32
久しぶりにランチでも、と誘われていた太刀川の母である寿子から、あわてた様子で電話があった。寿子の働く職場まで来てほしいと言われて春は大急ぎでかけつけた。 ハリー・クラインの来日の一件からというもの、本部では針の筵だったからむしろ好都合でさえあった。この話はまだ寿子までにはいっていないはずである。
「あのね、春ちゃん、花嫁さんって興味ある?」
寿子はニコリと笑って開口一番そう言った。この人は結構にマイペースだ。なんといっても太刀川慶の母なのである。つい最近熱烈なプロポーズを断ったばかりですとはもちろん口が裂けても言わない。そしてその後も嫌がらせのように定期的に熱烈なラブコールが贈られているが、それだって言わないでおいた。直視したくない現実からは目をそらしておくに限る。大学卒業が近づくにつれてきっとヒートアップしていくに違いない。それを考えるだけでも胃が痛い。運命なんてものは早々と見つからないから運命なのだ。
「はい?」
とりあえず口にしたそれは「どういう意味ですか?」という意味でいったのに「はい」ってことは興味あるってことね!助かるわ!と意図的に空気を読まずに寿子が言い切った。いや待って。待って。つい最近未来のファーストレディーになるのをすげなく振ったばかりなのだ。色恋沙汰は正直しばらくはこりごりだった。とにかく、自分はもう心に決めた人がいるわけで。
春は茫然としている場合じゃないぞ、と脳みそをフル回転させた。
「寿子さん?」
「うちの式場のパンフレットとか新しくすることになったのよ。そのモデルさんに春ちゃんどうかしらって」
寿子の職場である結婚式場は、警戒区域とほど近い。ちいさなチャペルの隣にある式場だ。小さいけれど古いチャペルはクラシカルな外観と、美しいステンドグラスが美しく、三門の知る人ぞ知る観光スポットだ。ここで式をあげると幸せになれる、なんていうまことしやかな噂があって人気だったと、以前人づてに聞いたこともあった。
「ボーダーの人だと何かあった時に安心でしょう?」と三門市民クオリティの発言が飛び出した。人気『だった』。過去形になってしまっているのは、式場が警戒区域に近すぎることが原因だった。
ゲートが発生すればすぐさまに避難命令が出てしまう。一生に一度の晴れの日に、リスクを冒す人間は少いので、自然と客足が減ってしまっているのが現状らしい。三門市民は、慶事を少しばかり遠い場所でとり行うのがここ数年の流れらしい。その状況の打開策に、ボーダーとの提携を組んでやっていくことを検討したらしい。なるほど、とりあえずは《真似ごと》であることは理解できて一息ついた。
「あの、これって上の方には、」
「勿論、了承はもらってるのよ。ほら、広報の担当の方に」
根付に根回しが住んでいるのなら問題ないのは間違いない。が、それにしてもな人選ではある。もっと見栄えのいい人間がよいのではないかと言いたい。例えば嵐山隊。ボーダーの広報、ボーダーの顔といえば彼らではないのか。嵐山に白のタキシード、木虎にウェディングドレス。完璧である。が、彼らには確か一定数のファンがついているはずなので、ファン心理をおもんばかる、ということなのかもしれない。
「お願いね春ちゃん」
にっこり笑顔の寿子さんに、春はめっきり弱かった。ひきつり笑いを浮かべていたが否やの声は出せなかった。
「新郎役はうちの慶なのよ!」
新郎姿の太刀川慶を思い浮かべようとしたけれど、真っ黒な隊服姿が邪魔をして「白、似合わなさすぎでは・・・・?」という失礼千万な言葉を何とかごくりと飲み込んだ。
***
この人は案外流されやすいタイプである、というのはもう十分すぎるくらいに太刀川は知っていた。特に一度懐に近づけてしまうともうだめだった。甘い。誰かの頼みというものをこの人が断る姿はおよそ見たことがなかった。流されるがままだ。あのアメリカ人がそういうところに盛大に漬け込むタイプであるのは明らかで、こちらが遠慮していたらあっというまにさらわれていく、という状態は確かに迅がこれまで繰り返してきた懸念通りともいえた。上層部は忍田をのぞくとずいぶんと神妙な顔つきになっていたので、結構な大問題なのだろう。が、これについては太刀川が頭を悩ますところではない。
とはいえ。
まったく都合のいいタイミングで、都合のいいイベントが発生したものだとうっすら笑った。
迅に未来がどう視えているのかを具体的に知っている人間はいない。だが視覚によっているものだということは確かだった。そこさえ押さえておけば、やるべきことは簡単だ。
「春さん、今夜俺夜間シフトなんだよね」
ラウンジの隅っこにいた春を見つけると太刀川は声をかけた。人目に付きにくい隅っこを、春はいつでも愛用している。観葉植物の影でパソコンに向き合っている横に我がもの顔で太刀川は座り込んだ。ちらりと除いたパソコンの画面は太刀川には読めない文字が躍っている。
「へー」
「冷た!」
「風邪ひかないようにね」
「トリオン体は風邪ひかないけどな」
「街、壊しすぎないようにね」
「耳が痛い。春さん、今夜本部いる?」
「・・・いると思うけど?」
春が首をかしげる。
「今晩、流星群が近いんだってさ。国近たちが騒いでたけど、春さんもそういうの好き?」
残念ながら国近はその手のことにあまり興味はないが女子高生一般におきかえて受け止めたらしい春は深く疑問を抱くことはなかったらしい。女の子って好きだよねぇとしみじみ言った後で、私も嫌いじゃないよ、と付け加えた。
「天体観測って映画館と一緒で真っ暗で落ち着くし」
「暗いのがいいわけ?」
「うん。好き」
にっこりと笑う顔をじっと見て、太刀川はひっそりとため息を心の中でついて、迅に手を合わせた。これは手に負えない。
過保護に守られてきたぶん、隙だらけにすぎた。この人に本気の初恋をしてしまったとしたら、男心はたまったものじゃないだろう。
「なんならとっておきの観測スポット連れてってやろっか?」
「夜間シフトなんでしょ」
「春さん一人くらいなら抱えてやれるって」
「そういう油断をすると痛い目みるからダメ」
「・・・・・・そこはきびしいんだよなぁ」
「なに?あんまり無茶しちゃだめだよ?こないだだって、課題で徹夜続きだったのにシフトいれてランク戦して・・・・・寿子さん心配してたよ?顔出さないって」
「便りがないのは元気ってことだ」
「生意気言ってるなぁ」
「こないだまで俺の部屋占領してた人に言われても」
春の下宿がとあるトラブルで住めない間、どういう経緯だか太刀川の実家に身を寄せていた。短い期間で、すぐに春は次の住処を決めて出て行ったけれど、その際に暮らしていたのは太刀川家の一人息子の部屋だったのだ。こんな娘が欲しかったのよね、という太刀川の母の暴走であることは間違いない。
「もうちゃんと太刀川君の部屋になってるって」
「慶君ってもう呼んでくんねーの?」
からかいまじりの太刀川に、春がむっとした顔になる。わずかにとがらせた唇には、つい先日帰り道に買っていたばかりのリップがぬられている。ちょうど太刀川はその時一緒にいた。
「春さん、リップぬりすぎじゃね?」
「こういうもんでしょ」
「なんでそういうの女子は好きなんだろな。べちゃっとしててキスするの男は嫌がんない?」
「キスの予定がないからなんとも。ていうか、唇の保湿と『あ、可愛い色だな』という乙女心の満足感が目的でしょ。そこは男性側が黙ってにこやかに我慢するとこだよ太刀川君」
「それどこ情報?」
「雑誌。でもベトベトなのヤダっていう男性もいるので注意とかなんとかってのものってたなぁ」
「だろーな」
「そういえば降谷さんも口紅で痕つけてくる女性には困らされてた。太刀川君にはその心配なさそうでよかったね」
「いっとくけど俺はモテル」
「知ってる」
春は太刀川に向き合って笑った。
「男前は困っちゃうね?」
「俺は俺の花嫁さん一筋だけど?」
「・・・・・・それさぁ、ほんとにやるの?今からでも他の子に頼んだ方かよくない?好きな子とか。」
「春さんに頼んでるじゃん」
「寿子さんがね」
「母親ってイダイだよな〜」
春がまったく何をこいつは言ってるんだ、という顔をした。それから太刀川には聞き取れないいくつかの言葉をこぼしていた。おそらくは英語で何か愚痴っていたのだろうけれど。春は基本的には英語圏での生活が長いせいか、とっさのときやこぼすような本音はたいてい日本語よりも英語が口をついて出るようだった。
「けど、やっぱり濃いかなこの色」
「俺に聞いてる?」
「一般的な意見を広く募集中」
「春さんはもうちょい色薄い方が似合うよ」
「・・・・・」
「自分で聞いといて絶句すんの酷くね?」
「太刀川君に無自覚たらしの素質があったとは・・・・」
「なに?たらされたの」
「ぐわあああ、腹立つ!その顔腹立つ!!言っておくけれども、降谷さんだったら百億万倍スタイリッシュだから!」
「たとえば?」
「にっこり笑顔でキスして『ほらこれくらいがちょうどいい』ってやってるところを見たことがある」
ただし、そのあとべたべたになった唇を無表情でぬぐってるところも見たことある。そうだった。あんまりこういうのをあの人は嫌いだったと続けてぼやいていた。思い出すとそわそわしてきたらしい。春はできうる限りにおいて降谷に褒めてほしいなぁ、という欲求があるのを隠さない。本人に自覚があまりないようだけれど、割合あからさまだ。
「ちょっと、化粧室行くからそこどいて」
「春さん」
「なに?」
呼ばれて、隣に座る太刀川の顔を見上げる。
「・・・・なにしてるのかな?」
「キスしてってことかと思って?」
太刀川の顔がすぐ目の前にある。
今にも触れそうなほどに近くまで来ていた顔を両手できっちりホールドしてなんとかギリギリのところで止まっている。
「そういうのは『ただしイケメンに限る!』って但し書きがあるから!いやイケメンでもダメかな?ううーん。」
「俺の顔だめ?」
春に熱烈なアピールをしていたアメリカ人を思い出す。これぞ美形のお手本とでもいいたくなるような人間だった。あれを振るなんて・・・と女子隊員の一部がため息をついていたのを太刀川ですら何度か見かけた。
「いや、ダメとかそういうあれじゃなくてね・・・・彼女にしなよ、そういうのは」
「浮気しないタイプの旦那さんだよ俺」
「あー、はいはいわかったわかった。そうだったねダーリン」
からかわれていると気が付いたのか、春はむっとした顔になってそれから自棄になったように太刀川に顔を寄せた。
頬に、軽くキスをする。海外じゃよくある。親愛のキスだ。それでも少しはリップも落ちて、腕をつっぱねて距離をとるとやっぱり頬に少しばかり痕が付いていた。肩をすくめてそれを春は指先でぬぐってやった。
「これでちょうど良くなった?マイディア」
「春さんさぁ・・・・」
「なに。これくらい、あっちじゃ挨拶程度だからね」
さすがにこれはやりすぎたな、と太刀川は両手をあげて降参のポーズをした。にしても、この人はほんとうに、と頭をかかえたくもなる。迅がかわいそうだな、と思いつつ、まぁ多少はあいつも翻弄されとくべきか、と太刀川は勝手に落としどころをみつけた。春曰く、未来のアメリカ大統領候補すら袖にするような人なのだ。
「春さんって、ほんと困った人だよな。そんなんだから国近にチューされるんだぞ?」
「な?!なななな何言って、いや、それはこっちの台詞だよ?!あ、あのチューはノーカン!ノーカンだよ!?」
「人生を狂わせる女って感じ」
「いきなり酷いよね?!」
「怖いわー」
「だから何っ?」
「今晩、星見る?」
「太刀川君がわからない・・・もう、デートはよそでやんなよ」
「結婚式前にはロマンチックデートとかしとく方がいいだろ?まいはにー」
「はいはい、わかった!そのネタでからかいたいのか!たち悪いなぁもう」
「デートする?」
「するする。うわー、楽しみだなー。ロマンチックデートかー。ところでそれって降谷さんの完璧エスコートデートよりも素敵になる?」
「・・・・・ハードルあげるね」
「私に恋愛は難しいんだってば。そういえば昨日のテレビでやってた恋愛映画で星空の下で、プロポーズってのやってたなー。ベタだよね」
「指輪とか渡して?」
「そうそう」
「春さんアクション映画専門じゃねーの?」
「私はだいたい何でも見る」
「ふーん。バラの花束とかやっぱいる?」
「なんか会話にとっても疲れてきたな・・・・」
「仮眠室まで運んでやろっか?」
「お姫様抱っこで、とか言わないよね?」
「ハニーのお望みなら」
「ぜったいやだ!」
「冗談冗談」
「・・・・・・太刀川君って読めないよなぁ。戦闘マニアなのに、戦闘バカじゃないし。これって何かの作戦だったりする?私あんまりそういうの読み取るの得意じゃないからちゃんと説明しといてくんないと困るんだけど」
「褒めてる?」
作戦はあるが、そこを説明してやる気がないので話を別の方向にふっていく。赤井や降谷の意図ならともかく、と言っているあたりがまた罪作りな話だ。
「褒めてるよ。わたし、太刀川君のこと褒めるとこしかなくて困るなってたまに思うからね」
「愛されてるなー俺」
「はいはい。そーだねマイハート」
「英語ってすげーね。まだあんの?そういう呼びかけ」
「あっちは基本的にフルオープンでいちゃいちゃだよ」
「他は?」
「 Sweetie 」
「甘い?」
「Goodboy」
「・・・・・今の前、近所の犬に言ってたよな春さん」
昔、近所のおばさんが飼っていた大きなレトリバーに似てる、と言って春は笑った。
「You are the best thing that ever happened to me!」
「まって、今換装するから待って」
トリオン体は大変便利なことに幾つかの言語は翻訳してくれる機能付きである。
「すぐそうやってトリオン体に頼るのよくないリスニングちゃんとしなよ?」
「必要ないもん」
「・・・・・よくない、よくないよ教育的に!」
「今のもっかい言って」
「あ、ほんとに換装するし。私用で使うの厳禁だよ」
「このまま夜間シフトまでいるから問題ない」
「・・・・・しょうがないなあ」
「さっきのはー?」
「あ、呼び出しだ。開発室行かなきゃ」
端末に届いたメールは寺島からだ。新型トリガーがある程度形になりつつある中で、今回は迅に頼んで模擬戦を行うことになっていた。
「新型トリガー?」
「内緒」
「まいはにー?ダーリンすごく気になるんですけど」
「そのうち度肝ぬいてあげるからおとなしく待っててベイビー」
「そのうち?」
「そのうち」
太刀川は立ち上がって仕方なく春をソファから解放した。
「じゃあ、おとなしく待ってるけど」
「ASAP!」
パソコンを鞄にしまい込んだ春は、にっこり笑った。自信ありげに、挑戦的に。こういう顔もよくないよなぁ、と太刀川は心の中でひとりごちた。風間の顔が瞬間的に浮かんだけれど、だいたい全部春が悪いと太刀川は思っている。
「夜のデートまでには終わらせてよ春さん」
「はいはい」
腰をわずかにかがめて、太刀川の頬に顔をよせる。軽い二度目のリップキスを送ると笑いながらひらりと手を振って、研究室に春は向かっていった。
「いやー、ほんっと酷い女に惚れたよな迅って」
一人ごちた太刀川のつぶやきを聞いた人間はいなかった。
しかし、ひどい女なのだが頗るかわいい人なのだ。そこがずるいんだよな、と太刀川は肩をすくめて自分の隊室へと向かった。
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