どれもきっと素敵
「ヴィンセントのスーツ姿、見てみたかったなぁ…」
「どうした、急に」
「んー、なんかね、男の人がみんなスーツ着て、会社に働きに行くっていう社会があるんだって。エアリスが言ってた」
見てみたいなぁ、と言いながらソファの上で足をパタパタさせるイリスに、また妙なことを吹き込まれたかと苦笑いを浮かべる。
「タークスだった頃のスーツなら、」
「あるの!?」
「…無いこともない」
絶対にここで、見てみたい!という反応が返ってくると踏んでいた彼の予想に反して、イリスは急におとなしくなり、パタパタと動かしていた足を行儀よく揃えた。
「そっか、」
それだけ言うと、イリスは両膝を抱えるようにしながら静かになった。スーツを見たいと言うが、タークスのスーツには興味を示さない彼女の真意が掴めず、彼は首を傾げてから同じように黙った。
その彼の行動が、やんわりと話の続きを催促していると分かり、イリスは再びゆっくりと口を開いた。
「なんかね、スーツは見たいけど、私の知らない頃のヴィンセントを見るのは、なんか嫌なの。モヤモヤして苦しい。わがままだね」
イリスは隣に座るヴィンセントを見ないように、真っ直ぐ前を向いたまま静かに話した。苦笑いを一つした後、徐々に眉間に皺が寄った。
「朝ごはんを一緒に食べて、ネクタイを締めてあげて、いってらっしゃいのキスするんだって。それから、帰って来たらお帰りのキスをして、また一緒に夕ごはんを食べて、一緒に眠って、今度はおはようのキスをするんだって」
「…現状が不満か?」
怒るでも呆れるでもなく、申し訳ないといった優しい顔で彼女に尋ねれば、首をブンブン横に振って見つめ返される。
「違うの!そんなんじゃないの!そうじゃなくて、……そんな生活も、きっと素敵なんだろうなって」
膝をぎゅっと抱え込む彼女は、楽しそうな、しかしどこか悲しそうな目をしながらぽつりぽつりと呟く。
「ヴィンセントと色んなところに行ってみたい」
「ああ」
「ヴィンセントと色んなものを見たい」
「ああ、」
「ヴィンセントとなら、きっと何でも楽しい」
「そうだな」
イリスは顔を足の間に埋めながら、目をヴィンセントへ向けた。たまにこうして、何とはなしに気持ちが落ち込むイリスに、そのことにすら愛しさを覚えてしまう。自嘲気味に笑ったヴィンセントはイリスの背後に回り、後ろからすっぽりと包み込むように抱き締めた。
「私は、こうできれば十分だ。少なくとも今は」
そう言って更に抱き締める力を強めたヴィンセントの手に自分の手を重ねて、彼女は嬉しそうに頷いた。
「色んなヴィンセントを見てみたいから、だから、」
ずっと一緒に居てね、イリスがそう言う前に、顔を回り込ませたヴィンセントの唇がイリスのそれに重なった。
神羅屋敷の一室で、二人はいつになく長い間、抱き締めあい、微睡みに身を置いていた。
わかってる、言わなくてもわかってる。あなたとなら、どれもきっと素敵だということを。
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