3月のライオン | ナノ
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物好きな彼女と棋匠戦




第33期棋匠戦、その大盤解説を勤める横溝はあまりにもがらんとした会場を薄目で眺めた。
なんとも侘しい光景である。

遠目に見ただけでも数えれてしまいそうなほどの客数で、大きな部屋が泣いているようだ。言ってはいけない、考えてはいけないと思いつつも、確かにまぁ…地味な対戦カードであることはこうしたところで如実に現れてしまっているのだから世の中せちがらい。
宗谷や櫻井といった見た目にも楽しい対戦相手をと望んでしまうタイトルホルダーの気持ちも分からなくもない。
彼らが相手だと実際に女性の観戦客が倍増するのだから。ほんとうに、せちがらい。

ふう、と小さく世の無常に溜息をつきつつも、対局の開始を心待ちにしてくれている観客が片手で数えれそうなほどだからといっていないわけではないのだから自分の仕事をまっとうしようと映し出された白紙の盤面を見た。

「ありゃあ?嬢ちゃんどうしたんじゃろうなあ」

観客の一人は観戦客では常連さん。いくつものタイトル戦を観戦しているご老人である。横溝にも見覚えがある。よく大盤解説を最前列の観客席で食い入るように見ている御仁である。そのご老人がしきりに首を傾げて、何度もしきりに腕時計で時間を確認していた。

「おかしいのぉ、30分前には着くというとったんじゃが」
「ほーじゃのお」

時計と、出入り口と、そうしてまだ始まらない対局のモニターを見比べてしきりに首をひねる。

「どうかしましたか?」

少ないお客。横溝たち棋士との距離もぐっと近付きやすい。

「ああ!大丈夫です、一人ちいっと遅れてるみたいで」

話を聞いてみると、老人が言うその人物はこの対局が決まってからというもの夜も眠れないほどだとか。これまで都合がつかずに行ったことのなかったタイトル戦の初観戦らしく、緊張のあまりに寝坊でもしたのだろうと老人は呵呵大笑した。
眠れないほど、楽しみ。この対局に対してそこまでの情熱を見せる人物がいるとは、と心の中で感嘆しつつ横溝も時計を見た。

対局開始5分前。
近くにある窓から見える向いの道路からバイク音がかすかにもれ聞こえた。
そうしてぱたぱたと、聞こえてくる小さな足音。

ばたん!と勢いよく開け放たれた扉から現れた人物を見て横溝は「ああ、これが噂の!」と思わず呟いた。

何度も言うが少ない客数。
部屋の密度も薄いせいか小さな呟きもよくとおったのだろう。入ってきた彼女は横溝の呟きを聞いたその瞬間これまた勢いよく顔を伏せた。

「なぁーにやっとるんじゃ嬢ちゃん!はようこっちに来い来い、始まるぞ」
「は、はいっ」

気まずげに、おそるおそる大盤の近くまでやってきた彼女は、彼女のために用意されていたらしい特等席にちょこんとすわった。
大盤の、まん前。センター席に陣取った彼女のことを横溝は知っている。
というか……結構な人数の人間が知っているであろう。スタッフの何人かと、常連客の何人かが生暖かい目で彼女を見守っている。

「間に合ってよかった・・・・」
「なんじゃぁ、寝坊か」
「・・・・・楽しみすぎてつい夜更かしを」

島田開八段の熱烈なファンである彼女を知らない棋士がいるのだとしたらもぐりだろう。
あの浮世離れしている名人宗谷冬司でさえ知っているのだから相当である。あたまを掻いて照れる横顔に浮かぶ満面の笑み。

「は、はじめてでなんか緊張します」

むさくるしい男だらけ、年寄りだらけの会場に咲く紅一点。
せちがらい現実の中で、そこだけほっこり温まるような。
少ない人数ゆえのアットホームさと、島田ファンの彼女の存在で、会場はかなり盛り上がった。一手一手に息を呑み、まばたたきもしないほどにモニターを見つめるその姿は、けなげでいたいけである。なんてうらやましい。
会場にいた棋士のココロの中で「島田さん爆発しろ」とか思ってしまった人間がいるのは致し方ないことである。彼女欲しいんだ。
女性との接点の少ない職業であればこそ切実である。

荒れに荒れた対局。彼女はあれの一体どこがいいのか、と思わず問いたくなるような。
というか、これを見て幻滅するのでは、なぞと思っていた自分を横溝はのちにまだまだ甘かったと語る。彼女はもはやそういうレベルではないのだと思い知る。
くすくすと、楽しげに。それでいて胃の調子を心配しつつ。
未来の島田夫人、というあまりの歳の差から本気にしていなかった噂もあながち冗談ではないようだ。

結局対局は島田八段の負けだったけれども、係員にもらった壁に貼ってあった地味で手抜きといっても過言ではない『棋匠戦』のポスターを腕に抱えて、それだけでも彼女は十分幸せそうだった。なんともはや。世の中には奇特な人物というものがいるものである。

そうして横溝は自分にもいつかこんな熱心なファンが現れてくれないかと、切実に、本当に切実に願った。

どれだけ少ない観客でも。
たったひとりでも、自分だけを一心不乱に応援してくれる人がいれば。
それはどれほど幸福なことだろう。



***


「お前ってほんと幸せもんだよなぁ島田ァ」

会長に声をかけられた島田は「はい?」と首をかしげた。一体何の話だ。

「いやね、さっき係りの人間からよぉ『ポスターが欲しい!』っつう客が居るって言うからてっきりこの新人戦特別対局の宗谷VS桐山のだと思ったらな?」

にやにやにや。終始にやけた顔で会長は言う。

「欲しいのは『棋匠戦』なんだとよ」

あの、手抜きの、地味な、旅館の広告まがいの島田と棋匠がでーんと載ったポスターである。
一体どんな興味であんなポスターが欲しいなんて、――とそこまで考えてから、そう言いだしそうな人物の顔が島田の頭をふいによぎった。

「えーっと、あー、それって、」

「あーあー、うらやましいこったなぁ!!」

さっさと結婚してしまえ、なんて軽く言われても困るのだけれど。
島田は肩をすくめて頭をかいた。ほんとに、困ってしまう。

「困ってる、ってぇ顔じゃあねーだろそりゃ」

顔、にやけてんぞ、なんてひやかされるのは、もう毎度のことなのでスルーしておく。

「明日、頑張らないとですかね」

今日よりももっと、いい対局を。できれば勝利を。
あのまっすぐな視線と思いに、見合うだけの人間ではありたいと願っているから。