26.9
いくつかの書類の書き方を教えてほしいのだと告げると、あからさまにその人は目を見開いた。
「なぜ、その相談をわたしに?」
根付栄三氏は、非常に優秀な人だ。と、春は心から思っている。なぜ彼か。それは、とてもシンプルで、よく似た人と重ねたからだ。彼は優秀だが、更にとんでもなく優秀な人々と一緒に働いているせいで気苦労が絶えないのは一目でわかった。風見と似ているなと思ったのだ。降谷のすぐそばで、生真面目なまでに仕事に取り組む姿が。
彼らとて、優秀な人なのではあるけれど、とんでもなく高い壁を知っていて尚も、きちんと自分の役割を見つけこなす姿勢は春にとっての未来の指針のひとつだった。自分にできることを。たとえばもしも、何の能力がなくなったとしても。
「ユーイチ君にばれない相手が良くて・・・根付さんなら、私は嵐山隊のファンなのでその話だって思ってもらえるのが好都合ってこともあるというか」
「なるほど」
根付は合理的かつ納得のいく理由に満足してくれたようだった。ほっと春は胸をなでおろす。
「ばれて困ることとは思えませんがねぇ?」
「・・・・・確定事項ってことでもないので、その、」
「私の時間を不確定事項につかわせてるんですか」
眉根をよせられてしまって、しまったと春は自分の言葉選びのまずさに嘆息した。嘘をつくのがうまい、と唐沢には褒められたが、ちっともそんなことはないのだ。誰かのためにつくなら簡単だ。自分のことをごまかすための嘘は心苦しくて、簡単にぼろが出てしまう。
「・・・・・八嶋君は、どこまでやるんですか」
「はい?」
「この馬鹿げた潜入捜査です」
「潜入捜査?」
「・・・・・違うんですか?」
困惑の表情も、まだ根付には作ったような仮面に見えてしまう。一度根付いている疑惑の芽はそう簡単に摘み取れない。
彼女は根付の言葉に怒ることなく、出来うる限り冷静に何か言葉を選ぼうとしているように見えた。
「潜入捜査で、ここまではしません」
崩れるような笑みだった。
だが、いくつかの紙切れは、しょせんただの形式に過ぎない。
「やれる人がすぐそばにいたんでは?」
言われた相手に心当たりがあったのか、彼女はぐっと黙り込んだ。それから、意を決したように口を開いた。
「潜入捜査でもぐりこむために、近づいた女性にうっかり本気の恋をしちゃった人も、傍にいたんで」
今度は根付が目を丸くした。
「トップシークレットですよこれ」と彼女は息をひそめて言う。
「君は、秘密が多い」
「―― A secret makes a woman woman」
「・・・・・」
「って言ってた人もいました」
「・・・・・・・・・この間の秘密はいくらで売ったんですか」
「え?この間?」
「ガロプラの侵攻の少し前に、廊下で電話していたでしょう」
どうしても気になっていたことだった。いつのことか、言われてもピンとこない様子なのがまたどうにも苛々した。端末をいじって履歴を確認してから、ようやく彼女は何を刺していたのかに思い至っていた。
「あの、それならほんと大したことじゃないですよソレ?あー、相手は新一くんでしたし、情報っていっても、ボーダーのじゃないし」
疑惑の目が晴れないことに、困ったように矢継ぎ早に彼女は言葉をつづけた。
「公安に締め出しくらったらしくて、それで降谷さんの弱み教えてくれって頼まれて・・・・。高くつくよって、言うのはまぁ、言葉の綾です。冗談というか」
疑われてもまぁ仕方ないかもしれない発言でしたね、と頭をかいている。
「・・・・・・・」
まだ根付の疑念は晴れない。それでも一応は「まぎらわしい発言は控えてください」と妥協した。少なくとも今、自分は彼女の秘密の一端を担っているわけで。
「もしも君が情報を漏らしたら、この会談の内容を暴露することにします」
「・・・・・・・・まぁ、根付さんがそれで安心するんならいいんですけど」
「とても安心ですし、もっと安心は多いほうがいいんですけどねぇ。唐沢さんが入れ込む子たちは揃いも揃って・・・・私の計画は破綻しっぱなしです」
深いため息がこぼれた。彼女はすぐに根付の言う相手のことが思い至ったらしい。「三雲君には負けます」なんて言っている。どっちもどっちだと思った。まったくもって、計算を狂わせてくれる。
「嵐山君が城戸派に鞍替えする裏工作をしませんか」
「悪事の片棒担いでたら安心ですもんね・・・でも、城戸派になっちゃう嵐山君って解釈違いなんで無理ですし、根付さんだっていやでしょう?」
「・・・・・・・・・・・まぁ、確かに」
こればかりはぐうの音も出ないほどに納得した。彼女は根付の理想の広報部隊の在り方についてしっかりと理解してくれていることは疑いようもない。
そこから全く当初持ち掛けられた相談ごととは全く関係のない嵐山隊広報展開についての熱い議論は唐沢がひょっこり「仲がいいですね」とやってきてついでに親睦を深めるのにこのままスポーツバーでラグビーの試合をライブビューイングで応援に行きませんか?と言い出すまで続いた。ライブビューイングは勿論丁重にお断りした。
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S級作戦室に戻ると、迅がそこに待ち構えていた。根付のところに言っていた理由はばれていないはずだが、なんだか少しだけそわそわした。能力関係ならともかくそれ以外で自分の隠し事をするのに慣れていなかった。これまで、隠す必要もないような長い付き合いと狭い人間関係の中だけで生きていたせいだ。
「こないだはありがとう春さん」と迅が先に口を開いてくれたおかげでほっとしていた。
「いやいや、お仕事だから」
何にしても、迅にも読み逃すことはあるのだと実感したのはいい経験だった。そもそも春はガロプラの侵攻の方ではまったく感知していなかったのだから。自分たちの能力がうまくかみ合った結果、内通者の幾人かをまとめて片付けることができた。少しは自分への懐疑も薄まっていたらいいとは思う。楽観的ではあるけれど。
「ガロプラに気を取られすぎてたからさ」
「私が役に立てて良かったよ。これで少しは内部もすっきりだ」
「少しは、ね」
含みをもたせて迅が言う。春は心得たようにかすかに笑った。テーブルの上に無造作に置かれた三門銘菓の山を見た。
「全部片づけちゃったほうが良かった?」
「んー、春さんはどう思う?」
迅の座るソファの向かい側のソファにどっかりと腰をおろした。少し働きすぎたなぁ、と目頭を少しだけおさえた。
資料は床の上だ。迅に透視能力はないはずなので問題ない。
「ある程度は泳がせといたらいいんじゃない?それに、ここに潜入捜査とかできる段階でかーなり優秀な人なんだろうし、使えるものは使わないと。そこらへんは上層部の腕の見せ所でしょう〜。ボーダーって情報部はないよねぇ?」
「兼任だよ。でもそれ会議で口に出さない方がいいよ。「じゃあ言い出した君がやれ」って押し付けられるから」
「わー、目に浮かぶ。次の会議には呼ばれるかな?」
「春さん次第だよ」
迅はテーブルの上の菓子をひとつとった。ひょいと宙に放っては手元でキャッチする。それを何度も繰り返す。
「私?呼ばれたらどこにだっていくよ?」
迅が困ったように笑った。包装用紙を剥がして、パクリと菓子にかぶりつく。春も同じように菓子に手を伸ばした。せっかく一つ事件が片付いたのに、どうにも頭痛がやまないから甘いものが欲しくなったのだ。
「春さんは呼ばれるとどこにだって飛んでっちゃうからなぁ」
糸の切れた凧みたいだ、と言われて春はごくんと菓子を飲み込んだ。上品な和菓子の甘みが喉に残っている。
「あまい・・・・」
「紅茶がいい?それともコーヒー?」
そのどちらでもなく、今は――、
「ぼんちで塩気が欲しいかな?」
「・・・・・・・・・・」
迅は少し目を見張った。この人、無意識でこういうことを言うんだよなあ、と。紅茶の国でもコーヒーの国でもなくて、ぼんちのある国を選んでくれるような気をもたせるのだから。本人にそんな気はまったくないのだろうけれど。
「あ、こないだ食べ損ねたけどユーイチくんのお手製鍋も食べたい」
一方で春の方は、そういう幸せなイメージをしていないと、くらくらとめまいに飲み込まれそうだった。それを気取られて心配させたくないと必死にいつもどおりにふるまおうとした。それがうまくいっていたのかは、わからないが。
「そんなので良かったらいつでもいいよ」
「わーい」
「ほんと、お疲れ様」
改めて迅が言うと「ユーイチくんもね」と春は頭痛をこらえて何とか笑った。
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