ただ君の幸いを願う 後編
「あの、宗谷さん」
「なに?」
福岡遠征だー!と騒いでいた結のトーンがわずかに下がった。
「……その、島田さんの、こと、なんですけど……」
会長たちはもう次ぎの店へと行ってしまって、外灯の下にいるのは宗谷と結の二人だけだ。
会長たちは気づかなかった。結のいつもの『島田馬鹿』の様子が、すこしおかしいことに。
「うん。島田が?」
返ってくる短い応え。
温度のない淡々とした、変わらないいつもの宗谷の声音に少しだけ安心する。
「島田、さん……その、」
「うん」
うまくきりだせない結をせかすことなく宗谷はただ何度も返事をした。
「しまださん、……さい、きん、」
気づかないふりをして、いつもどおりに振舞おうとして、それでもやっぱり心の奥底にある不安がすけてしまう。精一杯の空元気さえ、宗谷には見透かされている気がしていた。
「……さ、さいきん、……いつにもましてかっこいいですよね!!」
「そう」
「やー、楽しみだなぁー福岡!いけないけどテレビ!見るの!宗谷さんもまぁ、頑張ってくださいね」
言いたかったことはいえなかった
口に出して、明確な言葉として形をとってしまうその現実に、自分自身がうちのめされてしまいそうで。
どうしようもなく怖くて、言葉にはできなかった。
らしくない。
積極的に頑張ると決めていたのに、いざ望まぬ答えが返ってきそうになると逃げ出しそうになっている自分がイヤになる。
精一杯の笑顔で見上げた宗谷の顔が思った以上に近くから自分を覗き込んでいて、思わず一歩あとずさる。その一歩をつめるように宗谷も動く。
そのまま、伸ばされた綺麗な手を、呆然と見つめていた。
将棋の駒を持つために生まれてきたような、その手が、指が、結の頬をそっと撫でた。
そのまま、手のひらをかえし今度は手の甲で、まるで涙を拭うようにそっと。
「そーや、さん…?」
「うん」
変わらない声と表情なのに、その手の動きだけはまるで別人みたいに優しくて、元来将棋以外は器用でないこの人が心配して甘やかしてくれているのだとわかったから切なくなる。
タイトル戦前の名人相手に、ちっぽけな自分の悩みごときで手をわずらわせている。こんな体たらくで棋士の嫁になりたいなんて言っていいわけがないのだ。
「……ごめんなさい、そーやさん」
子供で、わがままで、欲張りで、こわがりで、臆病者で。
こんな私でごめんなさい、と。
指が俯いていた結の顎にかかって、強制的に顔をあげさせる。
「謝る必要ない」
「……、でも、」
「もんだいないから」
ふっ、と浮かべられた余裕の笑み。
そうだ、この人は『宗谷冬司』なのだ。
「さすが、名人の言うことは違いますね」
思わず笑ってしまう。ようやっと、多分いつもの笑顔を浮かべることができていた。それに満足したのか、宗谷の手がゆっくりと離れていった。
「...You’re someone I’ll always wish good things for」
告げられた言葉は早口で、それもどうやら英語のようで結には聞き取れなかった。もう一度言ってくださいとゆすっても、宗谷はもう口を閉ざしたまま開こうとはしなかった。別れ際にねだっても、ぽんぽんと頭を撫でられて、もうそれ以上は聞けなかった。
けれど、ひとつだけわかったことがある。
多分、この人はきっと、自分を励ましてくれているだということ。名人として、ではない、宗谷冬司として、目の前にいる自分に真摯な言葉を送ってくれたのだということだけは、わかった。
沈んでいた気持ちが少しだけ温かくなって浮上した。
(あなたは、私がいつも幸あれと願う人)