35
「俺とほんとに結婚しようよ、春さん」
明日の天気でも話すように、太刀川が言った。
「俺にしときなって」
少し、首をかしげて見せる太刀川を真ん丸に目を見開いて春が、ぼうぜんとしている。
驚きのあまり口がうっすらと開いている。その唇を、太刀川の指先がそっとなぞってからかうように笑った。
「でも、」
「春さんの運命が俺じゃなくても、別にそれでいーじゃん。ほんとに運命ならさ、俺くらいの壁軽々乗り越えていっちゃうわけだろ?障害が多少あった方が燃えるって」
太刀川のとんでも理論に、一歩だけ春が後ろずさろうとしたけれど腰に腕をまわした太刀川がそれを許さない。ぐっと、逆に距離が近づいて零になった。
歌が聞こえた。
――"Speak now!!"
――"Don't say yes"
この結婚に異議のある者があれば、今すぐ申し出なさい。さもなくば永遠に沈黙なさい。教会の神父様だか牧師様だかの決まり口上。あの曲は明るいテンポだけれど、苦しい恋の叫びだ。私じゃない人を選ぶなんて嘘よね?一緒に逃げましょう!
別のメロディラインが流れる。
――君は僕の運命じゃない。
そうだ。運命が、この人じゃないと言っている。それなのに。
思い浮かぶ《青》の瞳以外を、選べる気がしないのだ。それだって、違うとわかっているのに。
***
「春さん」
名前を呼ぶ。当たり前のように、それが彼女の名前を形作っている。
大きな壁が春の横で、我が物顔にそびえたつようだった。守るように、奪うように。
運命なんて、その壁を前にしたら跳ね返されてしまうに違いない。
太刀川は、揺らがない。その強さを、誰よりも迅は知っていた。
春の耳元に太刀川が顔をよせて、何かを囁いた。
この先を、視たくなくて、迅は意識的に未来視を終了させた。
視えたのは真っ白な真っ白なウェディングドレスを纏った春と、似合わなくて笑ってしまいそうな太刀川の白のタキシード。何度、未来を視たってそこにある。つまるところ、これは実現性が限りなく高いのだ。
春が太刀川の手をとって、その手に輝く指輪がはめられて。
一度は視た未来を、二度は視るつもりがない。次に視るとしたら、それは現実において。祝福する拍手の練習をしておいたっていいくらいだ。
お似合いの二人だ。
まったくもってぴったりで、都合のいい展開。万々歳だ。迅は視えている未来を大いに推奨している。最善も最善。いくつかある、春の三門を去らざるを得ない未来なんかよりも何百倍もましだし、未来の実現は酷く簡単だ。わざわざ暗躍をするのだって、苦労は少ない。迅は忙しい。優秀な人材の確保だって大事だが、それ以外にも。視るべきものが山のようにあって、するべき暗躍も数えきれない。
迅はうんとひとつ背伸びをした。
***
「遠征前に全部片付けるから」
「・・・・・・」
風間は遠征の予定を確認しながら、横目で太刀川を見た。太刀川はとっくに資料を折り込んでいる。どうせ最後の確認サインを、内容を読みもしないままに署名してしまったに違いない。何度も読んだ、同じ内容の書類と誓約書。続く言葉の物騒さを、追いかけながら会話を続ける。
「間に合うのか」
開発室と何やらこそこそしているのは知っている。寺島が少し愚痴っていた。ばかばかしくて付き合ってらんないと呆れていた。一方で冬島あたりは完全に面白がっているらしい。企画立案が太刀川で、迅を出し抜くためだとかで情報をすべて開示しようとしない。断片的になる情報は、確かに未来を確定させないためには有効な手だ。
「よゆーよゆー。風間さんも頼んどいたこと用意しといてよ」
「普段からそれくらい真面目に講義にも取り組め」
形ばかりの苦言だと、太刀川は気にした素振りもない。
最後の一文まで読み終えると、署名の欄に風間は丁寧にペンを走らせた。慣れるほどに繰り返してきた作業だった。
「遺書の更新は」と確認をする。
「え、前のと同じでよくね?」
「毎回きちんと更新しろと言われているだろう・・・・」
「だって、同じことどうせ書くし」
遺書は、遠征におもむく隊員は必ず書くことが義務付けられている。真白い封筒を受け取る瞬間に、いつでも忍田は眉間にしわを寄せていた。
「いそがしーし」
にやり、と口元を吊り上げて太刀川が笑う。開発室に入り浸って無理難題を押し付けているのだと寺島から愚痴を聞いたばかりだった。とはいえ、その件には風間も絡んでいるので太刀川を咎めることもない。
「勝算は」
「見ててよ風間さん」
もったいぶって、ひと呼吸おく。声音からは確かな自信が溢れている。
「俺があいつの未来視覆すとこをさ」
既に何度も失敗してきたソレに、太刀川は挑戦することをやめない。勿論、風間も。
「覆すのはお前じゃなく――八嶋だろう」
「まぁ、そういう見方もある」
未来視持ちの予測する確率の高い最善の未来。そこからの逸脱した限りなく確率が低くリスクの高い最善かどうかもいいかねる未来。それを手繰り寄せる。
八嶋春は、いつでも想定外の場所にいる。イレギュラーの存在。
太刀川は書類を適当にたたむとポケットに押し込んだ。告げられた決行日は、あのブラックトリガーを奪取するべく動き出した時と同じであまりにも迅速にすぎる日どりだった。
書類の代わりにポケットから取り出された小さな箱を太刀川が得意げに見せびらかした。あまりにこれみよがしだから、無視しようとしたが結局風間は白旗をあげて「それは?」とわかりきっている答えの質問を口にした。
「俺の給料三か月分」
鼻歌まじりに、太刀川がその小さな箱を真上に放り投げてはキャッチした。
***
歌が最初に聞こえた日を最後に、迅と顔を合わせることが極端に減った。迅の方は、遠征に向けてあれこれと暗躍しているのだろうと風間が言っていた。遠征。これに関しては上層部と一度だけ話し合った。
未知の要素の多い近界において、春の能力は有用か否か。結局、トリオンに対しての相性の悪さを危惧する開発室長たる鬼怒田の意見で春は残留ということが決定した。
その場に、迅はいなかった。
B級のランク戦が終わったらしく、ボーダー内部もどことなく落ち着かないそわそわとした空気に包まれている。外部への転校が決まった幾人かのお別れ会が、あちこちで行われていた。そのリストを渡されて「問題がありそうな隊員がいたら報告するように」なんて言われたものだから驚いて手にしていた紅茶のカップを落っことしてしまうところだったくらいだ。恐る恐るこれはほんとに自分が絡んでいい事項なのかを確認した。リストを持ってきた唐沢は勿論、とにこやかに(といってもこの人の笑顔はたまに目が笑っていない)笑った。幾人かとのさりげない面談も組まれていたが、おおむね何か問題が視えるようなことは春にはなかった。
おそらく、迅もこれと同じようなことを任されているのだろう。
「ボーダーこわい・・・」
口癖みたいにつぶやいた。大人も、こどもも、みんな。この街で、笑って生活している人たちは、どこか狂っているのかもしれない。20代の隊員の少なさは、それを如実に表している。ここから、逃げようと思えれることは、いっそ正常なのだ。逃げる、という選択をこどもは極端におそれる。ひらかれた無限の未来のなかで、無邪気にも思える無敵感が10代のティーンエイジャーたちにはある。一方で、それを脱して《おとな》足りえる世界に足を踏み出そうとするはざかいの世代は幾分かの理性が、邪魔をする。冷静に見れば、ここに残るのは危険しかない。行きたくないと別れを惜しむこどもたちは、部活に励む学生たちとなんら変わらない。ため息をつくことすら躊躇われるような現実だ。
そんな魑魅魍魎じみた場所を絶妙なバランスで作り上げている上層部の手腕は見事のひとことだ。
「こないだのは役にたったかな?ほら、ああいうのをきっかけに、事態は割と進展したりするものだし」
「独身の人に言われましても」
「友人の相談に乗ってきた経験だよ」
「うまくいったら唐沢さんが仲人さんですね」
完全なる棒読みになった。
迅にはどんな未来が視えているのか。世界の崩壊を、春はもう夢に視ない。
春の手から、それはとっくに離れてしまっただけなのか。それならばいい。けれど。ただ、丸々全部、迅のところへ放り投げてしまっただけなのではないのかと時折悪夢にうなされる。自分の幸せなんて、別にもうじゅうぶんなのだ。恋愛だとか、ごっこ遊びのように焦がれてはいたけれど。それは自分の幸せを願ってくれた人たちの期待にこたえたかったというのが大きい。
「誰が誰とくっつくって、たまに視えるんですけど、自分のってそういう時でも視えないんですよね」
ボーダーでも、たまに視える時がある。おせっかいを働くなんてことはしない。基本的に、恋愛ごとというのは自然のなりゆきに任せて置いた方がうまくいくものだ。かみさまのお導き、なんていうと宗教じみているけれど。うまくいく二人というのは互いの縁のような糸がひっぱりあってするりと美しく結び合う。
むしろそれは弱みであり、そこに漬け込んでちょっとしたお願いをするくらいの悪用はしてきた。じ、っと唐沢を視るが残念なことに彼からはなにも視えなかった。
迅に、それが視えたことはなかった。いつでも、彼のまわりにそんなものよりももっと多くの因縁が絡みついていて、一つくらいは自分が変わりに背負えないだろうかといつだって泣きたいくらいに切なくなる。
自分なんぞの心配をしてもらう必要なんてこれっぽっちもない。ただ、ひたすらに。
「・・・・・・私なんかより、ユーイチ君がしあわせになってほしいんですよ」
偽らざる本音だ。だれでもいいから。とんでもなく彼を幸福で満たしてあげて欲しい。ソーイチのしていたサングラスが彼のおでこの少し上あたりを陣取っているのだって、時折胸がくしゃりと痛む。
「八嶋君がしあわせにしてあげては?」
「・・・・・・・私が入れ込む男は不幸になるって言われてるんですよね」
嫌なジンクスだ。ただし、人外のごときスペックを持つ保護者二人は除外される。
「実力派エリートでもダメかい?」
「リスクのある選択を、一ミリでもユーイチ君にさせるなんて論外すぎますね。私は訳アリ事故物件なんですよ」
「運命の人もいることだしね」
「・・・・・・・・ソウデスネ」
その夢すら、近頃は視なくなったのだとは口が裂けても言えない。
こうした自分の能力の曖昧さが、どうにも歯がゆい。確証がない。ただの夢だったのか、そうでないのか。
自分の精神状態の落ち着きと、能力の安定から、あれは自分自身の弱さをカバーするためのイマジナリーフレンドだったのではないかとすら思えてくる。実際それを言いわけにしてハリーを振っているわけだけれど、正直自分のことよりも迅だ。迅に幸せになって欲しい。
(すきだから、だいすきだから)
気づいた感情を瓶につめてふたをして、ラベルをつけて。それは誰かにあけっぴろげに見せるものではない。きっと誰にも言わないまま。深い海の底にでも投げ捨ててしまうべきものなのだ。
***
歌がきこえた。
ロマンチックで、情熱的な、未練たらしい恋の歌が。
違うメロディがまた聞こえた。最近はやっていた日本のバンドの曲だ。
ふたつのメロディの合間に荘厳なパイプオルガンがウェディングマーチを奏で始めて、酷い騒音にしかならない。三つのメロディが、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回すものだから、眩暈がした。
「最近、隙あらば太刀川さんにひっついてますよね」と出水が微妙な顔をしながら言った。思春期真っ盛りの彼としては、どうにも目の毒らしかった。あまりにも近い距離が。
「太刀川君のそばだけ音がしないんだよ・・・・もうむり・・・・・寝れない・・・・こんな煩かったことないくらい煩い・・・・・」
太刀川が煩いのはしょうがない。我慢できる。
最初は小さかったうえに、BGM程度だったから気にせずにいられたが、次第にボリュームがあがっていった。常時ゲームセンターのような騒音の中にいる状態になった時、完全に春は白旗をあげた。
これは、明確に異常事態だ。
「やっぱり私じゃない人にしておいた方がいいんじゃない?これはもう、やめとけってことなのでは・・・」
ちらり、と向かいの席で何やら端末をいじっている月見に視線を送る。変わってくれないだろうか、という思いが伝わったのか「春さん、一度引き受けたことを投げ出すなんてよくないと思わない?」と先手を打たれた。
出水と唯我がピンと姿勢をただしているのを、ゆるゆるとゲームをしながら国近が見て笑っていた。
「聞こえているのはその3曲なのね?」
「・・・・Yes」
「春さん、特に気にする必要もないと思うわ、タイトルには《詐称する人》って意味もあるわけだし、実際その通りでしょう?」
言われてみると大したことは無い気もするが。こうも煩く聞こえることは稀だから、なんだか途方もないことに向かっているのではないかという不安がやまない。
「何かあってからじゃ遅いし・・・」
「もうドレスやその他もろもろの手配はすんでしまっているんだから、今更変更なんてことになったら太刀川のおばさまが大変よ」
「そーそー、私も楽しみにしてるんだよ〜?」
女子二人にがっちりと両手を握られてしまう。ちらりと視線で男性陣に助けを求めてみたがさっと全員が視線をそらした。
太刀川がニマニマ笑っている。
「諦めなってば、俺の花嫁さん?」
第一、今更他の女にしますなんて、一体うちの子のどこが問題なんだと保護者が黙ってないのでは?と指摘されては春としても黙るほかない。
でも、結婚式の宣伝に花嫁とバージンロードを歩く父親役が二人いるのはおかしいのではないかという突っ込みは「イケメンに挟まれて嫌な気がする女はそんなにいない」という企画側の担当者の熱烈な説得によって流された。
全員顔は映り込まないとの話だけれど、イケメンの気配があるからとかなんとか。この企画はほんとに大丈夫なのか少し不安だ。
「当日はその髭そってくれるんだよね、私の花婿さん?」
「それはヤダ」
「なんで!せっかくの晴れ舞台なのに?!」
「春さん、それ髭差別だぞ。髭にだって権利がある」
「基本的人権三つも知らない人に権利を説かれた?!」
「知ってるって。食う寝る戦う、だろ?」
「月見ちゃんっ、月見ちゃんと私で新世紀W花嫁挙式にしない?!新郎なんていらんのですよ!」
「えー、春さん私を捨てるの〜?ちゅ〜までした仲なのに」と国近が茶々をいれた。
「私がむしろ辞退するから国近ちゃんと月見ちゃんにしよう、そうしよう!」
「あともう少し早く思いついてたら検討はしたんだけれど・・・・それに私たちオペは遠征前忙しいの」
「うううう、」
たたたたーん。
軽やかなピアノが、遠くで結婚行進曲を奏でている。その音色にまじって、誰かの泣いている声が聞こえた気がして耳を澄ませたけれど、そうやって聞こうとする時に限って帰ってくるのは静寂だけなのだ。
広報用結婚式の決行日は、もうすぐそこだった。
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