そして、彼女に告げる言葉
東京へ帰ってきた。
その翌日、週刊誌の片隅にのっていた記事を見て、またちりりと胃がいたんだ。
その痛みを振り払うように、将棋盤に向かっても、何一つ改善されない。じくじくと、痛む。泥の中に、沈んでいくような。
『宗谷名人、お相手は年下の女子大生?』
週刊誌のゴシップ記事だ。彼女の頬をいとおしげにふれる手の親密そうな一枚写真が、こびりついて離れない。
一手、一手、ひとつも頭に入ってこない。
(ああ)
将棋盤を挟んだ向かいから、宗谷がこちらをじっと見ている気がした。
圧倒的な敗北。気づけなかった一手。美しかったのに、と惜しまれた景色。
(ムリだ……)
駒を握りこむ。
自分の中にある覚悟や自負は全部が全部、将棋によって立っている。そこにある、たくさんの人とのつながりがあるから、島田は立って、歩いて、どれほど激しい嵐の中へだって進んでいけた。
けれど。これはムリだ、と心が叫んでいた。
一人の男しての自分が、彼女にまっすぐな瞳を受け止め切れない。
何がいいのか分からない。わからないから、どうしようもなく怖くて、そして。
なんて、情けない大人なんだと自嘲する。
その日、島田は考えることを放棄した。将棋のために。そう、それが全てにおいて最善だと、そう思ったのだ。
***
「島田さん!」
「結、ちゃん……」
かみしめるように、彼女の名前を呼んだ。
いつからだろう、こんな風に親しく名前を呼ぶようになったのは。そんなとりとめもないことをぼんやりと考えていた。
彼女は一生懸命に話している。今、話すことをやめてしまったら、この世の終わりがやってくるとでも思っているかのように、彼女は必死だった。必死で、どこかつらそうで。島田に口を開かせまいとしている彼女が、
「……ごめん結ちゃん」
もう一度名前を呼ぶ。
はじかれたように顔をあげる彼女は、もう泣き出さんばかりの表情だ。
「君の、気持ちは受け取れない」
結ちゃんが、呼吸をとめるのがわかった。
ああ、胃が痛む。島田は胃をなだめるように手を当てる。さあ、言え、言ってしまえ。
そっと、手を伸ばす。
もしかしたら、こんな風にするのはこれが最後になるのかもしれないと思った。ぽんぽん、と彼女の頭を撫でる。
ビーダマみたいに目をまんまるにして、瞬きひとつせずに、彼女は島田を見つめていた。
「もう、こういうのは……ヤメにしよう……」
手渡されかけていた差し入れを、そっと彼女に押し戻す。
「今日まで、ありがとう」
島田はゆっくりと手を離す。名残惜しい。もう触れることができないだろう彼女の髪が、こぼれていく。
「嬉しかった」
そして、彼女に告げる言葉。
「これまで、ありがとう」
島田は彼女に背を向けて、逃げるようにその場を離れた。
振り返ることなんて、できるはずもない。