My Blue Heaven | ナノ
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Bottle3:Rye Whiskey


《 呪ってもない人間が不幸になる 》

赤井秀一に関わる人間は、不幸になる。
そう言っている連中がいることを赤井は知っている。
もっと正確に言えば赤井に関わる『女性』だ。
だが、ジョディしかり、宮野明美しかり、自分の周りにいる女性を自分の手で幸福にできたかといえば否だろう。
次に不幸にする女は誰だ?と口さがない連中が言っている。
連中が上げる名は大抵『春』だ。
次はあのお嬢ちゃんだろうと言う。それを聞いているであろう春本人は、今この瞬間にお前たちに不幸な気分にさせられてるんだよ、というような顔をして与えられた仕事をこなしていた。

「不幸じゃないよ、全然ハッピーだし!」

ちっとも不幸じゃない、という。だが、実際、赤井が不幸にした女性の筆頭にあがるのがこの子なのだ。未熟さから、手を離した先で、どんな目にあったか。ぞっとするような実験の数々が春の身体に痛ましい痕となって刻まれている。
それでも。あの子は言うのだ。
わたしはしあわせだ、と。

そうだな、と赤井はうなづく。連中は間違っている。
赤井秀一が、一番はじめに不幸にしたのは。

「お前が幸せ上手になってきて、安心した」
「ん?」

そっと春の頬をなぞる。
輪郭が、ここ数年でずっと大人びた。少し、丸みを帯びただろうか。頬っぺたをつねると、ぶすくれて抗議するのが何とも微笑ましくて少し笑ってしまった。






《 不愉快な縁 》

赤井秀一にとって、不愉快と感じることはそう多くない。かつては自分に向けられる敵意すらも許容したほどだ。

「大兄?どうかした?」

潜入捜査中、春は赤井をそう呼ぶ。赤井も彼女を妹の『光』と呼ぶ。

「・・・・またジンに会ったのか」

春の視線がぱっとそらされる。頬が赤く、はれ上がっている。きっと夜にはひどく痛むだろう。

「・・・・・・なんか、よく出くわしてしまうというか」

赤井が単独で動く時を狙っているわけでもないはずだが。拠点に、姿をふらりと現すあの男は、春をひどくぞんざいに扱う。会うのは避けるようにと言ってあるが、どうにもジンに縁があるらしい。
今回は先に春が気づいて逃げようとしたのを、気づかれて逃げようとしたことを理由に嬲られたのだという。理不尽な暴力に、それでも春はなんとか生き延びられる程度の受け身をとることしかしない。

「ちょっと触った時にね、視えたことがあって!」

ねぇ、役に立つかな?と顔を輝かせて言う。報告を受けながら、赤井はそっと内心で澱む感情を押し殺した。
役に立てるのが嬉しい、と笑う春の報告を後で聞くからと制して頬に氷嚢をあてる。少し痛みが和らぐのか、へらりと春が表情を緩めた。







《 活動時間 》

「その子どうしたの?シュウ」

チームの一人は首を傾げた。赤井秀一はデスクワークをしかめ面でこなしているが、その体制にこそ顔をしかめたかった。
八嶋春。赤井秀一のおまけでくっついてまわる、不可思議な言動の多い存在だ。FBIでは知らぬものがいない。
ソファに座る赤井の膝に頭をのせて、腹の方に顔を向けた状態でぴくりとも動かない。

「ちょうどいい、コーヒーを入れてきてくれないか」
「・・・・・いいけど。むしろ、変わろうか?」

器用に、赤井は片方の眉を動かす。

「いや、問題ない。もうじき起きる」

髪をそっと撫でる赤井の指先はどこまでも穏やかだ。あらゆる獲物を仕留めるシルバーブレット。銀の弾丸と畏れられる、名スナイパーの指先が、ひたすらに甘やかすように動いている。

「甘やかしすぎるとよくないって言うけど・・・」
「これくらいは別に普通だろう」
「普通・・・?」

普通か?これが。

「そうそう」別の声が割って入った。ジョディ・スターリングはこの二人とも付き合いが長い。

「プリンセスみたいに大事に抱えて仮眠室に運んでないものね」
「それはこないだ嫌がられたな」
「恥ずかしいって言ってたわよ」
「何がだ?」
「お姫様抱っこがでしょ」

活動限界でも来たかのように、春はぴくりとも動かない。

「いつまでそうやって懐いてくれるかしらね〜」

いたずらっぽくジョディが言う。
疲れ切った獣の仔が、身体を丸めて身を守るようにして眠るのを眺めて、赤井は小さくため息をついた。春が、きちんと『人間の女の子』じみてくる日が来ればいい。それまでは、いくらでも守ってやるつもりだ。
頬をそっと撫で、乱れた髪の一筋をどけてやった。








《 美しい笑み 》

女の笑顔というものは、赤井を時折凍り付かせる。
強く、美しい、彼女らの笑みは、どんな弾丸よりも確かに、鮮やかに脳裏に撃ち込まれる。
赤井秀一に女性の好みを聞いた勇者は勿論、比類なき名探偵である。彼にはかつて、赤井の宿敵(と赤井が思っているかどうかはさておき相手はそう思っているのでそう呼称しておく)にも直球で「彼女いるの?」と聞いた猛者である。
「赤井さんの好みってどんな人?」とごくありふれた男同士の雑談だ。久方ぶりの日本で、再会を祝いながら進んだ酒の量も関係してか、珍しく赤井も真面目にその問いについて考えた。

「そうだな、」

バーのカウンターでこちらも珍しく米花町に戻ってきていた春が赤井の隣の席でご機嫌に酔いつぶれて眠っている。
少し赤く染まった頬がカウンターの上にべったりとくっついている。

「とりあえず、平和な寝顔の相手がいい」

求めるのは美しい笑みではなく、ただひたすらに平和で、幸せそうな顔で眠りこける顔。そんなものがいい。

「・・・・・・それは、聞いてよかったやつ?」

新一がまずいことを聞いたのではないか?という顔になる。赤井と春を、そういう風な意味で見たことはこれまでに一度もなかったのだ。

「なにがだ?坊や」
「・・・・・・・あーあ。これだから食えない大人ってのは」
「好ましいと思う相手の話だろう」
「まぁね」

それこそ女優の母ゆずりの美しい顔で、新一は呆れたように笑った。








《 こっちにおいで 》

手を伸ばしたのはどちらが先だったか。
春はそれを覚えていないというけれど、赤井は確かに覚えていた。

妹と、一つ違いの、赤の他人である少女をアメリカへと連れだした日のことを鮮明に思い出すことができる。尊敬する父の学生時代の友人だという人の娘である彼女は、薄暗い日本家屋の隅でいつでも膝をかかえていた。こわいものがいる。膝に額をつけて、足をかかえてうずくまる。かわいそうな子供だった。
彼女の父は年に数えるほどしかこの家にはいない。英国人である赤井が隣の空き家を貸し出されて、借りの住処にしたのはほんの一時期のことだ。
赤井に預けられ、出かけたときに偶然でくわした事件で、彼女はまるで見てきたかのように犯人を名指しした。周りはだれも子供の言葉だと信じない。誰もが責めるように「そんなことを言うものじゃない」と言う。失礼なことを言ったことを謝りなさい、と。
彼女はこみ上げる涙をにじませながら、それでも口を開かない。なんて強情な子かしらね、と野次馬が囁く。傷ついたような色が瞳に宿る。それでも、彼女はぐっと口を閉じたままだ。
「貴方がお兄さん?きちんと謝罪させなさい」
赤井に矛先が向かった瞬間に、びくりと、少女は肩を震わせた。うつむいて、じっと自分の足元を見つめている。裾が短くなりそうな着古したワンピースの上に羽織ったコートをぎゅっと力をこめて握りしめている。
「春がいうなら、そうなんでしょう」
同情ではない、とは言い切れない。可哀そうで、などという感情で自分が動くことがあるとは思わなかった。――犯人は春の主張する人物である、その情報を否定せずに一情報、証言として扱う。すべて、事件を終えてしまえば確かに犯人は春の言う通りの人物だった。推理を披露した帰り道、ちょこちょこと赤井の後ろをついてくる春に「どんな推理をしたんだ」と問いかける。ぴたり、と足を止めた彼女はじっと赤井を見つめていた。
「なぜ犯人がわかったんだ?」
唇をかみしめるようにしてから「あなたの推理どうりだった」と答える。
「それは質問の答えになってないな」
「・・・・・」
苦し気に、眉をよせて「変なこといって、めいわくをかけて、ごめんなさい」と絞り出すように言う。それも違う。赤井が知りたいことではないし、それは少しも事実をとらえていない。
「シュウさん」
春は当時、赤井のことをそう呼んでいた。シュウ、と春の父がそう彼を呼んでいたのだ。
それでも名前を口に出すのはめったになかった。あの、だとか、すみませんが、だとか。子供らしからぬ遠慮がちな声かけが主だった。
名前を呼ばれて、足を止める。立ち尽くす少女がじっと自分を見つめている。
視線を合わせるように膝をおってやるべきかと思ったが、やめた。観察する。答えは観察からはひとつも導き出せないが。

「どうせ・・・・・・どうせ、言ってもしんじない」
「どうかな」

その時、確かに赤井は手を差し出した。帰ろう、と。
どうしてそんなことを自分がしたのか、らしくないとは思った。

「しんじないよ」
「嘘なら真実を暴いてみるのも面白そうだ」

寒さに小さな手が、震えている。その手を強引に握って歩く。

「・・・・・・シュウさんは、こうきしんでみをほろぼすタイプ?」
「難しい言葉を知っているな」
「本で読んだ」
「賢い子だな君は」

単純に思ったことを口にすると、子どもは顔をまっかにしてもじもじと口をへの字から違う形にして何といえばいいのかと思い悩んでいる。利発な子だ。どうしてこんな子をああも空気のように扱うのか恩人の行動としては腑に落ちない。

「みえただけ」
「見えた?」
「シュウさん、さがしてた腕時計は黒い服のポケット」

赤井は目を見開いた。今日は腕時計をしていない。出かけに見当たらなかったからだ。

「みえたから。大事なものならなくさないようにしないと」

帰り道はあっという間だった。別れ際、玄関に続く石畳の途中で春が振り返った。

「しんじてくれて、ありがと」

それだけ言って、少女は引き戸を開けて家の中に入っていった。
隣家に戻り、言われた黒い服を探す。昨日来ていた服だ。その間に確かに探していた腕時計が転がっていた。
昨日来ていた服を見たから?そこから推理をしたということか。
――みたから。
その言葉の、本当の所の意味を、赤井が知るのはそれからそう時間がたたないうちだった。

みえる、ことの意味を次第に赤井はきちんと理解した。
誰も聞いていない、聞いたとしても誰もとりあわない。唯一彼女の祖母だけは彼女が何かを言うたびにひどく叱りつけているようだった。彼女の祖母は春が根拠のない何かを言うたびに家の外に春を締め出してお仕置きをするのだという。古い藤棚の下で、冬の雨をしのぐようにしているのを見つけ、赤井は眉をひそめた。赤井の母は厳しい人だが、理不尽な人ではない。教育の域を明らかに逸脱していた。

「何がみえた?」

赤井が、隣家の竹塀ごしに声をかけた。ちらりとこちらを見たけれど、彼女はすぐに足をかかえて揺り椅子を揺らすだけの作業に戻ってしまう。口をきけば、叱られるからだ。

「春」

赤井はもう一度名前をよんだ。ゆらゆら、揺れていた揺り椅子が動きをとめて、足を片方だけついた状態で春がそっと肩越しに振り向いた。赤井は、そっと手を伸ばした。

「何が視えたのか、教えてくれ」

赤井の手と、固く鍵の閉められた母屋を何度も交互に春は見た。
春、と呼ぶ。その声に、春が恐る恐る竹塀に近づいて来る。傷ついた野生の小動物のように、警戒心むき出しの少女はそれでもまだ、祖母の叱責を恐れている。

「・・・・おばあちゃんに、叱られる」
「俺は知りたい」
「でも、どうせしんじない」
「聞いて、どうするかを決めるのは俺だ。だから君は叱られない。もし叱られそうになったら、俺が一緒にいる。信じるよ、君を」

ふいに背後の引き戸が開く。春の祖母が赤井に目もくれず春をにらみ付けている。蒼白になった春が引き返そうとする。

「春――おいで」

目がまん丸に見開かれてこぼれ落ちそうだった。一瞬、躊躇ったけれど、赤井が差し出した手に、すがるように春が飛びついた。塀ごしに抱え上げて、隣家の庭に引っ張り込む。春が転がりながら赤井の腕の中に飛び込んだ。
おいで、と手を伸ばした理由はわからない。自分にしては、かなり珍しい衝動だった。
それでも。
あの日、あの場所から、この子を連れ出したことが間違いだったとだけは、赤井は一度も思わない。それから幾つもの季節が巡った。


「秀兄!大学が決まったよ!!」

笑顔で報告する、春の頭をそっとなでて「よくやったな」と褒めた。
そうだった。
思い出す。先の手を伸ばしたのは。
確かに自分だったのだ。






《 魂は箸休め 》

「大学が決まった!なんとか!どうにか!」

春は安堵したように報告した。幾つもの大学にうっかり不合格になり続けていたから、内心焦っているようだったので、赤井は勿論祝福した。聞くと、合格した大学は、都内から幾分離れた場所になるらしい。少しばかり田舎で、けれどその地名は赤井も勿論知っていた。

「三門市か・・・降谷くんのおすすめか?」
「あー、公安の人にプッシュは確かにされたなー」

あはは、と笑っているが随分と難儀な土地の大学を合格してしまったものだ。まだ始まってもいない大学生活を赤井はわずかばかりに憂慮した。
都内は事件に巻き込まれがちだから受けない。大学の4年間は最高に女子大生ライフを満喫するのだと意気込んでの連戦連敗の受験生活を間近で見ていただけに水を差すのは憚られた。

「新一くんの事件発生フィールドから離れた方がいいかなと思って」という春に新一が「人のこと言えないでしょ春さんは」と突っ込んだ。帝丹高校の制服を着た二人はどちらもよくよく面倒ごとに巻き込まれる。

「遠いと援護がないから不安じゃない?春さん」
「・・・・普通の大学生ライフに援護が必要な時っていつ?」
「構内で殺人事件が起きたりとか」
「普通じゃないよソレ。やばいやつだよ」
「爆弾魔からの挑戦状が・・・」
「・・・・・・新一君、しっかりしろ、それはダメなやつだ!普通って、あれでしょ、バイトしたり友達と遊園地いったり、ええと、あと、合コンしたり?課題徹夜でこなしたりとか!」
「遊園地の別名知ってます?事件発生スポットってーんですよ春さん」
「それ新一くんだけだから!」
「春さんもでしょ。ほら、こないだアメリカの移動遊園地でピエロに追いまわされた事件。あれは俺が巻き込まれた側だったし」
「う、おもいだしたくない・・・・」

否定しきれなくなって春がむぐぐ、と口をつぐんだ。してやったりとばかりに新一がにんまり笑う。

「春さんが合コン相手で来たら相手は大変だろーな」
「どういう意味かな新一君?!」
「赤井さんと降谷さん見て育った人と合コンってハードル高いし」
「新一君みたいなスーパースターも毎日見てるしね!」
「は?オレも?てか春さんの相手になっただけで公安に身辺調査されそう・・・」
「さすがにそこまでは・・・・しない、でしょ・・・しない・・・よね?」

新一はにんまり笑みを深めた。

「盗聴器とか」
「それはもう通常装備だから仕方ないかな」
「えぇ・・・そこ諦めちゃうのかよ」
「諦めが肝心な時もある・・・」

高校生二人は、巨大な組織を潰したコアメンバーだが、そんな素振りも見せずに当たり前に高校生をやっている。赤井はくわえたばこの火を消した。







《 対価はいらない 》


「わたし、きっときっと役に立つようにするから」

そうじゃない。そうじゃないはずだった。
が、結果的にはそういう風に自分は、彼女に思い込ませてしまった。

役に立つから、連れていてもらえる。
役に立つから、傍においてもらえる。

部屋の隅で小さくなっているこどもに、もっとできることがあるのだと教えてやりたいと、ただ、もっと明るいところで、胸をはって歩けばいいのだと。
そう伝えたかったのだ。

仕事がひとつ終わるたびに、誇らしげに期待に満ちた目が赤井に向けられる。
そっと頭を撫でて、それだけで彼女はほっと胸をなでおろしはにかむのだ。
また一つ、役に立てたと安堵するように。また少し、これで傍にいさせてもらえるとばかりに。
それが当たり前になってしまったことに気が付いたときには、もう手遅れだった。
一度構築されてしまった関係は、容易に変化できない。
ずるずると続いていた、依存ともいうべき関係を、それでも赤井はつづけていた。変わらずに。それだけを彼女が願ったから。そうあるべきだろうと、最終的には判断したのだ。
変化は、外からやってくるものだ。だから。

赤井はそれが、公安であり降谷たちだと思った。
一度築き上げたものが全てゼロになった状態で、新しく選んだ場所。同じことの繰り返しになる恐れもあったけれど、赤井より降谷は春に甘くない。
悪くない結果になった、と思っていた。

「・・・・・でも、ほんとにいいのかなぁ」

大学入学を間近に控えたころ、ぼんやりと春がつぶやいた。面倒な日本のお役所が象徴する書類手続きは降谷の指導によってびしばしとこなしていた。それがひと段落し、引っ越しの手はずも整ってあとはもうあちらに向かうだけになって、急にできた時間に赤井が滞在しているホテルにひょっこりやってきた。

「せめて、やっぱり都内とかにしておけば・・・・」
「都内の大学は全部だめだったろう」
「うぐ、情けない・・・・」

学力的に、というわけではない。試験日に事件が入ったり、風邪をひいたり。凡ミスでマークシートを全部一列ずらして書いてしまったり。とにかく不幸な偶然だ。
各所にあるコネを使えばどこかにねじこめなくはないだろうが、こと進学については真面目に取り組むことを決めているらしく、一般的な受験生として春は粉骨砕身していた。
三門市。確かにアクセスは悪くないとはいえ、かなり遠い。

「面白そうな土地柄だ」
「そうなんだけども」
「悪いわけがない」

赤井は断言する。

「どこに行ったっていいんだよ、お前は」
「・・・・・・」

伝わらないものだな、と赤井は苦笑する。ぐしゃり、と春の頭を撫でた。







《 慰めよりも向いている 》

昔から、慰めを必要としない子だった。
スコッチが死んだ時、あの子は酷く打ちのめされた。初恋だったのだ、と。ぽたりと大粒の涙が一粒だけ白い頬を伝ってこぼれるのを赤井は見ていた。
差し出した一杯のスコッチを春は勢いよく煽った。まだ酒に耐性のないこどもに、与えるべきものではないとわかっていたけれど、はつこいを無残な形でうしなった不器用で臆病なこの子に、慰めのことばを与えられるほど、まともな恋を赤井自身していない。
潜入捜査で、女を口説き、そのために付き合っていた女を振った。そんな自分が何を言えるものか。
泣くときは、静かに泣く子だった。大声で泣けば叱られる。それが身に沁みすぎていた。容赦なく与えられる祖母の叱責が、いまだにこの子を縛り付けている。
こぼれるような嗚咽が、胸の内に抱え込んでようやく聞こえる。これでもまだ、ましになった方ではあった。
案の定、酒は勢いよく回ったらしく春はぐてりと意識をおとした。
腕の中で、抱きかかえて。赤井は残った酒を飲みほした。







《 計算ずくサンド 》

大学の入学式。
緊張と不安で、目が回りそうになっていた春は、式を終えて幾人かの学生たちの流れに身を任せ帰路についた。ざわざわと、誰もが新しい門出に足取りが軽い。人込みで、何度か誰かにぶつかった。触れるたびにヒヤリとする。何か視えてしまわないか。近頃はめっきり能力は落ち着きを見せ始めていて、むしろ減退しているのではと思うほどだ。
それはそれで困る。自分の価値は、何よりもそこに依存するのだから。
「八嶋さん、このあとどうする?」
話しかけてくれた親切そうな女子生徒に、どぎまぎする。普通っぽい。どう答えるのが正解だろうか。
無遠慮に、肩を組んでくる男子生徒にはどう答えるべきか。悩んでいると、人垣の向こうから色めいた声があがった。

「あれ、誰だろ」
「かっこいい!」
「保護者?ええ〜そんな歳じゃないでしょ、誰かの兄とか?」
「兄〜?にしては厳つくない?堅気じゃなさそう・・・」

浮かれた空気に、周囲にいた学生たちもなんだなんだとそちらに向かう。背が低い春が、人垣の合間からひょいと覗き込む。

「え」

変な声が出た。なんでここにいるんだ。

「春」と二人分の声が呼ぶ。学生たちは一斉に誰が呼ばれた相手かをきょろきょろと探し始める。とんでもないイケメン(ただし絶妙に堅気ではない空気の)二人が、待ち構える相手なのだ「よっぽどの美人に違いない」という期待感が溢れている。
ジーザス、と小さくつぶやく。神を信じてはいないが、やはりこういう時にはこの言葉が付いて出てしまう。
このままこっそり撤退してしまいたかったが、そんな弱腰を許してくれる二人ではない。鷹の目の男は、さっそく春を補足した。目が、かすかに細められ早く来いと明確に言っている。次いで隣のイケメンスーツもこちらに気が付いた。笑顔が3割増した。震え上がった春は「ごめん迎えが来てた!」と詫びて、集団から抜け出した。

「な、なななんでここに?!え、仕事は?あの、それより目立ち方がすごい!」

二人の手を右と左でひっつかみ、校門を抜ける。

「春の目でたい門出だ、祝いにかけつけるに決まってるだろう」と降谷が言う。

「奇遇にも校門前でばったりでくわしてね」と赤井。

恐ろしいバッティングである。
直ぐ近くまで歩くと、車が止めてある。運転席から降りてきたのは風見だ。中々に顔いろがよくない。降谷さん時間が、と申し訳なさげに告げた。

「風見!写真!」
「あ、ハイ。了解です」

近頃では珍しくも、入学式の日に咲いていた桜の花が風にふかれて雨のように散っている。入学の記念にと写真をとろうと降谷が言う。

「おい、赤井・・・・お前まではいれとは言ってない」
「時間がないんじゃないのか降谷くん?」
「あー、ちょっと、私を挟んで喧嘩はしないでくーだーさーい!私、今日、主役!ですよね?え?違った?」

風見が苦笑する。撮りますよと、彼はスマホを構えた。勿論、春のものだ。
真ん中に春が、右に赤井が、左に降谷が立つ。「撮ります」とそっけなく風見が写真のボタンを押した。

「ちゃんと撮れてるか?」
スマホを受け取り確認する。問題なく、珍しいスリーショットが写っていた。これは中々にレアな一枚だ。ついでに風見のネクタイをひっぱってかがませると内カメラでツーショットも記念とばかりに撮影した。ばっちりです、と風見に礼を言うと、どこか哀れむような顔をされた。

「風見さん?」
「明日から大変だとは思うが強く生きるように。人の噂も七十五日というし」
「・・・・」

翌日からしばらく女子生徒に質問攻めにされ、なぜか男子生徒には遠巻きにされた。普通の学生生活かコレ?と首をひねる。アイドルのマネージャーにでもなった気分だ。
彼氏?家族?どういう関係?何の仕事してる人?
あらゆる質問をあいまいに濁して逃げ回って、ようやく75日をやり過ごしたが完全に最初のおともだちグループづくりめいたものには失敗した。
風見が何度か心配して連絡をくれた。あの人は常識人なので、二人の入学式襲来にひどく同情的だった。

「そりゃ、私も嬉しかったですけど。こっそりとか、もうちょっと地味な変装するとかできなかったんですかね?」

『・・・・・・・そうだな』

電話の向こうで、わりに長い沈黙があった。
風見は「それはお前におかしな害虫をつけないための計画された威嚇であり、二人とも別行動はできたはずだが結果的に揃って迎えに行った方が効果があがると見越していた」とは口が裂けても言わない。自由に、明るく楽しい、大学生活を送ってほしいが、変な虫は許さんぞと言う保護者二人を、風見が止められるはずもないのだ。

『友人はできたか』
「あ、それはなんとか?」

なんとか春はやっている。恐る恐るではあるし、抱えている一般人には言えない秘密も多々あるが。それなりに楽しめているのではないかと思っている。

「楽しいです、大学生活」
『降谷さんにはそう報告しておく』
「私、直接そっちにも連絡とってますよ?」
『第三者による報告はまた別だろう』
「え、これって裏を取られてます?!」
『黙秘』
「ええええ、いや、ちゃんと率直に報告してますってば」

多少、あの二人には見栄をはった報告をしなかったこともないのだが。

『あの二人は秋の学祭も襲撃間違いないぞ』と風見は伝えるだけ伝えて、スマホをきった。
春は今から訪れる騒ぎを思って頭を抱えた。








《 吊り橋をゆらして渡る 》

自分の価値をこれでもかというほど、あの子は低く見積もる。
それは彼女の物心つくまでの生育環境に起因するもので、深く根を張っている。
自分は恵まれている、と彼女は言う。
衣食住に困ったことはなく、酷い暴力を与えられたわけでもない。多少しつけが他所に比べると行き過ぎていたかもしれないが、それだって命に係わるほどのこともない、と。
命にはかかわらない。だが、心の成長はひどく阻害されていた。
だれも、自分を望んでいない。生まれてきたことを祝福されていない。
そうではない、とどれほど赤井が伝えても。届かない。根深く、残る澱み。
吊り橋をゆらして渡る。
この吊り橋が落ちてしまっても構わないのだと、少しの躊躇いもない。
だれもが怯む吊り橋も、大丈夫私が行こうと飛び出していく。臆病で、怖がりのくせに。吊り橋をゆらして、落ちないことを確かめると「だいじょうぶ!渡れそう!」と役に立ててうれしいと笑うのだ。
そんなことをしなくていい、自分の命を投げ出すような真似をするなと言い聞かせても、わかったという振りばかりがうまくなる。
役に立てば、居場所がある。
あの子に思い込ませてしまったのが自分であるのは明白で、だからこそ揺れる吊り橋の端をつかんで落ちないように見ていることくらいしかできずにいた。ゆらゆら、橋を揺らしている。その瞬間だけ、あの子は自分の命を見つめている。

「俺としては、」

未成年者の前だ。赤井は吸っていた煙草を握りつぶした。

「あの子が橋を渡りたくないと思える相手を選んでほしかったんだが」
「はい?」

迅悠一はお世辞にも理想通りとはいいがたい相手だった。一緒に橋を揺らして、揺らして。二人がそれぞれ、別の危機を察知しては回避するために走り出す。

それでも。一人で、谷底に落ちるような生き方よりは、幾分かましなのだろう。
緊張でかちこちになっている春はぎゅっと、隣に座る迅の手を握りしめていて、赤井は肩をすくめた。

「降谷くんにはもう報告を?」
「・・・・・・これから」

春が戦々恐々とばかりにつぶやいた。赤井よりも、あちらの方がよほど難敵であることを思い出したらしい。

「まぁ、一発は覚悟しておいた方がいいかもしれんだろうな」

親切心で忠告を口にした。春がぎょっとしたように顔色を変える一方で、横にいる青年はまぁ仕方ないかな?とばかりに頬を撫でさすっている。

「ひえっ、そんな、昭和みたいな?!平成通りこして今や、れ、令和だよ令和!はっ、そうだ!ユーイチ君、トリ、」
「トリオン体でごまかすと怒りを買うから一発ですまなくなるよ春さん」
「うぇっ?!一発は確定してるの?!視えてる?!いやいやダメだってば未来変えていこう?!」
「一発くらいなら、まぁ」
「よくないよ!細く見えるからって甘くみたらダメだよ?!零さんの一撃はほんとにしゃれにならない威力だからね?!」
「数々の犯人たちを地面に沈めてきた猛者だからな」
「そうなったら私も林藤さんに一発もらいにいくから!!」
「いやいや、ボスやんないって」
「じゃあ、城戸司令」
「ますます無いって」
「零さんの一発がなかったら私の一発も無くなるからって説得しよう」
「春さんに一発いれるようなとこに嫁にはやらん!って言われないソレ?」

赤井はふっと笑いをこぼした。二人して、吊り橋を揺らしている。

「降谷くんを言いくるめる必殺技を伝授しようか?」
「そんなのありましったっけ?!」
「『バージンロード一緒に歩くの秀兄にしか頼まないんだからね!』とでも春が言えば一撃だ」

ただし、赤井を抹殺する方向に彼は動き出すかもしれないが。少なくとも標的は花婿からそらされる。

「ばばばばば、ば、?!」
「それやると益々おれ嫌われません?」
春は目を回している。

右手は恐れおののいて口元に当てている癖に、左は迅の手をぎゅっと握りしめて離さない。
吊り橋を、二人で揺らして。
きっと谷底に落ちるときだって、この男の手を離さないだろう。
そういう相手を、見つけることを願っていた。願っていたけれど、それでも複雑ではある。自分が全てだったこどもが、完全に手から離れていくことに一抹の寂しさがないとは赤井とていわない。

「可愛い妹を攫って行く男だ、嫌われないわけがないだろう?」

とにかく、降谷ほどに露骨にやるつもりはないけれど、意地の悪いことのひとつや二つ、言うくらいは赤井にだって許されるはずだ。







 
《 本当は幸せな君 》

数か月前のことだ。
三門市からめっきり出てくることがなくなった春が、珍しくも唐突にアメリカの赤井のフラットへと顔をだした。以前はこの部屋で、春もよく過ごしていたから彼女の荷物がまだそこかしこにある。必要なものを時折郵送してくれと頼まれるから、少しずつ減ってはいるけれど、それでもまだ手ブラでやってきて問題ないくらいには荷物がある。
彼女はお気に入りのクッションを抱えてソファの上に足をあげて丸くなっている。
赤井はいつも通り煙草に火をつけた。一瞬それに春がぴくりと反応したけれど、ここは赤井の部屋なのだ。開きかけた口が閉じて、またクッションに懐いた。
数年前から禁煙派に鞍替えしてしまったので、春のテリトリーからは灰皿が全撤去されて久しい。

「一本ちょうだい」

強請るように手が伸びてくる。赤井は片方の眉を器用にあげた。
それから少しだけ口元を吊り上げて小さく笑うと、春はむっとしたように口を尖らせた。

「禁煙派に乗り換えたんじゃなかったのか?」
「・・・・・・この銘柄、古いやつじゃない?昔吸ってたやつ」

春の言う通り、今吸っているのは古い銘柄だ。今はもう売っていない。吸っていたのは、もうずいぶんと昔――日本で潜入捜査をしていたころだ。

「昔の資料を片付けていたら出てきてな」
「珍しくもちょっと甘いよね匂いが」

赤井は一本だけ分けてやる。顔を近づけて、火をうつす。

「あのね、」

言い出しかねているのを、根気よく待ってやる。口を開いて、閉じて、視線があちこちにうろついて。百面相する春に、ふっと煙草の煙をふきかけた。

「煙い」

揺れていた視線が、真正面に戻ってくる。じとり、と文句を言われてまた赤井は肩をすくめた。
その流れで勢いがついたのか、春はそのまま続けた。

「・・・・・・・どうしたらいいか、わかんなくて」
「ん?」

なるほど、あの少年もとい青年ともう呼ぶべきか――はかなり頑張ったらしい。戸惑いに揺れ、その先をまた言えなくなってしまった春の頭を撫でてやる。
それからおもむろに傍にあった愛用のバッグを手繰り寄せて見せる。春はきょとんと首を傾げた。

「ショットガンの用意なら万全だぞ?」
「は?──ッち、ちちち違うよ?!」

It's not a shotgun wedding!!
悲鳴のように春が叫んだ。なんだ違うのか?と揶揄するように口の端を赤井はあげた。
ショットガンウェディング、とはアメリカで妊娠してからする結婚をさすものだ。こどものできた娘と、いつまでたっても責任をとる気配のない男に対して父親がショットガンをつきつけて結婚を迫る、というものだ。
できちゃったからどうしよう――という相談ならば赤井とてショットガンを相手に突き付けることに躊躇ないはない。ショットガンでもライフルでも。銃ならばお手の物だ。

「降谷くんには報告したか?彼はあれで古風で頑固なところがあるからな・・・一発ですむかどうか・・・・」
「だから違うってば!できてない!ノーショットガン!」
「違うのか?」

言いずらそうにしているからてっきり。

「プロポーズされたの!!!」

ぜいぜいと、叫んで肩を揺らしている。顔が真っ赤だ。

「なるほど?」
「なる、ほど?え、あの、だから、その、」

プロポーズされた。そして、この子はその足でアメリカまで逃げてきたらしい。だって、でも、どうしよう。そればかりを繰り返している。

「ショットガンがいるのはお前の方か?」

春を腕の中に抱き込んだ。その背中を何度も撫でてやる。小さかった子供が、それなりに大きくなった。痩せた鶏のようだった子供だった。
かすかに震えている。昔から、この子は幸せになるのが下手な子どもだった。

「春」

名前を呼ぶ。
何度も、繰り返し。
この子に、手をさし伸ばし、あの薄暗い庭から連れ出してもう何年になるのか。

「春」

呼ぶたびに、春が頷いた。髪が、赤井の首元をくすぐる。

「――おめでとう」

Noなんて、言うはずもないことを誰よりも春を知っている赤井はわかっていた。








《 黒より似合う色がある 》

「秀兄」

照れたように春がほほ笑む。
まとったドレスの袖をいじりながらもじもじと赤井の反応を伺っている。この衣装を身にまとった姿を見るのは実は初めてではない。新郎には内緒にしておくべきだろうが、最初の時は彼も見ていたので問題ない。そのあと幾度か。囮捜査や仮装などで見てきた姿だが、そのどれよりも今日の姿は輝いている。当然だ、何せ今度ばかりは『ほんもの』の花嫁衣裳なのだから。
目が痛くなるほどに、真白いドレスがよくよく似合っていた。
黒よりよほど似合うその色を纏って、幸せになればいい。
春を挟んだ隣には幾分が不機嫌そうな、降谷零が前を見据えて立っている。視線の先には、ゆるやかな食えない笑みを浮かべた青年。春が思っているよりも、彼は存外執着心が強く、焼餅焼きであることを赤井は知っている。

黒より似合う色を見つけた春に、そっと手を差し出す。
「よく似合っている」
そっと告げると、ベール越しでも表情がぱっと明るくなるのがわかった。
春の左に立つ赤井が左手を、右に立つ降谷が右手を、それぞれとる。刺繍のほどこされた真白いオペラグローブがそっと重ねられた。緊張で、少し硬くなっている手をそっと握りしめた。

「もう少しにこやかにしたらどうだ降谷くん」
軽口をたたいてみせると、降谷はふんっと鼻をならす。それを真ん中で聞いている春が、こらえきれないとばかりに小さく肩を揺らして笑った。
「時間だ」と時計を確認して、扉の前に一歩近づく。ゆっくりと、扉が開いた先にはまっすぐに祭壇に向かって赤いびろうどの絨毯が伸びている。教会のパイプオルガンが定番の曲を厳かに演奏している。
結婚行進曲。タ、タ、タ、ターン。奏でられるメロディーに、背中を押されるように、赤井と降谷にエスコートされ純白のドレスに身を包んだ春は一歩を踏み出した。






" They lived happily ever after "――?





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