その他夢小説 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



Break the Wall 0.5;Iron Curtain


こどものころは、負け知らずだった。
勉強よりも稽古がたのしくてたのしくて、しょうがなかった。稽古をすれば、するだけ、強くなれた。
小学生のときに全国でいちばんになって、これからさきもっともっと強くなれると思っていたのだ。

中学にあがってしばらくすると、徐々に負けが増えた。
周りの人間が成長していくなかで、ちっぽけなままの自分はかんたんに追い越されてしまった。悔しくてたまらなくて、人の倍も稽古した。足りないものを埋めるように。
それでもまだ、足りなかった。
思うような自分になれない。
全中を制せたのは、ひとえに運が味方をしたからだ。

高校に上がって、その差は既に明白だった。
毎日牛乳を飲んで、早く寝て、それでも少しも春の身長は伸びてくれないのに、成長期に入った周囲の男子はタケノコのようにニョキニョキと伸びていく。
くやしくて、眠れない。眠れないのがまた更に調子を崩させる。無理にでも眠ろうとするけれど、良質な睡眠は得られなかった。それがまた悪循環なのだとわかっていた。わかっていても、どうしようもなくやるせなくて、歯を食いしばるようにして努力をした。
思い描いた自分になれないと、気が付いたときの絶望をなんといいあらわせばいいのか。

高校の授業は体育が男女別になっていた。その理屈すら忌まわしかった。
男子は道場で柔道なのに、女子は体育館で別のメニューが用意される。柔道も、空手も、剣道も。


高校を出てすぐに、警察官になった。
強さを、生かせる仕事につきたかった。がさつで、馬鹿な私でも、だれかを守れる仕事だ。強くありたかった。
理想だったのは祖父だ。
過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となった父。風邪をこじらせて亡くなった母。
置いてけぼりになった私を、育ててくれた厳しくも優しい、憧れの人。



そして、あの日が来た。



――大規模侵攻。
なにひとつできなかった自分に絶望した。
実家の瓦礫の下敷きになって、祖父が死んだことも。火の手が迫る中で必死でがれきをどけようとするのに、少しも持ちあがらなかった。もしも自分にもっと力があれば、祖父を助けられたのではないか。
「助かる人間を助けに行け」と祖父は最後にそう言った。お前は両親二人の加護がある、強く優しくたくましく、丈夫な子に育ったと誇らしげに。それでも動けないでいると、子供の頃、恐くてたまらなかった一喝が、響いた。
祖父を残して、別の現場に駆け付けた。

誰かを助けなくては。
その思いのままに、ボーダーが立ち上がり新隊員の募集がかかった時はすぐさま応募した。

そこでもやっぱり子供の頃のようにはいかなかった。トリオンの数値は初めの頃こそ、そこそこ見れる数値だった。だが、他の隊員に比べてその数値の下がり方は明らかに早く、人よりも早くに戦闘員をやめることになるだろうという開発室長の言葉は、自分の中の『理想』の死刑宣告を再びされたような心持ちだった。
最終的にトリオン回復機能不全というまだ誰も聞いたことのないような症例を下されて、戦闘員を引退した。警察官に戻ろうか、ボーダーの職員として残ろうか。随分悩んでいた。まだ戦闘に身を置く同期達を見れば、自分のなかにあるどす黒い靄が見苦しくもがくのを抱えていく羽目になるだろう。職員だって戦っている。それは分かっていたけれど、幼い日に思い描いた理想との乖離に、自分自身が耐え切れないでいた。
羨ましい。
ねたみ、そねみ。そんな感情の愚かしさを知っているのに、消えてなくなってくれない。
もがき苦しんでいた頃に「うちで働かない?」と声をかけてくれたのが唐沢だった。
生身でもきちんと戦える人材が欲しかったのだと彼は言った。元警察官であるという経歴と、戦闘員での成績。それらを加味して、自分の護衛をしつつ仕事を手伝ってくれればいいとその人は言う。生身で。確かにどこでもかしこでもトリオン体でいるわけにもいかない。その技術は秘匿されてしかるべきものだ。流出すれば、新たな技術革新と共に第三次世界大戦の引き金ともなりうる、とかいう難しい話は重々言い含められている。
だが外務営業部長は、あちこちへとボーダーを離れて資金調達に奔走している。安全なお城の中だけにはいられない。
なるほどと腑に落ちた。つまりはこの人の盾になればよいのだ。盾となり、壁となり、この人を生かすために。金喰い虫であるボーダーの、財布を任される男を守る。
彼を守り、そして――


「この話、私以外の誰かにしましたか」
「君に振られたら、次の予定者に声をかけるつもりだったよ」
「・・・・・・私がやります。それが一番いい」

彼を守り、そして彼の敵を屠る。
唐沢克巳の敵は、おそらくは近界民だけではおさまらない。

「東には向いてませんよ。だってこれは『替えの利く兵隊』のやる仕事です」
「・・・・直接的な物言いだ」
「東春秋は、ボーダーの上層部にいずれは入るんでしょう。そういう人間に、こんな仕事はさせるべきじゃない。担がれる神輿は綺麗な方がいい」
「君は違うと? そこまでわかる君は、君が思うほどに愚かではない賢い人だよ」
「でも私が断っても他の誰かがやる仕事です。トリオンの回復不全ではありますが、時間稼ぎくらいには使えます。私を使ってください」
「戦闘員に未練はないかい?」
「・・・・あります。死ぬほど」
「それでも来てくれると」
「適材適所です。20代の隊員はまだ少ない。戦闘員上がりなら猶の事です。冬島さんは開発室に、響子ちゃんは本部長の補佐に。東は今後は後進の育成に動くつもりらしいですけど、上がそれだけですますはずありませんから。ゆりさんは玉狛から出てはこないでしょうし。こうなると自分はどうするべきかとずっと考えていたんです。トリオンは目減りしているし、オペは雑すぎる。戦うしか能がない、頑丈なのだけが取り柄の人間。弾除けにはうってつけです」
「弾除けだけお願いする気もないよ」
「・・・・・外務営業部ですよね?」
「君は結構向いてると思う」
「・・・・・さすが、口がなめらかだ」
「そういうののレクチャー受けるのも含めてやる気になってくれるなら、君を指名しましょうか。」
「護衛だけじゃダメってことですか。」

だがそれは唐沢の手間が増えるだけのような気がした。もとより物覚えというものはあまりよくないのだ。戦闘に関する勘の良さはあるのだが、事務仕事はからっきしだ。

「戦闘員とはまた違う戦い方、一足先に覚えておけばいずれ『こっち側』に彼が来たときに優位に立てると思わなかい?」
「・・・・・・・・・覚えれますかね、わたしに」
「大丈夫、こう見えて昔ラグビーをやっていてね。後輩の指導には少し自信がある」
「ラグビーなんか関係あります?」
「チームプレイ」
「・・・・・・わたし苦手なんですよねそういうの」
「いいや」

自信ありげに唐沢は否定した。理解できないとばかりの顔をしたのがおかしかったのか、唐沢は肩を揺らして笑った。それから少しだけ神妙な顔になる。

「今まさに、君はチームとしてのバランスを考えて選択した。勿論そこに個人的なエゴが孕んでいたとしてもね。しかし、こうなると少し後ろめたいね」

魂を売り渡せと囁く悪魔にでもなった気分だ、と。
唐沢は腕を組んだまま、じっと花を見ている。

「いや、売りませんけど」
「そうかい?」
「そうですよ」
「ならいいんだ。けど東君には恨まれるかもしれない。殴られるのを覚悟しておかないとなぁ」
「なんでそこで東の名前が出てくるんですか」
「きっと寂しがるよ彼は」
「喜びますよ。うっとおしく絡んでくる奴がいなくなって。それに貴方は殴られません。私がいますから。例え相手がトリオン体で挑んできたって、初撃は私が受けて守ります。唐沢さんは足に自信がありますか」
「ラグビーやってたからね」

ラグビーはそんな万能なスポーツだったか。あまり明るくないスポーツだが、この人の下で働くことになるからには、まずラグビーのルールを学ぶところから始めなければいけないのかもしれない。

「私が時間を稼ぐので、ご自慢の俊足で安全圏まで逃げてください。逃走時間の確保に全力を尽くします」

深く深く頭を下げた。

「まいった。君をほんとに誘ってよかったのか、後悔しそうだ」
「後悔はしない質そうですけど」
「人はみかけによらない」
「勉強になります」
「実はこの勧誘はかなり横やりなんだよ。忍田本部長は、君にも指導役としての席を用意するつもりなんだ。」

忍田らしい人事だといえる。

「忍田さんから唐沢さんを逃がすのは骨が折れそうですね。リアルに」
「本部長派の心象を著しく害するだろうね」
「まさか。そこまではないですよ。可愛がってはくださってますけど。それに船頭が多いと碌なことにならないです。私に新しい戦い方を教えてください」

こちらこそ宜しく頼むよ、と手を差し出された。その手を取る。
助けられる人を助けに行け。
かつて祖父はそう言った。
それが遺言だったから、というわけでもないが。
心の奥深いとこに、刻まれている。

かくして私は戦闘員を引退し、外務営業部長付補佐官なんてものに就任することが決まったのだ。





「東」

呼び止めると周囲が「またか」という空気に包まれた。東につっかかる八嶋春。そんなのはもはや見慣れすぎた光景だと言わんばかりだ。そんな空気を知ったことかとばかりに、勝負を持ちかける。だが声をかけられた当人はいっかな気にした風ではない。

「今ちょっと忙しくてな」
「っち」

舌うちをすれば困ったようにすまん、と頭をかいて東が謝った。この男が嫌いだった。
誰からも好かれ、誰からも尊敬され、誰からも頼られ。完璧な、そびえたつ壁。この壁の内側で守られ、育てられることを許容できたら、自分ももっと楽に生きられたのか。

「わかった」

最後に一勝負、と思ったのは些細な感傷にすぎない。だからこれでいいのかもしれないと思った。普段ならば一戦だけでもと粘るところを、あっさり引き下がったものだから、断った東の方が驚いている。

「いいのか?」
「いいよ。忙しいみたいだし」

そして今後ももっとこの男は忙しくなっていくのだろう。できないことなんて、およそ見当たらないのだ。

「今度、埋め合わすよ」

今度。
今度はないはずだ。いや、部署が変わっても、たまに肩慣らしくらいはするかもしれないけれど、これまでのような頻度ではない。これまではすぐやってきた『今度』も今後は、どうなるかはわからない。返事をせずに背を向けた。反対側から唐沢が歩いてきて、春を手招きした。

「唐沢さんがこんなとこにいるなんて珍しいな。なぁ、八嶋ほんとどうかしたのか?」

関わりのなさそうな春を待っている唐沢を不審げに見ている東が春の手をとって引きとどめる。

「ちょっとね」
「ちょっとね、って」
「忙しいんでしょ」
「同期と話す時間くらいはあるよ」
「・・・同期?」
「同期だろ、俺達は」
「そうだったっけ」
「そうだよ。一緒に講義受けたろ」
「記憶ももうおぼろげ・・・年取ったな」
「まだ若いだろ」
「どうだろね」
「冬島さんが聞いたら泣くぞ」
「冬島さんはまだまだ若いよ。私らより少年だもの。たぶん永遠の少年・・・・開発室にいるちゃんとしたおとなは室長だけ、があそこの人たちの口癖でしょ」

ボーダーのネバーランド、とか呼ばれている場所なのだ開発室は。好奇心のままに、トリオン体を弄繰り回す姿は、昆虫を標本にする子供そのものに見えた。

「呼ばれているから」

東はもう引きとどめなかった。
春の辞令はその三日後に発表された。




***



こどものころから、東春秋はすこぶる容量のいい子供だった。
勉強も体を動かすことも、どちらもたのしくてたのしくて、しょうがなかった。
小学生のときに全国でいちばんになった隣のクラスの女の子の話を聞いてすごいなぁと思った。なんでもそつなくこなせるけれど、東にはどうにも闘争心というものが欠けていた。

中学にあがってからも、思春期でやんちゃを始める周囲に適当に話を合わせながら、それでも東は理性の手綱を手放すほどの何かを見つけることは無かった。
周りの人間が何かに打ち込み成長していくなかで、淡々と物事をこなす自分がどうにも滑稽に見えた。それでもそれを認めるにはまだ、東は若かった。周囲に合わせて。気づかないふりをした。

高校に上がるころになると、東は思春期の葛藤を割り切って達観していた。
やりたいことを、やりたいように。周囲は東はまるで教師のようだ、という。年の割に老成していたせいだろう。それをもはや否定しようとは思わなかった。
思い描いた自分になれないと、気が付いたときの諦観をなんといいあらわせばいいのか。

高校を出て、大学に当たり前のように進学した。東の人生で次の転機になったのは大規模侵攻だった。初めて、どうしようもないほどの好奇心を掻き立てられた。未知の存在、その最前線。危機的状況に自分の中の血がふつふつと沸いていたのに気が付いた。
ボーダーと大学院でトリオンの研究をしながら、東はもう一つ。危機的状況以外で、自分の心が沸く存在を見つけた。
それが春だった。
春は東を神様にしない。自分で言うのも不遜な話だが、東を師として慕う人間は多かったし、神様みたいになんでもできると頼られるようになるのが常だった。「東さんだから」と。
でも春だけはいつだって「お前を殺してやるからな」とでも言わんばかりに立ち向かってくる。彼女は強い女性だった。どれだけ叩きのめしても、立ち上がってまた東に向かってくる。一つ弱点を突けば、そこを改善してまた挑みくる。何度でも、東の前に立ちふさがってくれる。最初は少し面倒だった。呆れるほどに同じことを繰り返しながら、高慢なことに力量差は明白なのにどうしてこうも飽きることなく続けれるのかいっそ感心すらした。
何度もトリオン体にとどめを刺した。その一瞬、心の底から悔しそうな顔が、しいていえば爽快だった。誰かを負かした瞬間にこんな感情を抱いたのは初めてで少しだけ、驚いた。だから、彼女の誘いは断らなかった。
何度目か、もう覚えていないくらいの模擬戦闘で。彼女の首を勢いよく真一文字に切り捨てた。宙を、飛ぶ彼女の顔と目があった。笑っていた。それに一瞬見とれていたら、腹部を衝撃が襲った。
顔のない体が、東に孤月を突き刺していた。

東は、自分の口元が緩むのを感じた。
刺さった孤月をぐっと押し込まれる感触。トリオンが勢いよく漏洩する。活動限界はすぐにきた。ベイルアウト。設定されたベッドの上に落下した。

たぶん、それが恋に落ちた瞬間だ。
明確な自覚をしたのはもっと後のことだが、面倒だなと思う気持ちがさっぱり消えて彼女との対戦を心待ちにするようになっていた。
普段つっかかってくるのさえ「可愛いなぁ」と思えるようになるのが不思議な話だ。あれだけあんためんどくさがってたのに調子いいわね・・・と沢村には呆れられた。ほかのやつとやりあっているのを見ると、むっとした。東が来たことに気が付くとすぐさま春から殺気が飛んでくるとなんだか愛を感じる、と割と本気で言ったら冬島にドン引きされた。
だって、何をしていても気が付くって愛じゃないか?と思う。
その強い視線の先にいるのが自分だけであることが、たまらなく嬉しい。ゆるむ口元を隠すように片手をあてるのが最近少し癖になっている。
自分だけだ。自分だけが彼女の特別であるという優越感。
他の誰にだって彼女はあんな顔をしない。



「東」

呼び止められると周囲が「またか」という空気に包まれた。東につっかかる春。そんなのはもはや見慣れすぎた光景だと言わんばかりだ。そんな空気を知ったことかとばかりに、春が勝負を持ちかけてきた。東は勿論OKしたかった、が。

「今ちょっと忙しくてな」
「っち」

舌うちをされて困ったようにすまん、と頭をかいて東は謝った。東も、本当なら相手になりたかった。この流れはあまり好きじゃない。彼女は東を標的にすることが多いけれど、基本的に上位ランカーなら誰だっていいとう節もある。それは鍛錬にいそしむ、という風情だ。大抵太刀川に声がかかる。それを横目に指をくわえてみているのは、東としては面白くない時間だ。
とはいえ、増えてきた隊員の指導に当たれる人間は限られていて、手が離せない。
(今だけだ)
忙しいが、こうして詰込み型でも何人か育てきってしまえばあとは楽になる。そうすれば自分の対戦の時間の確保もしやすくなるはずだ。

「わかった」

いつもならそれでも、もう少し食い下がったり次の約束を取り付けるハルが、すぐさま引き下がるから、東は虚をつかれたような思いになる。

「いいのか?」
「いいよ。忙しいみたいだし」

実際忙しい。目が回るようだ。東は頭をかいた。あと少し、もう少し。そうしたら。

「今度、埋め合わすよ」

東の弟子たちは順調に育っているし、そろそろ放任主義に切り替えても問題ないはずだ。それに、東と春の戦闘を見るのだって勉強のうちに入るはずだ。
春はとりたてて返事をせずに背を向けた。反対側から唐沢が歩いてきて、春を手招きしている。

「唐沢さんがこんなとこにいるなんて珍しいな。なぁ、八嶋ほんとどうかしたのか?」

唐沢は普段こんな戦闘員ばかりの区域には顔を出さないし、そもそも関わりのなさそうな春を手招いているのがどうにも違和感だった。何か、嫌な予感がした。唐沢の元に行こうとする春の手を思わずとって引きとどめる。

「ちょっとね」
「ちょっとね、って」
「忙しいんでしょ」
「同期と話す時間くらいはあるよ」
「・・・同期?」
「同期だろ、俺達は」
「そうだったっけ」
「そうだよ。一緒に講義受けたろ」
「記憶ももうおぼろげ・・・年取ったな」
「まだ若いだろ」
「どうだろね」
「冬島さんが聞いたら泣くぞ」
「冬島さんはまだまだ若いよ。私らより少年だもの。たぶん永遠の少年・・・・開発室にいるちゃんとしたおとなは室長だけ、があそこの人たちの口癖でしょ」

答えがはぐらかされているのがわかった。

「呼ばれているから」


三日後、春の辞令が発表された。
戦闘員を引退して、唐沢の部下になると知って、あの時かけられたのは最後の誘いだったのだと唐突に気が付いた。
それからしばらくすると、隊服ではない仕立てのいいスーツをきた春が本部を忙しそうに歩きまわるようになった。
「かっこいいっすね」と太刀川が手放しでほめつつ「でも、たまには相手してくださいよ春さん〜」とねだっている。
「唐沢さんが就職祝いで仕立ててくれたからね。これ汚したら太刀川くん弁償してね」
「え、いくらくらい?餅何個ぶん?」
「山ほど餅が買えるお値段」
「げ」

見慣れないスーツ姿に、東はぼうぜんとした。胸の内に去来した感情をなんと言い表したらいいかわからない。腹の底が煮えるような感覚がした。一瞬、東に気が付いた春と視線がかみ合った。声をかけようか。これまでなら、東が声をかけなくて春の方から「勝負して」と挑みかかってきた。

「じゃあ、もう行かないと」

春が東からすっと視線を外す。そのことが、どうしようもなくショックだった。
あの目は、これまでずっと先に目をそらした方が負けと言わんばかりに、怖いくらいに東を睨みすえていたのに。これまではいかなるものだって存在しなかった自分と彼女の間に、分厚いカーテンがおろされたように感じていた。
まるで、それは酷い失恋でもしたかのように東を打ちのめした。

その時、初めて東春秋は自分の中に気づかぬうちに芽生えていた強烈なまでの彼女への思いの大きさを自覚した。

いつだって、目の前にあった苛烈な瞳は東を見ない。
恋に気づいた瞬間に、失恋していた。




***




お待たせしてすみません、と可愛い部下がやってくるのを唐沢は鷹揚に迎えた。さして待ってもいないよ、と軽く手をあげてみせる。ほっと安堵したように彼女は胸をなでおろした。その更に向こうに見える人物を視界の隅に捕えながら、少しだけ唐沢は笑った。

「唐沢さん?」

不可思議そうに可愛い部下は唐沢を見ながら首を傾げた。

「いや・・・・少し、可哀そうなことをしてしまったかなと」
「何のことかわかりませんが、可哀そうだと思ってその顔で笑うのはちょっとどうかと思いますが」
「おっと、それはいけない」

口元を片手で隠して見せる。痛いくらいの視線を感じる。眼の前から、ではない。やれやれと伏し目がちに呆れている部下は、普段は驚くほどに鋭いというのに、この視線にはまったく気づいていない。

(ああ、これはちょっと、東君に同情してしまうかな)

東春秋はボーダー上層部の信頼の厚い青年だ。いずれは幹部として席を同じくする日が来るのもそう遠い日ではない。老成し、達観し、俯瞰して物事を見れる逸材。だが、彼はまだ青い春の中にいるのだ。

「若いって素晴らしいなぁ」
「唐沢さんもまだ十分にお若いかと思います」
「ありがとう八嶋君。ラグビーをやっていたおかげかな」

唐沢は八嶋と仕事に戻った。
追いかけてくる視線の強さに、今度はきちんと笑いをかみ殺した。







back