記憶の欠片

無機質な建物に入った先の室内には、用途のわからない装置や、見たこともない文字で書かれた書物が山のように積まれていた。やはりこの村の雰囲気には似つかわしくない、機械的で文明的な部屋だった。

ぷかぷかと浮遊しながら一歩前を進む彼は、更に奥の扉を開いて二人を招き入れる。

そこは、天井が半球状になった小さな部屋で、中は薄暗く、前の部屋よりも更に物で溢れ返っていた。二人が部屋に入ることを確認すると、ブーゲンハーゲンは壁に取り付けられてあるスイッチを押し、部屋を暗転させた。

「わあ……!」

「これは……」

突如視界が真っ暗になったかと思えば、そこには宇宙のような光景が広がっていた。目の前には大きな星が浮かび上がり、上を見上げれば星が流れ、足元には無限の黒が広がっている。

「ここは儂の自慢の部屋じゃ。星に囲まれながらする会話は、普段よりも人の心を素直にさせる」

予想通りの反応が見られて満足したのか、彼は豊かな髭を撫でながらまたホーホーと笑った。確かに、これほどまでに不思議で幻想的な空間に身を置くと、躊躇や遠慮がとても小さなものに思えてくる。

「イリスのことについて聞きたい」

「イリスというのはお前さんじゃね? 確かに、どこか不思議な力を感じておったよ」

そう言いつつも、彼は特に珍しがるでもなく、好奇の視線を投げ掛けるでもなく、何でもないというような口調で答えた。そのことがかえって二人に話しやすさを与えていたのかもしれない。

「彼女は神羅に……宝条に実験を施された。その結果、体内には魔晄が流れ、生命エネルギーを魔力に変換して詠唱することができるようになった」

「ホーホー」

彼は相槌を打ちながらも、静かにヴィンセントの話を聞いていた。その隣に立つイリスも、説明を彼に任せてじっと話に耳を傾けている。

「その影響か、時折身体に異変が起こる。呼吸困難になり、身体中が痛み、眠ったように意識を失う」

「それは困ったことじゃの……」

それまでずっと一定の距離を保って浮いていた彼は、ここへきてイリスにすっと近付いた。異常がないかを確かめるように彼女の手を取り、脈を測ったり額に手を当てたりして、身体の様子を調べているようだった。

その間にも、彼女はされるがままにあちこちを動かされ、一方で悪いことを診断されるのではないかという不安にも駆られていた。

「その原因を知って改善したい、ということじゃな」

「ああ……しかし、今回は少し違った」

ヴィンセントの瞳は、暗い部屋の中で鋭く光っているように見えた。その眼差しを受けて、彼はふむ、と顎に手を当てながらまた静かに浮遊している。

「呼吸が乱れ、意識を失うことには変わりなかったが……その後暫くの間、意識を回復させながらも何の反応も示さなかった。まるで五感が全て失われてしまったかのように」

そう口にする彼は、昨日のロケット内での様子を思い返して眉を寄せていた。

うつろな目で遠くを見つめ、呼び掛けにも応えず、ただじっと座ってるだけの彼女の姿は、見ていてあまりに胸が痛かった。このまま永遠に、彼女は彼女でなくなってしまうのではないかと、良からぬ不安に駆られていた気持ちが蘇る。

「ふむ、そうか……」

彼もまた頭を捻り、考え込むようにして小さな部屋を漂っていた。彼の思考を邪魔するまいと、二人は小さな宇宙の中で、寄り添うようにして静かに佇んでいた。



「二人の望むような答えを、儂は持ち合わせていないようじゃ……」

静かに部屋に響いた声は、ひどく掠れて落胆しているようだった。同時に、わざわざ話をさせたにもかかわらず、適切な返答ができないことに申し訳なさを感じているようでもあった。

「いいんです、だいじょうぶです」

自分達以上に落胆しているかのような彼に、思わず言葉を投げ掛けた。もとより具体的な回答を期待していた訳ではないのだ。ただ、何か少しでも手掛かりになることがあれば良いと、僅かな望みを抱いていたにすぎない。

「わからなくて当然だ。突然こんな話をしてすまなかった」

「謝らんでくれ。……儂も何かわかればすぐに二人に伝えよう」

「ああ、感謝する」

悔しげに頭を振る彼に、むしろ申し訳なさを感じた。複雑な経緯と原因不明の異常についてなど、初対面の相手にするべき話ではなかったのだ。それでも好奇の色ひとつ見せずに、真摯に話を聞いてくれたことに感謝しているほどだというのに。

「お話を聞いてくださっただけでも、ありがたいです」

「時間を取らせてしまったな。……皆も待たせている、忘らるる都へ──」

「ただひとつ言うとすれば、」

彼をこれ以上困惑させないようにと、出発を促し部屋を出ようとしたとき、ブーゲンハーゲンは珍しく言葉を遮るようにして口を開いた。神妙な表情でじっと二人を見つめている。

「先も言ったことじゃがの……手掛かりは必ずあるはずじゃ、お主らの記憶の中に。忘れてなどいないのじゃ、今思い出せないだけで」

先程よりも更に熱を込めて、彼はそう繰り返した。恐らく気休めで言っているのではない。彼は本心からそう思い、そして二人がその"手掛かり"を見付けられると信じているようだった。

「……貴重な助言を感謝する」

ヴィンセントもまた珍しく、イリス以外の人間にやわらかな表情を見せてそう言った。手掛かりはきっとある。これまで見聞きし、経験してきた事柄の中にきっと、彼女の体調を治す手掛かりが残されている。それに気付くことが出来ていないだけで、見落としてしまっているだけなのだと、彼もそう思い至ったようだった。

具体的な内容に言及した訳ではなかったが、小宇宙の中で交わされた三人の会話は、彼女にとっても貴重なものだった。新たに手掛かりを探すことだけがその手段ではないのだと気付かされる。

「……さて、名残惜しいが宇宙はこれくらいにして、都へ向かうとするかの」

意図が伝わったことで一応の区切りがついたと、彼はまた一人先に部屋を出て行ってしまった。ゆらゆらと星の煌めく部屋に二人きりで取り残される。

「ヴィンセントさん……?」

なかなか動こうとしない彼の手を握り、覗き込むようにしながら声を掛けた。また何かを思案しているのか、じっと目の前に浮かぶ星々を見つめている。

「本物の宇宙を見た」

「ん?」

どういった脈絡なのかと首を傾げていると、彼は繋いだ手を少し引き、身体を屈めると、盗むようにして短く口付けた。暗がりの中、徐になされた行為に、嬉しさと恥ずかしさが込み上げてくる。

「二人で宇宙を見たことを、きっとイリスも思い出す」

彼はきっと、ロケットから見た壮大な景色のことを言っていた。機械好きの老人が作った小さな宇宙にすらこれほどの感動を抱いたのだから、実際の宇宙をこの目に映した自分は、きっと心を揺さぶられたに違いない。

「忘れてなんかいませんよ」

彼と見た宇宙の景色は思い出せない。それでも、先のブーゲンハーゲンの言葉を借りてそう言った。言葉にすればするほど、本当にそんな気がしてくる。彼と見た景色ならば、尚更忘れるはずもない。

「今は思い出せないだけ、か?」

彼もまた、先の言葉を繰り返し、微笑みながらそう答えた。どこか嬉しそうにも見えるその表情は、マントで隠されることも、片手で覆われることもなく、しっかりとこの目に焼き付けられた。

「私も忘れなどしない。きっと永遠に、私の中に在り続ける」

そんな台詞をさらりと言ってのけてしまうのだから、彼はどこまでもずるい。また恥ずかしさから頬を赤らめていることも、全てお見通しだと言わんばかりに、悪戯でやわらかな笑顔を向けられた。無いマントを翻すようにして、彼は手を引いて部屋を出た。


[ 147/340 ]

[prev] [next]
list bkm



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -