冬を解かす春
思い出す。
あの人はいつも一人で、まるで世界から切り離された場所にでもいるようで。
触れることさえ躊躇うような、降り積もる深雪のような人だった。
少なくとも、零にとってはそういう存在だったのだ。
「え」
口を開けて固まってしまう。目の前の光景を零はにわかには現実のものとして受け止められなかった。
そこには、静かな冬が人の姿をとったような将棋の神さまがいた。
冬。雪。寒々しい名前も相まって、彼についてまわるそのイメージ。
「宗谷さん、ちゃんとご飯食べてます?」
「宗谷さん、明日は寒くなるそうですからコート着たほうがいいですよ」
「宗谷さん、ちゃんと寝てます?また将棋に夢中になって寝食忘れたりしてません?」
「あ、それ、今度島田さんに差し入れようと思ってるんですけどどう思います?」
宗谷冬司の隣で輝かんばかりの《春》が笑っていた。
今、彼に彼女の声が聞こえているのか、いないのか。瞬時によぎった考えは、次の瞬間霧散した。
ふわり、と。わずかにほころんだ口元が、「だいじょうぶ」と答えを返す。
当たり前の景色のはずなのに、なぜか零はそれがとんでもないくらいの奇跡のように感じられた。
「たしかにさむいね」
と、続いた言葉に眉尻を上げて彼女が抗議した。
「だから、ちゃんとマフラーをしたほうが言ったじゃないですか!見てるこっちが寒いんですよね名前も格好も宗谷さんは!」
唇を尖らせて、彼女は仕方ないなぁと笑う。
「これ貸したげます。勿論有料ですよ?」
背伸びをした彼女が自分がしていたシンプルな色合いのマフラーを彼にまいていく。大人しく、されるがまま。彼はマフラーがまきやすいようになのかわずかに前へと顔を傾ける。
会話している。
それだけのことが、どうしてこんなに衝撃なのか。
「そうそう、またサプリメントご飯とか駄目ですよ?寒いですしおでんとか!鍋とか!身体あったまるもんがお勧めです」
そうだね、とまた答えが返る。
マフラーでぐるぐる巻きにされた彼の姿は絶対的な《冬》とはもはや言えず、春の日差しに説かされた雪のようで。神様でもなんでもない、普通の人間のように見えた。
「 」
多分、彼は彼女の名前を呼んだのだ。
口の動きは確かにそれを形どっていた。けれど、その声は彼女には届かなかった。
「あ、島田さん!」
視界から勢いよくフェードアウトしていく彼女につられて視線をわずかにずらせばそこには見知った先輩棋士がいた。
続いていた会話が終わってしまったことが、どうしてこんなにも惜しいように感じたのか。
とても見慣れた、彼女と彼女の思い人の会話を聞きながら、たった今までみていたはずの光景を思い出す。
冬の空気が解けていったあの瞬間を。
視線を元に戻したときには、冬のように触れがたい、挨拶すらままならいような雰囲気を纏ったいつもの宗谷冬司がいて。じっと、その視線が去っていった《春》を見つめて、そうしてそれから視線をそらして歩き出す。
彼の中の音が消えて、また雪が降り積もる。
ひらりと、マフラーがゆれて。
その後姿が目に焼きついて離れない。
「宗谷さん」
と、かける彼女の呼び声が、彼に届いていなかった姿をいまだに零は見たことがない。
ただ彼女が声をかけるタイミングがいいだけなのか、届いていなかったところを零が見たことがないだけなのか、はたまた彼女の声は何か特別な魔法でもかかっているのか。どれが正解なのかは、わからないままだ。
***
「宗谷と結婚を前提にお付きあいを始めたんだって?」
「……なんの話ですかソレ」
不機嫌そうに唇を尖らせて抗議する。
後藤の言葉はすでに他の棋士からも散々に問い詰められてきた質問だった。
「島田から宗谷に乗り換えた小悪魔女子大生」
「人聞き悪いこと言わないでくださいよ!私は昔も今も島田さん一筋ですー」
「噂によると?かいがいしく手作り弁当を渡し」
「島田さんの差し入れの余りですよ」
「夕飯の献立を相談する仲で」
「島田さん待ってる間の単なる世間話です」
「手編みのマフラーを巻いてやってるとこを目撃した人間がいるとか」
「レンタル代として島田さんの昔の話をしてもらいましたけどね」
以前はなぜか後藤と怪しい仲であると誤解され、今度は棋界の至宝たる名人とあらぬ仲を誤解される。まったく何故こんな目に…と肩をおとす。
どうせ噂になるなら島田さんとがよかった、とぼやく。
「あの宗谷と会話してればそうなるだろ」
「普通にしゃべってただけじゃないですか」
「普通にしゃべってんのが問題なんだろーが」
「なんでです?」
本気で理解できないと首をかしげれば「お前はほんとにたち悪いな」とよくわかならいことを言いながら後藤が小さく溜息をついた。
「宗谷にしとけば?」
「名人つかまえて『しとけば』って何ですかそれ」
「島田よりもそっちのが見込みあるだろ」
「はっはっは、なーにいってるんですか!島田さんに見込みないとかそんなことないですからね!ちゃくちゃくと恋の芽生えはすぐそこにきているはず!」
「現実問題、」
高笑いをよそに後藤はまじまじと見つめてのたまった。
「相性は悪くないだろ」
「……きょーこちゃんと後藤さんも相性は悪くないですもんね」
拳骨が降ってきた。
自分が先に話題を降ってくるくせに分が悪くなるとすぐにこれである。痛む頭をさすりながら、溜息をこぼす。
「相性で全てが解決してれば、生きていくのはもっと簡単ですよ」
「哲学者きどりか」
「真面目な話ですってば!」
撫でくりまわしてくる大きく無骨な手をおしやって、そっぽをむく。
「宗谷さん、死んじゃった兄に似てるんですよ」
それだけだ。
似ているから、放っておけない。ただ、それだけなのだ。
「それが恋の始まり、だったりな」
「ないですよ!ない!」
そんな、まさか。
あるはずもない。