「日吉、グラウンド20周だ、行ってこい」


放課後、コートに跡部部長の声が響いた。それほど大きな声を出さずとも、あの人の声は他の音、テニスボールの跳ねる音や掛け声などに掻き消されることなく空気を震わす、絶対的な響きを持っていた。コートにいたレギュラー、隣のコートの準レギュラーは俺を一斉に見遣った。視線が集まる。


「…はい、」


俺は何も言わずに従い、手にもっていたラケットをベンチに置いて、コートを抜けて、テニス部で一人、グラウンドに向かった。途中、向日先輩が何かいいたそうにこちらを見たが、気がつかなかった振りをした。サッカー部や野球部で溢れたグラウンドを、俺は走り始めた。


校内の練習試合で俺は負けた。一回だけならまだしも、俺は負けつづけていた。数日前、名前さんに昼休みに、部活を教室で待つのを止めて欲しいと言ったあの日から、ずっと。いや、それのもっと前、忍足さんに名前さんとのことを言われたあの日から、俺の調子が崩れていたのは火を見るよりも明らかだった。そのことを知らない他の部員たちは俺の様子に首を傾げるばかりだが。
敗者はいらない、うちのテニス部のその方針は健在だ。だが、それは校内の練習試合には適用されない。そうしてしまえば、レギュラーの人数なんか揃わなくなってしまうし、シングルス以外にもダブルスの相性などから選んだメンバーにおいて、練習試合での成績は考慮のうちでしかないからだ。だが、そうも言っていられないのが、現状だ。今日は向日先輩に負けた、それも実力の差ではない。自分に負けたと言ってもいいだろう。らしくないミスの連発をすれば、苛立って更にミスは増えた。
そうすると、いつもならどうってことのない球だって返せない、そんな俺を見て、優勢だった向日さんが辛そうな表情をしていることにだって、俺は気づいてもなんにも出来やしない。ボロボロの試合、終わってしまえば跡部さんからのグラウンド20周の命。当然の結果だ。最近の俺は酷すぎる、テニスじゃない、こんなのは。

まるであの時、中学2年の夏の終わり、跡部さんから部長の座を渡されたときを彷彿とさせるような、そんな状態が続いていた。分かっている、だからこそ、向日さんや鳳が、俺を心配しているのを。
中学のときと同じく、跡部さんの後部長を継ぐのは俺だと誰もが思っている。尚更そんな立場にある俺がこんなになってしまうことの責任の重さがある。それをみんな分かっている。レギュラー落ちどうのこうのじゃない。それよりも、もっと、重い。全国区のテニス部のレギュラー、部長、200名を超える部員の頂点。考えただけでも息が詰まりそうなプレッシャー、負けを許されない意味。周りの俺を憐れむような視線、どうして俺は昔、それに堪えていられた?ああ、愚問だ。考えるまでもない、隣に、笑ってくれる彼女がいたからだ。


地区予選前に跡部部長がとりつけた交流試合。再来週末に青学、その次の週末には立海と、互いに全国区レベルの相手に手の内を晒したくないという彼らと無理にでも試合を組んだのも、跡部部長の何かしらの意図があってのことだろうが、今はそれすら俺は出れるかも分からない。自分でだってそれは理解できる、だが、自分ではどうもできないことなんだ。崩れてしまえば、人はそれに乗るのはたやすい。



グラウンド20周なんて、昔は短期決戦型で体力に自信のなかったころにはきつかったかもしれないが、中学3年頃から更に身長が伸びて、身体付きから幼さが抜けてきた頃には体力が自ずとついてきたので、例え試合の後だろうとこれくらいの距離じゃ罰則には入らない。跡部さんにも百も承知だろう。これは跡部さんからの忠告と配慮だ。頭を冷やせという。そして、周りの部員からの視線から逃がしてくれた。
いつもなら、それくらいはどうってことはないのだが、今は堪え難かったんだ。あの人には未だに敵わない、それを思い知らされてまた自分のちっぽけさを呪う。

変わらずに、名前さんは俺の傍にいてくれている。だが、彼女の笑顔に偽りを感じてしまう。彼女は心から笑っていない、そうさせているのは、俺だ。名前さんが笑えば、周囲の空気にも花が綻ぶみたいにふわりと温かくなるのに、それがない。無理をさせてるのは明らかだ。その原因が俺にあることだって、知ってる。
どうしてだ、名前さんが好きだ、それは変わらない、むしろ、日々それは大きくなるのに。気持ちが大きくなるほど、彼女にどう接していいのか分からなくなる。忍足さんの言う通りだと思っても、それしか方法がない。彼女を、名前さんを他の奴らの前に晒したくない。学校にだって、きてほしくない。俺の腕の中だけで笑っていて欲しい、…俺以外に、笑わないで。

かと言って、閉じ込めれば閉じ込めるほど、彼女の笑顔は失われていくだろう。自由に風にそよぐ花のような名前さんが好きだ。彼女を初めて見た時に、そう思った。それなのに、手折って室内の花瓶に入れてやることしか出来ない、分からない。大切にするって、どういうことなんだ。術がない、閉じ込める以外で、彼女を護る方法があるなら教えて欲しい。
忍足さんや、跡部さんなら知っているのだろうか。




まだ春だとはいえ、10周も走れば汗は出る。半分走り終えたところでジャージの上着を脱いだ。普段は近くに聞こえるテニスボールの音が、遠くにある。代わりに、野球部のバッドがボールを捉える鋭い音が耳を劈く。
いつもと変わらないふりをして彼女と一緒にいるべきではないのも分かっている。一緒にいても、俺は前のように彼女に接してやれなければ、名前さんを悲しませるだけだって。でも、それすら出来ない。彼女が傍にいるだけで、俺は酷く安心出来たし。そして、俺が理由で彼女が悲しんでくれることに対して、優越感を抱いてしまっているなんて、なんて、くだらないことなんだ。普段朗らかに笑う彼女の表情を、曇らせることが出来ることに、安心して、どこか嬉しいと感じてしまうなんて、馬鹿げてる。



「ちったぁ頭は冷えたのかよ」



走り終えて、新館の入口にある水道でか頭から水を浴びてた。季節的にまだ寒かったけれど、火照った身体にはちょうどいい。纏わり付いていた汗が流れるとさっぱりとした、けれど胸の中にある気持ちは流れてはいかない。顔を上げて前髪から垂れる雫の動きを視線で追っていると、いつの間にいたのか、跡部さんが水道に寄り掛かるようにして立っていた。

「今冷やしてたとこです」

「外じゃなくて中味だろ、問題は」


ほらよ、真っ白なタオルが投げて寄越されたので、それを受け取る。跡部さんがひとりでここまでくるなんて珍しい。樺地も連れてこないで。それだけで、何か有るんだろうと容易に察することが出来る。日が次第に傾いて、影は色を増した。


「…日吉、テメェはなにを恐れてる」


跡部さんの鋭い眼光が突き刺さる。それは何者にも有無を言わせぬ強さを持っている。中学のときから変わらない、強者の目だ。


「恐、れる?」

「人は人に勝手に期待する。おまけに在りもしない評価や噂で過剰な思いまで抱く」

「…」

「そのくせ、それに添えなければ勝手に失望しやがる。それはお前も知ってるだろ」

「…、はい」

「プレッシャーに潰れるのも、他人に殺されんのも、それともそうならないのかも、自分次第だ」

「でも、」

「お前はそれに堪えてきただろう。だから俺は、お前を選んだんだ」


言葉に詰まる。あと時と一緒だ。跡部さんに、一番倒したかった相手に認められることはどれだけ嬉しいはずだろう。だが、その言葉だって、見合った自分がいなければ重圧となる。
でも、それに堪えてきたはずなんだ、でも、それは、隣に名前さんがいたからであって。今だって、名前さんは隣にいる、けれど、違う。あの時のように彼女は笑っていないんだ。分かっているんだ、本当は。彼女がいればそれだけで満足なんて脆弱な精神が生み出したはったりでしかなくて。感情が伴わない彼女といることは苦しいだけだ。分かっているのに、どうすることすらできない。昔は、こんなではなかったのに。


「だが、お前の周りにいるやつは、違うだろ」

「…」

「お前の本質を知っている、自分の感情のままに日吉、お前を動かそうとはしたりしない」

「…、」

「お前が今、この状態に何か感じるのなら、それはお前自身の変化だ」



白いタオルを見つめたまま、顔を上げることが出来なかった。跡部さんは今、俺をどうして見ているのだろうか。ただの弱い男にしかすぎない俺を。こんな些細なことで揺らいでしまうなんてどうしようもなさすぎる。跡部さんの言うことは、理解できた。でも、それを上手く飲み込むことができない。「日吉」跡部さんが俺を呼んだ。


「きちんと考えるんだな。そんな難しいことじゃないはずだぜ」


口許が吊り上がり、跡部さんは不敵に笑う。その笑みが、いつか見た、彼が氷帝にやってきたときの表情と重なった(あの時は、忍足さんや、向日さんたちに、全国制覇すると言った、あの)。胸の辺りには、形容しがたい色んな感情が混在している。難しいことじゃない、でも、俺には、名前さんが、分からない。


「そういえば、日吉」

「…なんです」

「忍足のヤローが大学部のことで用があるとか言ったっきり来やしねぇ。今から呼んでこい」

「……なんで俺が」

「部長命令だ。したらふたりで部活に戻れ、いいな?」

「…はい」


跡部さんもよくわからない。なぜ俺がそもそもの原因のひとつである忍足さんを呼びに行かなくてはいけないんだ。名前さんと気まずくなってからは、忍足さんとも気まずくてあまり話してはいなかった。もし、呼びに行ってなにか腹の立つことを言われたらどうするか。古武術でのすか、そうしよう。
忍足さんがいなければ、名前さんの寂しそうな表情に気づくことはなかったのに。…いや、気づいていたのに、知らなかったふりをしていた。それを出来なくされた。きっと、忍足さんがなにかしなくても、俺達の関係はどこか不自然で、いつか綻びが広がっていただろう。忍足さんを責めるのは、筋違いだろう、…多分。


* * *


教室棟は外よりもひんやりとした空気をしていて、汗のひいた身体には少し肌寒かった。きっと教室にいる、という跡部さんの読みを信じてまっすぐ忍足さんのクラス、3年D組を目指した。忍足さんのクラスは、名前さんのクラスだから、行きなれてる。広くて、他学年の教室など把握できない氷帝でも、そこは迷わずに行ける。…今日、名前さんに、謝ろう。まだ何か分かったわけではないが、こんな状態は堪えられない。やはり彼女には、笑っていてもらいたい。例え恋人という立場の俺でも、彼女の笑顔を奪うことは許されないんだ。


教室に近づいて、話し声に気がついた。夕日が差し込む教室に浮かぶふたつのシルエット。
嫌な予感が浮かんで、そして、それがすぐに当たっていたことを知った。教室にいた人物は、俺がよく知っていたひとたち。聞き違えるはずが、見間違えるはずがないんだ、名前さんがそこには、いた。探していた人物、忍足さんと共に、ふたりきりで。一気に、喉の水分がなくなって、身体が冷たくなった。なのに、手の平には汗が滲む。
ふたりして、教室の後ろの席に並んで座って、話していて、こちらには気がついていない。なにより、名前さんは、泣いていた。俺の前では、泣かないくせに。俺以外の男の前で。
再び、図書室で待っていてと告げたときだって、名前さんな悲しそうな顔をして、服の裾をぎゅっと掴んで俯く、泣くのを堪えるいつもの仕種をしていたのに、泣かなかった。どうせなら、いっそ、泣いてくれればいいと思ったほど。俺の前じゃ、いつも我慢するのに、忍足さんの前では、泣くのか?もしかしたら、俺の知らない間も、ずっと?そう考えたら、今まで溜め込んでいた、思いが、込み上げた。まるで自分じゃないみたいだ。冷静沈着、そうえば誰かにそう評されたこともあった。そんなことは、一切ない、名前さんが、絡むと。





「…っ、ひよ!?」


名前さんに近づいて、彼女の腕を引っ張って、無理に立たせた。俺に気づいたのと、急にそんなこてをされて驚いた彼女は声を上げた。
近くでみた名前さんの目は真っ赤で、アンタ、どれだけ泣いたんだよ。まだ濡れた目をして、そこに映る俺は一体どう見える。きっと、ぐちゃぐちゃだ。こんなときに不謹慎だけれども、泣いた名前さんはとても弱々しくて可愛くて、この顔を忍足さんに見せていたと思うと、余計に腹立たしい。俺はいつも、名前さんを心配している。彼女はいつも、あまりにも無防備で、こうして俺がちょっとの力をくわえるだけで簡単に引っ張られてしまうほど弱いのに、なんでそれに気がつかないんだ!俺ばかりが、いつも名前さんを思って、俺ばかりが、彼女のことを好きで。…いい加減、苦しい。


「ひ、ひよ、痛いよ」

「名前さん、アンタ、なんで、ここに、」


忍足さんと、ふたりきりで。忍足さんがいても構わずに、彼女しか見えない。俺の様子に怯えたような彼女の目が揺れる。


「教室に、いるなって、言っただろ」

「ご、…ご、ごめんね、ひよ」

「謝るなよ!」


いつも俺に優しく微笑む名前さんじゃない。彼女の細い手首を握る手に力が入る。手の平は熱い。俺の知ってる名前さんは、俺のことをこんなふうに恐れたような表情をしない。俺の知らない、名前さんがそこにいる。胸にあった感情を吐き出しているのに、気持ちはちっとも晴れない、むしろ余計に苛々している。…名前さんが、そんな顔するからだ。


「どうして、アンタはいつも、そうやって、」

「ひよ、」


教室の後ろのロッカーを背にして、彼女はどんどん泣きそうな顔になる、のに。ほら、どうしたって泣かないんだよな。握った手首が軋んでるのが分かる、潰してしまうかもしれない。でも、力の加減がきかない。


「…そこまでや、日吉」


掴んでいた手を制された。忍足さんが、俺から庇うように名前さんの前に立った。は立っていられなくなったのか、ずるずるとロッカーに寄りそってそのばにへたり込んだ。


「ちょお、いい加減にせえ日吉。頭冷やせ」

「冷えてます」

「自分のは、苗字に対する愛とちゃう」

「…何が言いたい」

「日吉、お前のはただ苗字を縛りつけて安心しとるだけの倒錯や」

「アンタには、忍足さんには関係ないだろ」


そうだ、なんで毎回、忍足さんはこうして口を出してくるんだ。俺と名前さんの問題なのに。彼女は、俺のものなのに、なんで。「関係、あるんやから口出してもええやろ」忍足さんは言った。関係?そんなもの、あるはずない。だって、忍足さんは、ただ名前さんとクラスメイトで、俺の部活の先輩で。いくらお世話になったからと言って、ふたりに口出しする権利なんか、あるわけなかった。

「あるんよ、それが」

「なにがです、」

「…ホンマは、言いとうなかったし、苗字がええんならそれでええと思っとったけど、今の状態が続くんなら、お前に苗字は任せられん」

「だから、何が言いたいんですか」

「俺は、苗字が好きや」


それなら、関係なくないやろ?
忍足さんの台詞に、後ろの名前さんも大きく目を開いた。俺だって、言葉を失った。前に何度か、忍足さんは名前さんを好きなんではないかと疑ったことはあったが、俺と名前さんを取り持ってくれたのは忍足さんだったし、そのことはずっと否定してきた。なのに、まさか、それが当たっていたなんて。


「自分ばっかりが苗字のこと見とったと思うんやないよ。俺の方が、ずっと近くで、見とった」

「…っ!」

「名前が泣くんのも、悲しんどるのも、見とった。全部、お前のせいで」


俺の知らない間に、ふたりの間にあった時間があったことを思い知らされた。俺のことで泣いてたことよりも、そっちのほうが、よっぽど。
名前さんは、俺の恋人で、誰にも渡さない。それは、変わらない。忍足さんが、名前さんを好きだって、俺のほうが好きだって自信もある。だけれども、名前さんは?彼女は、俺といて、幸せか?忍足さんの後ろで、俺を見上げた名前さんは、何か言いたそうにしていたが、何も言わない。ただ俺を責めるような視線だけが突き刺さる。泣かれるよりも、辛い。いつも何も言わない、名前さんは。きっと何が辛くても悲しくても、彼女はなにも言わないんだ、俺には。


「…っ、じゃあ、アンタらが付き合えばいいだろ!」


本当は、そんなこと思ってない。そんなこと、言いたくなかったのに。気が付いたら、口から出てた。今から口を抑えても、意味がない。


「…ひよ」


そんな目でみないで。真っすぐな彼女の視線に堪えられなくなって、俺は、ふたりの顔を見ずに、そのまま教室から走り去った。
どこに行くあてもなく、走る。もう、まともに何かを考えることもできない、ぐちゃぐちゃだ、本当。俺は逃げた、名前さんから。そうすることしか、できなかった。手の中にあった、彼女の手は震えていた。俺がそう、させたんだ。


「…っ、名前さん」


目をつむったら、名前さんの笑顔が浮かんだ。名前さん、名前さん。好きだ、本当に。どうして、好きなのに、好きなだけじゃだめなんだ。




解けないロジック

20100522
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