日吉くんと付き合うことになってから10ヶ月と少し。私たちの関係は、友人たちから言わせると、遅れてるらしい。
それはというと、私たちはまだ深い関係になったことがない。それはおろか、キスも、したことがないのだ。今日日、高校生といったら付き合ったら3週間でキスしたりセックスしたりするというのに、私たちは手を繋いで一緒に帰ったりするだけの清く正しい関係。それを友人にいうと、みんな目を真ん丸くして、信じられない!と叫ぶ。信じられなくても、それは真実だった。


少し昔に振り返ろう。日吉くんは、私のいっこ下の氷帝学園高等部の2年生で、あのテニス部のレギュラーだった。テニス部といえば全国大会に毎年出場する強豪であり、更にはレギュラーメンバーみんな顔が飛び抜けていいというので、我が校のアイドル的存在だ。そんなテニス部の日吉くんだって勿論、ファンの子がいるくらいの人気者。1年生から、もっといえば中学2年生からレギュラーで、しかも中学の時にはあの跡部くんの後を継いで部長になったくらいの実力の持ち主であるのだから、女の子たちが放っておくわけがないのだ。
かくいう私も、日吉くんのことが好きだったりした。この場合の好きは、アイドルに憧れての好きと同義であり、決して好いた腫れたの好きではなかった。女の子たちの会話でよくある、テニス部の中で誰が好きかとい話題で、私は日吉くんの名前をいつも挙げていた。中等部で日吉くんがレギュラーに昇格してから(ちなみにその前は跡部くん派だった)。日吉くんは背筋のピンと伸びた綺麗な男の子だったし、跡部くんや忍足くんみたく浮いた噂のないストイックな印象だったので、一番素敵だと思った。ずっとそんな程度の思いでいた。みんなも、宍戸くんが好きとか向日くんが好きとか口々に言うけど、盛り上がる話題というのと、あとは目の保養とか、そんな感じだったと思う。マンモス校の氷帝学園では、同じ学校に通う男の子だってアイドル並に遠くになってしまうのだ。


だが、いつだっただろうか。私が高校2年、日吉くんが1年の春がすぎた頃であろうか。私は新しいクラスでの委員会決めで、一番不人気だった図書委員になった。みんなやりたがらないの理由は放課後の当番。遊び盛りの高校2年生には放課後に図書室に拘束されるのは堪えかねないらしい。私は、本を読むのは好きだし彼氏もいないし、放課後の時間は余っているくらいだったし、何より決まらない委員会のせいでぐだぐだしたクラス会議が長引くのが堪えられなかったので、立候補した。クラスからは英雄扱いされた。


毎週水曜日、放課後の図書室のカウンターでぼんやりと本を読んで時間を潰す。私と同じ日に当番だった子はサボり癖がある子で、私も司書の先生にその事を特に言うわけではなかったから、その子はほぼ仕事に来たことがないので、ひとりきりだ。水曜日はテニス部の練習が休みの日なので毎日いるギャラリーだっていなくて、学校はずいぶんと静かだった。放課後の図書室利用者は極端に少なくて、本が好きでよく利用する人の顔だって大体覚えられるくらいのんびりとした時間だった。どうしてこんないい委員会が嫌厭されるか私にはよく分からない。カウンターの中で今お気に入りの作家の本を読んでいた。今日は特別図書室にいる人は少ないし、大抵の人が閉館時間までここで読んでいくので随分と熱中して読める。物語の中に入り込んでいた私の目の前で、ドサッと物が置かれた音がした。驚いて顔を挙げたら、貸出希望の生徒がひとり。しかも、あの、日吉若くんだった。


「あ、え?」

「借りたいんですけど」

「はい、すいません」


ぶっきらぼうに無表情(いや、私がボーッと職務放棄していたので若干不機嫌)、間近で始めて日吉若くんを見た。テニス部はどうしたんだろう?ああ、今日は休みの日だっけ?貸出手続きをしながら日吉くんを見た。綺麗な男の子だ、遠くでみた印象よりも、ずっと。意志の強そうな目に真っ直ぐ通った鼻筋、結ばれた薄い唇。こんな綺麗な男の子、そうそういないだろう。
私の視線に気がついた日吉くんが、訝しげな目で私を見たので、慌てて逸らした。ちゃんと仕事をしようと、日吉くんの持ってきた本に目を向けて、唖然。持ってきた3冊の本の全部が、怪奇、七不思議物。え、嘘でしょ、まさかあの日吉くんですよ?疑うように日吉くんを見たら、日吉くんが私の言いたいことを察したかのように耳がカッと赤くなった。


「べ、別になに読んだっていいだろ!」


そして手続きの終えた本を抱えて足速に図書室を去っていった。…今、日吉くん、照れてた?なに、あの可愛い男の子!私が今まで、ただの憧れとして抱いていた日吉くんを遥かに超えて素敵な可愛い男の子。日吉若くんを、ただのテニス部の中で一番いい、から、気になる男の子になった瞬間だった。私は、凄いときめいている。



日吉くんは、部活が休みの水曜日にたまに図書室へきた。私の顔を見て恥ずかしそうにいつも同じ系統の本を借りていく。日吉くんがこういう本を読むことを知っている人はあまりいなくて、ふたりの内緒話みたいでなんとなく私はうれしかった。日吉くんも私を覚えてくれて、時々ポツリポツリと話すようになった。そして、気がついたら日吉くんは毎週水曜日くるようになっていて、それも、開館時間から閉館時間までずっと図書室で過ごすようになった。私が本を読んでいて、気がつくように視線を上げると、日吉くんと目があって、そして彼が慌てて視線を外す。そんな時は必ず、サラサラの髪の毛から覗く耳が赤く色づいていた。私が自意識過剰でなければ、日吉くんは私のことを好きなんだと思う。そういうことを、感じる空気ってあるでしょう、それを日吉くんから感じるのだ。甘いような恥ずかしいような雰囲気。私もテニス部としてではなくて、図書室に来てくれる日吉くんて男の子に恋していたので、素直にうれしかった。
ある時、水曜日でも図書室でもない昼休みの中庭で、日吉くんに告白された。いつもテニスコートで見る自信に溢れた日吉くんじゃなくて、ただの男の子な日吉くんが可愛くて仕方なくて、私からも告白をして、私たちは付き合うことになった。それが、10ヶ月ほど前のことだ。

付き合ってからの時間がすぎるのは早くて、年を跨ぎ私達は進級した。学年が変わったのに、私たちの関係は進まないままだ。日吉くんと付き合ってから、分かったことが沢山ある。優しくて真面目で、何事にも一生懸命だし、礼儀正しい。シャイで照れるとまず耳が赤くなる。笑うと周りの空気がふにゃりと柔らかく溶けてしまうほどに甘くて可愛い。付き合ってから、私は日吉くんに夢中になってしまって、日吉くんと一緒にいたくてたまらない。私のほうが確実に、好きの気持ちは重いと思う。

今の関係でも幸せだし、満足だ。でも、足りないんだ、日吉くんが。日吉くんとキスしたい、ギュッて抱きしめたい、触って欲しい、触りたい。ずっと胸のあたりをこんなもやもやとした気持ちが渦巻いていた。日吉くんは淡泊だ、だって、私に触りたいと思わないのかな。普通、好きなら触りたいって思うんじゃないだろうか。むしろ、年頃の男の子ってこういうことに興味津々とかじゃないのか。

日吉くんと付き合う前に、ひとりだけ彼氏がいた。むこうから告白されて、なんとなく付き合っただけと言ったら可哀相だけど、本当に軽い気持ちで。あの時は人を好きになるって分からなかったし。
その人は、すぐに私と手を繋いで、そしてキスしたかった。キスはしたけど、なんでこんなことをするんだろうって疑問に思ってしまうほど、なんの感慨もなかった。ベロちゅうもしたけど、気持ち悪かった。それでなんとなく、私は彼を好きではないんだと認識した。彼も彼で、私の気持ちはお構いなしに、今度はセックスしたいと言い出した。どうしても、彼には譲れないと思って断ったら、あっさりと別れてしまった。今思えば、彼も私のことを好きではなかったんだと思う。やはり、年頃の男の子の、興味と欲求。

日吉くんはそんなこと、一切ない。手を繋いだのだって、付き合って何ヶ月もたってから、人目を忍んでこっそりと指を絡めたくらいだ。日吉くんは、私に女の子としての興味を抱いていないんじゃないかって、不安が凄くある。私は日吉くんに触りたいのに、近づきたいのに。女の子がこんな感情を抱くのははしたないとか厭らしいとか言われるかも知れないが、だってしょうがないじゃないか。日吉くんが好きなんだから。女の子にだって、そういう思いもあるんだ。


日吉くんの気持ちに不安を感じて、友人に相談したら、驚かれた。キスをしてないのは遅すぎるらしい。


「まあ、でも、日吉くんって奥手そうだよね」

「そうかなぁ…」

「そうよ、きっと、テニスと古武術一筋だったから、どうしていいか分からないだけ!」

「そう?」

「うん、だから、名前がリードしなさい!」


友人のアドバイスを受けて、私が日吉くんをリードしよう作戦は実行された。といっても、話は簡単で、日吉くんとふたりきりのときにくっついてみたりすればいいだけだ。
テニス部の練習のない水曜日の放課後。もう今年は私は図書委員じゃなくなったので、なんの憚りもなく一緒にいられる。人気のない日吉くんのクラスで、ふたりで並んで座ってる。定期テストが近いということもあって、私が日吉くんの勉強をみてあげていた。日吉くんはそんなことをしなくてま十分に頭はいいのだけれど。一応私のほうが一年先に生まれていたし、英語や国語の文系、特に語学は得意だったから、少しだけ日吉くんに教えてあげている。夕日が差し込む教室でふたりきり。シチュエーションはなかなかだと思う。
隣に座る日吉くんを覗く。首のラインがとても綺麗。私にはない、喉仏の出っ張りとか。ペンを握る手の骨張った感じとか。広い背中とか。男の人を感じて、私は急にドキドキして、やっぱり日吉くんに触りたくなる。触っても、いいよね。だって、私は日吉くんの彼女だもん。日吉くんが私をちゃんと好きか不安だし、私のほうがもっと日吉くんを好きだけど。雰囲気に流されただけでもいいから、日吉くんとキスしたい。


戸惑いも緊張も、衝動と感情で全部吹き飛んだ。隣の日吉くんの右腕に、そっと腕を絡めて、ぴったりとくっつく。友達のアドバイス通りに、さりげなく胸を当ててみた。温かくてしっかりとした腕だ。日吉くんとの距離が今までで一番近づいたからか、いつもよりも日吉くんの匂いが近くなって、心臓がぎゅうと縮んだみたいに苦しい。私はやっぱり日吉くんが好きだ。自然と腕を絡める力が強くなる。日吉くんはどんな顔をしてるのかな、伺い見たら、日吉くんも私を見ていた。驚いたように目を開いていて、耳だけじゃなくて頬も真っ赤に染まっていた。呆然と固まっていた日吉くんと、私の視線がかちりとぶつかりあったらはっとした彼は、慌て腕を振りほどいた。わ、日吉くん、真っ赤だ…!!


「ア、アンタ、なにしてるんだ!」


明らかに挙動不審で普段はあまり聞かない大きな声を出す日吉くん。これは、キスとか以前に日吉くんが可愛いすぎて困る。


「真っ赤、可愛い」

「ばっ!何言って、」


咄嗟に手で顔を隠して、そっぽを向いてしまった日吉くん。やっぱり耳は赤いのは隠せてないけど。なんだか、もやもやが少し晴れた気がした。日吉くんはシャイなだけなんだ、きっと。だって、こんなことで真っ赤になってくれるんだもん。これは、私のことを意識してるからって考えて、いいよね。夕日よりも赤く染まった日吉くんの背中。でも、背中も好きだけど、顔も見せて欲しいな。


「ごめんね、日吉くん」

「…なんで、あんな急に」

「日吉くんに、近づきたくて」


やっと振り向いた表情は、ムッとして不機嫌そうだった。


「なんの影響ですか」

「なんの影響でもないよ、日吉くんに触りたかったの」

「…!」

「日吉くんは、私に触りたくない?」


じっと、日吉くんの目を見た。日吉くんのいつもはまっすぐな黒目がゆらゆら揺れてた。迷ってる、なんで。日吉くんは、私に触りたくないの。私は日吉くんの恋人だし、日吉くんが触りたいのなら、触ってもいい。むしろ、触ってもらいたい。日吉くんの大きな手で触れられたら、それは幸せだ。


「ねえ、キス、して」


この台詞は緊張で喉からなかなか出てこなかった。すこしかすれてたかもしれない。日吉くんが嫌なら、素直に諦める。私が前の彼氏とのキスが好きじゃなかったみたいに、日吉くんもそう感じるかめしれないから。そうしたら、日吉くんは私のことをあんまり好きじゃないってことになるけど。それでも、日吉くんと触れ合いたいのだ。だって、好きだから。


「…目、つむって下さい」


しばらく考えたようなそぶりを見せて、日吉くんは言った。ゆっくりと、日吉くんが近づいてきて、え、これは、キス、してくれるんだよね。急にドキドキしてきた。ゆっくりと近づく日吉くん、スローモーションみたいで時間が長い。日吉くんの目が伏せられるのを見て、私も慌てて目をぎゅっとつむった。真っ暗になった視界、口許に微かに日吉くんの吐息がかかって、そして、ちゅっという音と共に、柔らかい感触が唇に触れた。
ほんの一瞬だけ、だけど。日吉くんと、キスした。目をゆっくりあけたら、そこには当たり前だが、日吉くんがいて。ああ、私は今この人とキスをしたんだ、と実感した。どうしよう、すごく、幸せかもしれない。私がお願いしてだけれども、日吉くんがキスをしてくれた。ということは、日吉くんも、私のことをちゃんと好きだって、思ってもいいんだよね。

「ひよしくん、」

「なんです」

「すき、すき、ほんとう」

胸から、ずっと溢れでて止まらない。どうかしてるのかもしれない、日吉くんがすきでたまらない。


「全く、アンタって人は、」


人の気も知らないで。
日吉くんは言ったかと思うと、私がえ、と思う間もなく、今度は一気に近づいてきて、私の唇に触れる。ぱくって、噛み付くようなキス。驚いて思わず日吉くんを押し返そうとした私の両腕を、素早く日吉くんの両腕が捕まえる。


「名前さん」


名前を呼ばれて、薄く開いた私の唇の間を、日吉くんの熱い舌が滑り込んだ。え、いきなりベロちゅうですか!
入り込んだ舌は、するりと私の上あごを撫でる。それだけで、私の背中がぞわぞわっと、何かが走る感覚。不思議な感覚、下から込み上げるような、そんな感じ。日吉くんの舌は、そのまま私の口の中を探るように動いて、私が一番ぞくぞくした上あごを再び擦ってきた。うわ、なんだ。
角度を変えて、なんどもなんども。貪るようにってこういうときに使う表現なんだと思う。咄嗟に奥のほうで縮んでしまっていた私の舌を優しく絡める。先っぽから絡めて、引き出された。私の息はだんだん上がって、苦しくなって唇が離れる一瞬一瞬に息を吸おうとしたら、変な声が漏れる。恥ずかしい。ちゅっと、舌を吸われて、身体の奥がぞくぞくする。なんだ、これ、気持ちいい。今までで感じたことがない。…日吉くん、キス、上手じゃないか…!誰だ奥手とかシャイとか言ったの!

散々ねぶられて、唇から零れた唾液を舐めとって、日吉くんが離れた。はあはあ、私は肩で息をしている。ダメだ、頭がボーっとして、なにも考えられない。顔が、身体が熱い。目の前の日吉くんは、艶かしく唇をペロリと舐めて、にやりと意地悪に笑った。


「顔、真っ赤ですよ、可愛い」


さっきの仕返しだ!
気がついても上がった熱はなかなか冷めず頬のほてりだって治らない。なんなんだ、今の、日吉くんは。むしろ、今までの日吉くんは、何処へ言った。


「アンタがいけないんですよ」

ぎゅっと、きつく抱きしめられる。大きな日吉くんの身体に包まれた。心臓が早鐘を打って、それでも私も日吉くんの背中に手を回して日吉くんにもっと近づいた。


「俺は、名前さんに触ったら、抑えられないから、ずっと、」


我慢してた。耳元で聞こえた日吉くんの熱っぽい声。我慢してたってことは、日吉くんも、私に触りたかったってこと?私だけじゃ、なくて。


「名前さんを、怖がらせるから、きっと」

「日吉くん、」


「言っておくけど、俺のほうが、アンタを好きだ」


身体全部で日吉くんに触れて、日吉くんを感じてる。感触も体温も匂いも。込み上げてくるのは、苦しいくらいの感情、日吉くん好き、私も。言葉になんて表せないくらい。触るほど溢れる、好き。


「周りがどうだって、俺たちは俺たちのペースでいけばいいんですよ」


日吉くんにはすべてお見通しみたいだ。すこし離れて、見つめ合って笑った。



「ところで、日吉くん」

「なんです」

「キス、…なんであんなに上手いの」

「さあ?」

「…嫉妬しちゃうよ」

「うれしい限りですよ」



スローな僕ら



20100417
1000ヒット記念。
皆様ありがとうございます。
象さんのスキャンティを聞いて思いついたネタ。日吉くんがキス上手いとたぎる。
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テーマ「人外ファンタジー」
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