3月のライオン | ナノ
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彼女の幸せ


一番初めに島田さんに呼ばれたのは『あのときの子?』だった。
てっきりもう忘れられてしまっているかと思っていたから、覚えててもらえたのが嬉しくてその日は一晩中興奮で眠れなかった。

それからしばらくの間は『君』と呼ばれた。
少しだけ距離のある、他人への敬称で呼ばれることが多かったが、まあこれは当然だ。しかたない、当たり前だ、と自分に言い聞かせる。
たくさんいるファンの名前を一々覚えてなんかいられないに決まっている。
出会うたびに、一瞬の間があって『あ、なんて名前の子だったかな?』と記憶を辿っている顔を見て、当たり前だとわかっていても中々覚えてもらえないことが悔しかった。

ほんと、我ながらずうずうしい奴だと思う。
初めの頃はあの時のことを覚えていてもらえただけでよかったのに、島田さんを見れただけで幸せで、その日一日ご機嫌でいられたのに。

恋は人を欲張りにする。
恋は人を我がままにする。
恋は人を変える。良くも、悪くも。

恋をして、わたしのモノクロの世界は極彩色に変わった。
ささいなことで喜んで、ささいなことで落ち込んで、ジェットコースターのように乱降下する。

「緒方さん」と初めて呼ばれた時、あまりにもあたりまえに島田さんがそれを口にしたから、会話をしているときには気づけなかった。
「もう遅いし、帰り気をつけるんだぞ緒方さん」
「はいっ、また今度!」
大きく手を振って島田さんと分かれたあとで、曲がり角を曲がった瞬間ふいに気がついたのだ。

今、島田さんに呼ばれた、と。

(緒方さんって!島田さんに!よば、よよ、呼ばれた!!)

真っ赤になって、心臓が爆発しそうなくらいにドキドキした。その日の夜もやっぱり嬉しくて眠れなかった。
寝ていないせいと、嬉しさのせいで、次の日の私は終始馬鹿みたいにテンションがハイになっていて、ニコニコニコニコ。箸が転がっても笑えたほどだ。大学の友人にあれはほんとうにどこか頭でも打っておかしくなったんじゃないかと思ったなどと酷いことを言われたが、気にもならなかった。

(だって島田さんが!わたしの!名前を!呼んでくれたんだから!!)


外灯に照らされた将棋会館への道を私は急ぎ足で通う。もう、後藤さんとの対局がきっと終わった頃だ。
すれちがったタクシーに、ちらりと見慣れた横顔があった。ああ、やっぱり終わったのだと更に足を速めた。早くしないと、島田さんも帰ってしまうと焦るように足を動かす。
しばらくして道に二つの後姿を見つけて、私は早足から全速力で駆け足に切り替えた。


「くっそー!も、ぜってー次も勝つっ!さぁ坊、さっそく帰って次の対策練りまくるぞっっ」

「わーいさすがっっ☆それでこそ兄者です!!」


見慣れたコート、大好きな人の声が聞こえて思わず顔がゆるんだ。

(次も、ってことは島田さんが勝ったんだ!)

わがことのように嬉しくて、嬉しさのままに、東京の夜空に叫ぶ大好きな人へと私は突撃した。


「島田さんっ、おつかれさまでしたっっ!!」
「のわっ、結ちゃん?!」
「対局、勝ったんですね!おめでとうございます!!」

ぎゅううう、と背中に抱きつく私をあたふたと、驚いた島田さんの細くて長い腕がひきはがそうとする。もう少しだけひっついてたいなぁと思うけれど、あんまりやりすぎても島田さんの胃に悪影響だ。島田さんの負担にならないことが最優先、それも対局が厳しいころなら尚のことだ。

「あ、二階堂君もこんばんは」
「結さんっ、今晩も兄者に差し入れですか!」

二階堂君はいつもどおりのニコニコ笑顔だ。

「こんな遅くに女の子ひとりじゃ危ないからやめなって言ったろ?」
「や、あの、今日は実習でどっちみち遅かったのでほんと帰り道に寄ってみただけなんです。これ、渡したらすぐ帰ります!」

差し出したのは保温性の高い水筒だ。

「身体に優しい野菜スープってのを作ったので……良かったらどうぞ!!あ、二階堂君にも今度差し入れるね!今日は、ほらっ、島田さん帰られてからも対策ねりまくるんですよね?お夜食にでもどうぞ!なんにも口に入れないのは身体にも良くないですし」

捧げるように、島田さんに水筒を突き出してちらり、と目線だけ上目で顔色を窺ってみた。
きょとん、とした顔の島田さんは少しだけそのあとばつが悪そうに視線をそらして「あー、さっきの聞かれてたか……」と呟いた。

「はいっ、島田さんの決意はしかと聞き届けましたとも!!」
「あああ、ちょっ、結ちゃん…忘れよう。いやむしろ忘れてください」
「んん?兄者先ほどの宣言はかっこよかったですよ?」
「そうですよ!素敵でした!!惚れ直しました」

にっこりと笑ったら、島田さんが口元に手をあてて目を細めて私を見た。

「結ちゃんは、物好きだな」
「〜っっ、」

伸びてきた手がぽんぽんと私の頭を撫でてくれた。

「ありがとう結ちゃん、ありがたくいただくよ」

水筒の重みが私の手から消えて、島田さんの手に渡る。
『結ちゃん』、とそう呼ばれるようになって、もうどれくらいたっただろうか。島田さんからもらった『幸せ』はどんどんどんどん増えていく。両手からあふれ出すくらいにたくさんあって。その幸せをほんの少しでも返せているんだろうか、と思う。
こんなことでしか、役には立てないのだけれど。



『結ちゃん』と初めて呼ばれた日のことは実は覚えていなかったりする。
なんでだかはわからない。そう呼ばれるようになったのがあまりに自然で、気づいたときにはそうだったからかもしれない。その事実は少しだけ島田さんの日常の中に私が溶け込んでいるような気がして嬉しかった。

もっともっと、呼んで欲しい。

ほんと、恋って怖い。
欲求は果てしなく沸いてきて、次から次へと要求が増える。

『結ちゃん』

そう呼ばれる声にあるのは、妹みたいな存在に向けられる親愛だ。
そこに男女の情愛はまだ見えない。島田さんにとって私はまだ『女』じゃなく、『ファン』であり『妹みたいな女の子』なのだ。

もっと。

果てしない恋の欲望に、食い尽くされてしまいそうになりながら、私は今日も島田さんを呼んでいる。いつか、島田さんを名前で呼べる日が来るだろうか?
そんなことばかり考えては、『結ちゃん』と呼んでくれるあの人の下へ駆け出すのだ。