02:睨まれたって、だいじょうぶ、なんにも悲しくならないよ
(本当の表情なら。)
「・・・ここでなにしてるの」
険のある声で春は言った。春の人生で最も思い出したくない黒歴史のひとつを知っている男は、にこやかに笑っている。ある日突然現れて、突然消えた、はた迷惑なおせっかい焼きの幽霊――最上宗一がそこにいた。
『 俺はここにずっといるよ 』
にっこりと。最上宗一はふわりと浮かんだ中空から春を見降ろしている。
「・・・へぇ」
相変わらずの食えない笑みだ。ずっと最上宗一がいる場所とは、もしや天国か何かで(そもそも天国に行けるはずもないので地獄かもしれない)いつのまにか自分は死んでしまったのだろうか。
(・・・なら秀兄にあえるな)
『俺のホームみたいなもんだ』
「地獄が?」
『違うって。まだ死んでいないよ春は』
「・・・・米花町のマンションにいたのに。なにをどこまで知ってる?ソーイチがみえるのに、他は何も視えない。視ようって頑張っても頑張っても何も視えない。霧がかかったみたいに・・・こんなのはじめてだ・・・地獄の方がましなんじゃないかな」
『なるほど・・・やっぱりお前の能力とトリオン体とは相性がよくないんだろうな。てかお前なぁ』
呆れた顔を最上がしたのを無視する。
「それ、さっき別のひとも言ってたけど何? とりおん?」
『今回は飛び降りないのか?』
「・・・・・・ソーイチのそういうところ、ほんときらい」
『お前が「嫌い」なんて言うのは甘えてる相手にだけなのも知ってるよ』
「・・・・・・・・・・・勝手ばっかり言う。勝手に出てきて、勝手にいなくなったくせに」
机を探るときに手にしていた紙切れを握りしめた。真っ白な紙がしわくちゃになる。
「またどうせいなくなるんでしょ。」
『寂しかった?』
最上の質問には答えなかった。何を触っても、どれだけ目を凝らしても、何も視えないし感じないのに、最上宗一だけはやけにクリアだ。
握りしめていた書類のしわを伸ばして、何か情報がないかと目を通して、春の動きは止まった。
「・・・・・『八嶋、春』」
見覚えのない書類に、自分の名前が、自分の筆跡で署名されていた。
「・・・・・ここ、どこ?」
『みかどし』
最上の言葉が、部屋の中でやけに響いて聞こえていた。
『――界境防衛機関《ボーダー》だ』
すぐさま部屋を飛び出した。走って走って。ソーイチが付いてきているのかいないのかも、確認している余裕もない。右も左もわからない状態で、たどりついたのは建物の屋上だった。
四角い形をした建物なのがすぐにわかった。周りには自分が立っている場所以上に高い建物なんてひとつもない。
建物のはしによって、見渡す景色は山のようになっている記憶の倉庫の隅っこに、ほんの少しだけあった。それから、ブラウン管越しに少しだけ。
大変そうだな、と他人事のように思った。たくさんの人が亡くなって、たくさんの人がいなくなったらしいと、ニュースキャスターが喋っているのを何度も見た。降谷がまた新しい案件だとぼやいていたのも聞いていた。介入したいが、外部の人間がもぐりこむには組織として規模はまだ大きくなく、様子見をするほかないと言っていた。
『みかどはいいとこだぞ』と繰り返すように言っていた幽霊が、自分の横で酷く悲しげな顔をしていたのを、覚えていた。
『 』
画面越しに、誰かの名前を呼んでいた。名前は聞こえない。出会っていない、知らない名前は聞き取れない。それでも、口の動きはいつも同じ形をとっているのが分かった。
足ががくがく震えて立っていたら、真っ逆さまに落ちてしまいそうで。春はその場にしゃがみこんだ。
『――春、お前また飛ぶ気か?』
「・・・・・・・うるさい」
やかましい、だまれソーイチ。
そう、叫んだ。
この幽霊はいつもおしゃべりが過ぎるのだ。
『まぁ、もう俺はお役御免だな。ほら、来るぞ』
来る?だれか?
迎えに来てほしい人は、もういない。
「――春さんっ、」
知らない声が、春を呼んだ。
一瞬だけ、胸が震えたことに、春は気付けなった。『お迎えだ』とソーイチがふわりと宙にとけるように消えた。また勝手に消えていなくなるのか、と詰ってやりたい。自分の周りはこういう勝手な男ばかりなのだ。
ソーイチが消えた先に、誰かが立っていた。もう見つかったなんて。
警戒するように、相手を睨みつけた。赤井が殺された、では次は自分の番なのでは?ここは三門で、煩い幽霊は『大丈夫だ』なんて言っていたけれど。そのすべてが自分に都合のいい幻ではないと言い切れるか?目の前にいるのは、敵か、味方か。
茶色のふわふわと揺れる髪、青い目。青いジャージのような服を羽織っている。
ふと奇妙な既視感に気が付いた。この顔を知っている。今目の前にあるものよりも、もっとちいさいころの顔。
――ジュニア、だ。
名前がわからなかったから、勝手にそう呼んでいた。ソーイチの御自慢の弟子。最上宗一を通してみた過去の中で、くったくなく笑うこども。最上宗一を一心に見上げるその瞳の色を思い出すと、息がつまりそうだった。最上宗一は幽霊だ。死んだのだ。喉がひきつる。
つまるところ、やはりここは三門なのだ。自分の記憶とは少しも合致しない現実が、目の前に立つ青年によって刃のように突きつけられた気分だった。
かつて最上宗一のつけていたサングラスが、彼の額に陣取っている。したり顔を思いだして吐き気がした。大人は勝手だ。勝手に守って、勝手にいなくなって、おいていくのだ。
***
トリガーの不具合が起きるのは開発室では割と日常茶飯事で、その実験に巻き込まれないようにするのは、一人前のボーダー隊員としての一種のスキルである。というわけで、巻き込まれてしまったのはひとえに、春がまだボーダー隊員として半人前であることを証明したともいえるだろう。
とはいえ、さして問題はないと誰もが思っていた。八嶋春という人間は人畜無害で人当りもいい。何が起ころうと、どう変化があろうとも、その本質は変わるものではない。
そう、思っていた。
「――春さん、」
呼ぶと、はじかれたように春は振り向いた。その目が、最初迅ではないものを視ていて、それから迅を捕えた瞬間に鋭い眼光で警戒される。知らない顔、知らない表情だ。それがふいに緩んでいく。何か視たのだろうか。
屋上の隅ぎりぎりで、しゃがみこんでいる春がぽつりとつぶやいた。
「・・・とびおりたら、めがさめるんですかね」
「これは夢じゃないよ」
「夢の中の登場人物はみんなそう言いますよ」
「夢じゃない」と繰り返す。
「・・・・よくここがわかりましたね」
肩を両手を交差させて抱いている春が、怯えるようにいった。部屋から逃げ出したと言う報告が入ってまだ数分だ、こんなにも早く見つかるとは思っていなかったのだろう。『視えてたからね』とは言わなかった。言ったとしても『今』の春には意味は伝わらない。
「前も春さんとここで会った」
「・・・・しりません。人違いじゃないですか」
「春さんだよ。前も同じとこに居て、風でうっかり落っこちかけてた」
「・・・・・・・」
春が黙り込んだ。思い当る節があるらしい。
「また落ちかけても、おれが助けるから死なないけどね」
隣に座る迅の肩が、春の肩に触れると大げさに隣の春が震えた。確かに、前とは少し違う。
じっと、春の目が迅をまっすぐに見ている。
「・・・・・わたしは今目の前にいる貴方を知らないけど、よく似た子なら知ってます」
指先がそっと、迅の頭を陣取っているサングラスに触れた。
「・・・・・・ソーイチご自慢の、弟子」
触れた指先が髪をかすめて、すぐに離れていく。
「・・・・・・・・・・・」
「ん?」
どこか表情の幼い春は、今の春よりもずっと脆そうに見える。ほんの少し風が吹けば、簡単に落っこちてしまう危うさが、今よりももっとずっと濃厚に春の周りに漂っている。
「ひとつ聞いてもいいですか」
春の問いを聞いて、それでもこの人は八嶋春なのだと迅は緊張のあまり張り付けたままになっていた笑みをゆるめた。迅に過去は視えないので、高校生の春の中に自分の良く知る人を見つけた気がして、ほっと安堵した。
「あなたの、なまえは?」
聞かれた瞬間に、答えるよりも早く迅は春を抱きしめていた。耳元にそっと自分の名前をささやいた。睨まれて、少しも不安にならなかったかと言われればNOだ。それでも、何度でも。同じように春が名前を聞いてくれるなら、
「迅だよ。――迅、悠一」
「じん、ゆーいち」と、肩口に押し付けられたのに微かな抵抗をしつつ、おぼつかない口調で春が繰り返した。
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