回だけ奇跡が起きた。一回だけ、何十回の内のたった一回だけれども、俺の念によってかは定かではないが。たった一回だけ、名前さんが振り返ってくれたことがあった。暑い夏の日だった。いつもの如く、半袖ブラウス背中に向かって「振り向け振り向け」と呟いていたら、急に、本当に急に名前さんが俺を振り返った。

カチッと、実際は音なんかはしないが、視線がかち合って目と目が線で結ばれた。瞬間、俺は一気に息が詰まって、心臓がずしりと重くなったのに気がついた。ほんの一瞬が永遠の時を刻んで、汗が吹き出て、慌てて俺は顔を背けた。たかが、たかが目があっただけなんだが、彼女の目に俺の全部が吸い取られてしまうようだった。気持ちも、なにもかも。
俺の名前さんへの気持ちが暴かれたようで、しかし、初めて俺の存在に気づいてくれた気がして嬉しかった。なにものにも代え難いほど。名前さんはすぐに、視線を前に戻して何事もないように行ってしまった。
多分、名前さんが振り向いたのは俺じゃなくて別の何かを気にしてのことだと思う。目が合ったのも、勘違いかも知れなかった。もし目が合っていたとしても、きっと名前さんが覚えているはずもない、日常に埋もれてしまうような小さなことだ。けれども、俺には、太陽が逆からのぼるくらい驚くべきことだったし、真冬に桜が咲くくらいの奇跡だった。


机の前のまるまった背中をみて、あの時よりもずいぶんと小さく感じるのは俺が成長したからだろう。背だって追い越したし。
今は恋人同士、片思いではないんだが、思い出してしまった所為かどことなく寂しい。声もなかなかかけられない、タイミングを逃した。背中をじっと見詰める、ずっと言ってたな、振り向け振り向けって。


その時、急に、名前さんが俺のいる教室入口に振り向いた。え、嘘だろ?



「あ、やっぱり、ひよだ」



振り向いて、笑う。俺はもう、頭がパーンだ。昔を思い出して、振り向けって念じたら、振り向いた。急すぎて動揺している。


「やっぱりって、なんですか」

「え、だって、なんだか刺さる視線を感じたから、あの時みたく」

「…あの、時?」

「ひよは、覚えてないかも。中学の時も、こうして私が振り向いて目が合ったことがあるんだよ」


そう恥ずかしそうに言った。覚えてないわけが、ない。むしろ、覚えていてくれたのか。しかも視線にも、気づいてたって。これこそ、奇跡みたいだって言ったら、馬鹿みたいだろうか。校内新聞で特集記事を組みたいくらいの、奇跡だと、俺は思う。


「…俺のこと、知ってたんですか」

「ううん、知らなかったよ。でも、熱い視線だけはずっと知ってたの」

「…熱い視線って、」

「気になって気になって仕方なくて、でもなんだか振り向けなくてね。あの時一回だけ、勇気を出して振り向いたらひよがいたんだよね」

「…、」

「その時から、ひよのこと気になってたんだよ、実は」



見ていたことを気づかれていたのは、赤面ものだ。これじゃあ、まるでオフィシャルストーカーだと言われたようなもんだが。でも、やっぱりこれは奇跡だ。当時の俺、お前の、もやもやした日々は無駄じゃなかったんだ。自分のナイスガッツを褒めてやりたい。名前さんを溶かしてしまうほどの熱い視線、までは言い過ぎかもしれないけれど、見詰めるだけの歯痒い情けない俺に、名前は気づいてくれていたんだ。本当にこれは、校内新聞で特集を組もう、前に撮った名前さんのピン写真(隠し撮りとか知らない)と共に。今度の委員会で提案してみよう。それくらい、うれしいんだよ、俺は。


「…俺は、アンタが気づいてくれる前から、ずっと」

「…そうなんだ、ありがとうね」

「…いえ」

「…なんだか、恥ずかしいね」

本当だ、まるで、付き合いたてみたいな感じな空気だ。彼女と気持ちを伝え合ってからは、こうして妙に甘酸っぱいような雰囲気になる。多分、徐々に、素直になれてきているんだろうか。彼女も、俺も。



* * *



身支度を整えて、やって来たのは氷帝近くにあるケーキ屋だ。今日は水曜日ということで、放課後の練習はない日だ。本来ならそういう日も自主練に励む俺だが、今日はそれも、休み。
練習を休む後ろめたさは多少はあるものの、それ以上に気分は浮かれてる。普段、部活が休みの日は自主練を日課としていることを名前さんは知っている為、こうして出掛けることはない。なのに、今日は、名前さんからケーキ屋さんに行きたいと誘われたのだ。「我が儘言っていい?今度の部活の休み、ケーキ屋さんに行きたいんだけど」と、もの凄く、珍しいことだった。多分、俺が練習したいのを見越して、そういう誘いも出来なかったんだと思う。別に、全く構わないのに。
練習も大事だが名前さんのが、…大事、なのに。帰ってから自宅で筋トレも出来れば道場で稽古も出来るし。こんなのは全然、我が儘の内に入らない。こういう誘いなら、もっと、してくれて構わない。むしろ、してくれ。



「どれにしようかな、ひよは、決まった?」


ショーケースの中に並ぶ見た目も鮮やかなケーキを見て、名前さんは目を輝かせている。口許も隠すことを忘れて緩んでる。俺としてみれば、アンタのその表情だけでお腹いっぱいなんだが、そう言ったら来た意味がなくなってしまうのでいわなかった。


「名前さんは決まらないんですか」

「うーん、こっちとこっちで悩んでるんだよねぇ、」


ケーキの2択に真剣に悩む様は端からみたら滑稽だ。彼女はそんなどうでもいいようなことにすら脳みそを使ってうんうんと悩む。多分悩んでカロリーを消費してケーキを更に美味しく食べよう!なんて魂胆は微塵もない、いや、絶対ない。
年上のくせに、ひとつだけだけど。年上に見えない理由がこういう普段の行動の随所に散りばめられていることに気がついてないんだろうな。年上としてみてない、ということに存外ショックを受けていたようで。そのままでいいのに、やはり意地っ張りな性格が出るのか、大人びようとするけど。この分じゃ無駄な努力に終わりそうですね。


「わかりました、じゃあ、悩んでるこっち、俺が頼みます」

「え、」

「半分ずつ食べればいいでしょう」

「い、いいの?」

「アンタが決めるの待ってたら夜になっちゃいますから」


別になったって全然構わないけど。そんな本音は包み隠して店員に彼女が迷っていたケーキの名前をふたつと、あとはホットの紅茶とアイスコーヒーを頼んだ。トレイに乗せられて出てきたそれを店の奥の角席に持ってふたりで席についた。周りに何人か氷帝生がいたけれども、俺達は公認であるから気にとめる者はいなかった。すれ違った多分一年くらいの女性徒ふたりは、俺達を見て「あ、日吉先輩カップルだ」「わあ、本当、いいなぁ、変わらず仲良いよね」「中学からだよね、ラブラブだなぁ」と声を潜めたのを聞き逃さなかった。
あんまり、他人のそういう噂話とか評価とかは気にしないんだが(むしろ気にしてたらどうにかなってしまうし)、少し、いい気分になった。そうか、後輩からは俺達は憧れのカップルなのか。


「ひよ、機嫌いいね、そんなにケーキ楽しみ?」

「いえ、それはアンタでしょう」

「バレたか。だって久しぶりなんだもん。ひよと食べるのは尚更」


名前さんは本当にうれしそうだ。終始ニコニコしてる。今日朝会ったときもニコニコしてた。今すぐ連れ去ってしまいたいくらいのアンタの顔はフワフワのスポンジをクリームでデコレーションしたのかっていいたくなるくらいの甘い笑顔で。俺も大概、よく放課後までもったと思う。
実は、名前さんとはああいう形で仲直りはしたものの、やはり彼女の無防備さは否めないし、蕩けそうな笑顔を教室でも春物クリアランス大セールのくらいの出血サービスよろしく振り撒いてるんじゃないかと思えば、彼女の周りの男どもの目を悉く潰したくなった。俺の想像以上に、名前さんが俺を、その、好きでいてくれていることを知って不安は和らいだけれど。それでも彼女の預かり知らないところで揺れ動く男心は別物で。やっぱり、名前さんを独占、したい。



俺の邪な思いなど露知らず、ケーキを包む透明のフィルムを剥がしながら、俺が奪い去ってしまいたくなるような笑顔。
「半分こだよね、先にこっち食べちゃってもいいかな」こんなにも名前さんを幸せそうに出来るケーキにすら嫉妬してしまう。俺もケーキのフィルムを剥がして、彼女と揃ってフォークでケーキを切って食べる。スポンジは柔らかくて舌触りは柔らかくて甘くて、俺には少し可愛すぎるようなそんな味。


「んん!美味しい!これ美味しい!ひよのは、どう?」

「美味しいですよ」

「そう、良かった!今日は来たかいがあったね」


満足そうな表情、続けてフォークを動かして食べてる名前さん。


「…そういえば、どうして今日はまた、急に?」

「あ、うん、ごめんね、迷惑だった?」

「いえ、そんなことは全く全然ないんですが」

「うん、なんかね、ひよと仲直りしてからさ、」
「はい」

「ちゃんとゆっくり出来てなかったなぁって。いつも限られた時間、休み時間とか、帰りとかしか、いられなかったじゃない」

「そうですね」

「だから、こうしたかったの。仲直りの記念にね」


フォークが止まった。口の中は相変わらずふわりと甘いので、苦いコーヒーでごまかした。コーヒーはより苦く感じた。言葉が出なかったのは、本当に、名前さんと今こうしていられて良かったと思ったからだ、心底。良かった、こんなにも好きなのに、離れられるわけないんだ。勢い余って自分のケーキを半分以上食べてしまったと申し訳なさそうに眉をハの字に下げる、どうしようもない名前さんとこれからだってずっと一緒にいたい。

確かに、俺と名前さんを繋ぐものの変化を、桜が散りはじめたころに感じた。でも、それは嫌なものではなかった。ごくごく、当たり前で。そして大切なもので。


「名前さん、あの、」

「うん」

「本当に、すいませんでした。俺、アンタがその、…大事、すぎて、どうしたらいいか、分からなくなってた」

「…ふふ、もう、終わったことだよ、なしにしよう、そういうの」

「…はい」

「私は今もひよといれて、嬉しい。きっと、それだけで、十分だよ」

「そう、ですね」

「うん。そうだよ」


半分欠けたケーキを交換して、食べた。さっき俺が食べたやつよりも、もっと甘くて、でもそれはいやな甘さじゃない、むしろ。
むしろ、これまでとこれからの日々を重ねたみたいな優しい甘さだった。


「…美味しい」



ピースオブケイク

(仲直りは少し切ない甘さ)

20100628
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