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てんとう虫の恋




ねえ、零くん。
向日葵の恋は、不毛だねえ。
ただ、ただ太陽を見つめてるだけだなんて。


ぽつりぽつりと、普段の快活さがなりを潜めた彼女の声を聞いて、僕は気づいた。
彼女を、もしかしたら僕は傷つけてしまったのかもしれないということに。



てんとう虫の恋



「ねえ零くんっ、わたし島田さんのてんとう虫になろうと思うの!」


突拍子の無い発言に、零は眼鏡ごしにまじまじと目の前で興奮した様子の年上の彼女を見つめた。
てんとう虫。以前、彼女に向日葵みたいだと言ったとき、どこか彼女が寂しげで気にはしていたのだけれども、いったいそこから何でまた虫に話が飛んだのか見当もつかない。


「はぁ、それはまた何でですか」
「てんとう虫ってなんでてんとう虫って言うか知ってる?」
「一応」


天道虫、この小さな可愛い生きものが、

太陽に向かって飛ぶところを指してつけた名前。


「それで、ね!思いついたの!こないだ零くんは私を向日葵みたいだって言ったでしょ?でもさ、やっぱりわたしはただ太陽を見つめてるだけの向日葵じゃあ我慢できなくて・・・・・」

「はあ」


闊達に笑う彼女の勢いに押されるように、零はじりりと数歩あとずさった。
けれども距離は開かない。その空いた距離を彼女が目をらんらんと輝かせてつめていく。

少年から青年への成長過程にある細い肩を彼女はがっしりと捕らえ、自らの素晴らしい考えを披露した。
「で!更にてんとう虫にはこーんないわれもあったのだよ零くん!」

この状況を誰かに目撃されてしまえば、彼女が零に迫っていた、なんて噂がたってしまってもおかしくない。
それは彼女の名誉のためにも、彼女の恋路の成就のためにもよからぬことであろうと必死に回避をはかる零の心中をよそに更に顔と顔の距離を近づける。
キス、寸前。そんな距離。


「わ、わわかりましたっ、聞きますっ!聞きますんでちょっと離れてくださいってば」
「んん?どしたの零くん、顔赤いよ。風邪気味?」
「・・・・・・・・・ええまあそんなとこです」


おそらく彼女にとって全人類の男どもなぞ「島田さん」か「その他」に振り分けられているのだ。
意識しているだけ馬鹿らしいとは分かっていても零自身はお年頃なわけで、慣れない純情少年の精一杯の気遣いをすることしかできない。



「てんとう虫はねっ、幸運を運んでくれる虫なんだって!」



その虫は、自分にとってあまりいい思い出のある虫じゃなかったはずなのに、彼女があんまりにも嬉しそうで。
年上の彼女の言い分があまりにも幼げで、無防備すぎるのが心配なんだと呟いていた島田さんの気持ちが今なら少しだけ分かるような気がした。

彼女は、ほんとうに可愛らしい人なんだなぁとしみじみと感じた。


「そうなんですか」
「そうなのですよ零くんっ!」


島田さんがいつ彼女に落ちるか。
棋士の間でそんな賭けがなされているらしいことも知っている。彼女は粘り強く、何年も何年も島田さんに会いに通いつめていることからも、すぐに島田さんも陥落するだろうという多くの予測を覆して、島田さんは未だに彼女を受け入れていない。

島田さんが彼女のことを嫌っているなんてことは万に一つもないはずだ。
好きかどうかなんていうのはわからない。
けど、時折彼女から貰った差し入れを食べているときの横顔だとか、彼女と話しているときのこぼれるような笑みだとか、山形での櫻祭りで彼女にお土産を選んでいる姿だとかを見ていたら、島田さんもすごく彼女のことを大事には思っているのが伝わってくる。


「わたしはねっ、島田さんに幸運を運ぶてんとう虫になりたいなあって思ったの!ただ焦がれて見てるだけの向日葵よりもずうっといい例えだと思わない?」


彼女がスミスさんや、後藤や、宗谷名人と楽しげに話しているのを見かけたときの、あのどこか驚いたような、寂しそうな、けれどそんな自分に戸惑っているような島田さんの横顔。
少なくとも、島田さんの中で彼女は《特別》なんじゃないだろうか。


「島田さんのてんとう虫、ですか」
「そうっ!」


ちいさなからだ、ぜんしんぜんれいで「貴方が好きだ」と彼女は叫んでいる。

こんな風に、いつか自分も誰かに愛されるのか。
こんな風に、いつか自分も誰かを愛するのか。

想像もつかない。
勝つか、負けるかのシビアな世界で生きている自分たちにはまぶしすぎる。
多分、彼女は島田さんに決定的にふられてしまったとしても、島田さんの幸運を願うんだろう。

この広い世界の中で、こんなにも自分のことを思ってくれる存在がいてくれる幸運をかみ締めることのできる幸せ。

一度、ぜんぶをなくしてしまったからこそ、なによりそれが尊いものなのがわかる。



「いいですね、それ」



彼女の恋が、成就するといい。
山形で見たあの島田さんの笑顔の横で、彼女も笑っていたら、それはなんだかとてもとても幸せな光景のような気がするから。



「ふっふっふ〜、零くんにもいつか幸運のてんとう虫がやってくるといいねぇ」




植木で見つけたのか、彼女が人差し指にてんとう虫をのせて太陽へとまっすぐに腕をのばす。
小さな赤い背をしたてんとう虫が、青い青い空を割って飛んでゆく。

あのてんとう虫は果たして誰のもとへと、幸運を運ぶのか。


彼女の言うように僕も、誰かの太陽になれるんだろうか。
それはなんだかおこがましいような願いのような気がして、口にするのも憚られたけれど、



「僕も、誰かのてんとう虫になれると思いますか」



てんとう虫を見送って、空を振り仰いでいた彼女が僕を見て、やっぱり向日葵みたいに明るく笑った。


「勿論!」



この無敵の笑顔の前に、島田さんが完全に陥落する日も遠くはないんじゃないだろうか?