君が気づかないのなら、
「島田」
とても珍しいことに、一瞬島田は反応できずにいた。
「島田?」
再度呼びかけられて、慌てて答えを返すして相変わらず読めない表情の宗谷に向かい合う。
対局の時以外でこんなふうに顔をあわせること事態いつぶりだろうか。もうそれも思い出せない。名人である宗谷はめったに会館には現れないし、他人と談笑するタイプでもない。
そこまで考えて、たった一人の例外を思い出してしまい慌ててそれを振り払うように島田はかぶりをふった。
「君に聞きたいことがあって」
「オレに?」
「あの子のことで」
――あの子。
具体的な名前が出なくても、それが誰のことを指しているのかわかって、島田は瞬間からだを強張らせた。
「いいの?」
「は?」
主語も述語もない問いかけだ。
「君は、」
一呼吸をおいて、宗谷は続けた。
「君は、僕を信じ過ぎだ」
以前にも聞いた台詞だった。
――美しかったのに、と惜しむように続けられた言葉にどれほどうちのめされたかを今でも島田は鮮明に覚えている。
「僕は、君が思うほどに『絶対』じゃない」
鳥のようだと思った。高い空から地べたを這いずる自分を悠々と置いていく鳥だ。
それに追いつこうと、必死に天に手を伸ばしていた。
けれど。
今、目の前にいるのは同じ大地に足をつけた『人間』に見えた。
静かな冬の宮殿に住んでいるかのような宗谷が、閉じられた強固な扉をゆっくりと開く。たった一人を、迎え入れるために、開かれる扉。
それが、確かに見えた気がした。
「君が気づかないなら、貰ってしまうよ」
相変わらず主語はない。なのに、わかった。何を、宗谷が言いたいのか。
まっすぐに、島田を見る男は本当に宗谷だろうか?彼は、こんな顔を浮かべるような男だっただろうか?それとも、
(あの子が、宗谷を変えたのか)
宗谷が島田の横をすり抜けていく。身動き一つできずにそれを見送って、島田はその場から動けなかった。
『宗谷の、嫁に』
会長の言葉がリフレインする。
何度も、何度も。
冗談だろうと一笑にふしたソレが現実味をおびて、冬の宮殿に招きいれられる彼女を思い描くだけで『いやだ』と、本能が叫ぶ。
そんなのは、それだけは、どうしても。
そんなことを言う資格も、ないくせに。