Bottle1:Scoch
01.揺れない吊り橋はじめて彼に出会ったのはまだ私が中学生の頃だった。
私は、彼の名前を知らない。
たぶん、向こうも私の名前を知らない。いや、もしかしたら知っているかもしれないけれど、彼が私を呼ぶときはいつでも「ちびちゃん」だったから本当のところはわからない。もはや確かめることはできないのだ。
私はかれにちびちゃんと呼ばれることがとてつもなく不服であった。ひたすらに子ども扱いされることに強烈な反発を覚えるのは、中学生という思春期まっさかりでは致し方ないことだったと今なら思う。子ども扱いしないでと、必死に訴える様はさぞかし『ちびちゃん』な反応に映っただろう。彼は、私よりもずっと大人だった。無邪気な子供みたいに笑う人だったけれど、それでもやはり大人だったのだ。
彼と――《スコッチ》というコードネームを持つ男と出会ったのは中学生の頃で。
私がまだまだチビで、どうしようもない小娘だった頃で。危ない吊り橋を渡るみたいな任務でも、少しも怖くなかった若さゆえの向こう見ずさがあった頃で。
そして、私が高校に上がる頃、彼は死んだ。
わたしは未だに彼の名前を知らない。
02.悪い男悪い男につかまるなよ、と言われたから「じゃあスコッチが捕まえておいてよ」と生意気なことを私は言い返した。
「ちびちゃんはませてるな」とスコッチは自分の顎ヒゲを片手で撫ぜた。
「もう中学生だし」とすまして答えた。そういうところがガキだったのだと、今ならわかるが当時の私は精一杯背伸びして、大好きな三人に追いつこうと必死だった。
スコッチと、バーボンと、ライと。
「そもそも悪い男の定義は?」と質問したら、男三人が顔を見合わせてから「俺達みたいな、だ」と声をそろえた。
「じゃあ、もう手遅れだ」と私は三人にとびついてハグした。
03.危険と背中合わせその日はどうにもついてなかった。ライを探してうろちょろしていた私は銀髪のロンゲ――ジンに目をつけられた。仲良し二人組らしく、がたいのいいウォッカも一緒だ。そこに珍しくベルモットがいた。
「あら、アンバーじゃない」
と、ベルモットに絡まれたらもう逃げれない。『アンバー』というのは『ライ』というコードネームを得た諸星大(これは赤井秀一の偽名だった)の妹である私に与えられたコードネームだ。中学生も組織にいれるなんてどうかしている。私よりも小さい子も研究者として働いていて、コードネームを持っているらしい。そちらは期待の新鋭らしいが。それはさておいて、これは後で三人に大目玉をくらうなと目の前の危険から逃避する頭が考える。
なんとか回避できないかと無い知恵を絞ったけれど結局、私は三人(こちらは私にとっては最悪の三人である)の行きつけらしいバーに引きずって行かれ、未成年だから飲めないというのに、吐くほど飲まされた。私はこの人たちに飲まされた分は『お酒を飲んだ』ことにはカウントしていない。
いつか、大人になったら正しく三人が、私の大好きな三人がそれぞれおすすめのお酒を教えてくれることになっているのだ。
ジンによって口の中につっこまれる液体を私はうまく消化できずに、更にはそれが空きっ腹であったこともあいまって、頭はぐらぐらに揺れ、地面があっというまに近づいた。
真っ黒なコートに吐いた私を、堅い革靴が蹴りあげた。お腹にクリティカルヒット。五臓六腑にしみわたる。私は更に吐いた。痛い。気持ち悪い。これがお酒なんて思わない。私はまだ正しいお酒を飲んでない。これは毒だ。ベルモットがかろうじてとりなしてくれて、もっと早くに戻って来てくれよ何だよ化粧室にちょっとって。これだから大人の女とかいうイキモノはめんどうなんだ。すっぴんで勝負してるこっちを見習ってくれ。
毒が回る。
ゴミ捨て場に置き去りにされて、ベルモットのせめてもの優しさなのか携帯からひっきりなしにライの声がしていた。
「ちびちゃん!」
一番最初に私を見つけてくれたのはスコッチで、私をお姫様みたいに抱きかかえてくれた。吐いたし、ゴミ捨て場にいたから結構臭ったはずだけれど、そんなこと微塵も気にせずに。
04.このまま強くも弱くもなれない《アンバー》というコードネームを聞いたら酒じゃないのかよ、と思う人がいるかもしれない。そういう人はこの組織にかなり詳しい情報通だ。胸をはろう。黒ずくめで酒が好きなこの組織に置いて、私はライのおまけにすぎない。
ちょっぴり特殊な能力がある、とうっすらぼかして、両親を亡くし兄しかいない可哀そうな妹役だから仕方ない。
けれどまるきりお酒に関係がない名前と言うわけでもない。実はちょっぴりこのコードネームだけは気に入っている。
《ウィスキーキャット》というものをご存じだろうか。
ウイスキーやビールの原料である大麦は鼠や鳥の餌となるため、製造元では常にこれらの害獣の駆除が大きな課題になる。駆除剤などは大麦の香りを損ない製品の品質に影響を与えるため用いることができず、古くから猫が害獣駆除のために飼育されてきた。これらの猫はウイスキーキャットと呼ばれ、実用の必要性以上にマスコットとして大切にされてきた――とウィキ先生は言っている。
つまりかつて、猫はウィスキーの守護者だったのだ。
ウィスキーキャットの中で最も有名なイギリスの女王陛下と同じ誕生日の《タウザー》は最も多くの鼠を捕まえたことでギネスにものっている。その孫猫の二匹のうち一匹がアンバーというのだ。仕事をするよりもマスコットとして扱われることの多かったウィスキーキャット。
ライ、バーボン、スコッチはいずれもウィスキーの名だ。
そして、その三人にくっついているおまけのマスコットな私にお似合いの名だ。
人と異なる力を持つ私は、思春期を迎えてますます強まる能力に振り回されていた。振り回されて、結局から回る。組織以外の、FBIの協力ではうまくいくのに、組織が絡むと途端に私はぽんこつになる。10回に1回ヒットすればいい方なんてサイアクだ。
私は『ちびちゃん』で『おまけ』で『マスコットなウィスキーキャット』で。
もっともっと役に立ちたいのに、ちっともうまくいかない。
そして、結局私は私の大好きなウィスキーを守りきれない、駄目なウィスキーキャットだった。
05.一途だけが辿りつく夢を見る。
優しい夢だ。どこまでも幸せで、幸せすぎて窒息してしまいそうなほどの。
息をするのも躊躇うほどの。
『――傍にいてくれたらいい』
夢の中のだれかが私をぎゅうと抱きしめる。役立たずな私を。
少しも役に立てない子供の私を。
ただの夢か、それとも遠い未来なのか。
遠い日の未来を夢に見た。
私の未来の旦那様の顔を朝、目を覚ますと忘れてしまう。唇におとされた優しいキスの感触だけを覚えている。
スコッチにキスをしたら「俺を犯罪者にしないでくれ・・・」と頭を抱えられた。
「私、スコッチが好きなのにな・・・でも、違うの」
「何がだ?」
秘密を打ち明ける私に、スコッチは優しく笑って聞いてくれた。額をこつんとあわせて。相手の瞳に自分がうつっている。
「キスが」
キスが違う。この人じゃなかった。未来の旦那様はこの人じゃない。
「キスでわかるのか?」
私はこくんと頷いた。来るのかもわからない未来を、私はこの人と迎えたいと思ったからキスをしたのに。
「しなきゃ良かった」
こんなに好きなのに。違うなんてあんまりだ。しなきゃよかった。そしたら、この人かもしれないと夢を見ていられたのに。
「・・・・スコッチだったらよかったのに」
「俺じゃないんだろ?」
頷いた。
「ライは?」
違う。首を振る。
「まさかバーボン?」
違う。
「おいおい全部試したのかよ」
「だって、違いがあるのかわかるには、してみなくちゃわからない」
「・・・無鉄砲なんだよなぁそういうとこ。おにーさんは心配だ」
ぽんぽんと大きな手が背中を優しく撫でてくれる。
「会えるといいな、ソイツに」
会えるんだろうか。今、こんなにも、三人のことが大好きで、他に誰かがいるなんて少しも思えないのに。
06.壊れ物じゃありません「アンバー、何ふてくされてる」と、私に声をかけてくれたのはバーボンだ。年齢不詳の童顔男、というと怒られるので言わないが、高校生ですと言われても信じれる。見た目が若くて自分に近いイメージなせいか、ライにも黙っていたことをぽろりと言ってしまった。
「スコッチに振られて傷心中なんです」
バーボンはたっぷり一分沈黙した。それから唸るように、
「・・・言っておくが、スコッチがOKをしたら通報する」と言った。真面目か。
「こんな怪しげな組織にいて?いまさらじゃないですか?」
「お前、自分をいくつだと思ってる」
「・・・・はやくおとなになりたい」
「こどもはこどもらしく、してなさい」
敬語とくずれた言葉が混じるのは、私に対してどうあるべきかがイマイチつかみかねているせいらしい。
「子供って無謀なことが好きなんです」
「大人の分別を覚えたいんじゃなかったのか」
「そういうとこが大人の狡さなのはわかりました」
バーボンが私の頭を撫でた。どうにも私の頭は撫でるのにちょうどいい高さらしい。ライも、スコッチもよく撫でる。けれど、多分一番おそるおそる、まるで壊れ物でも触るみたいにそっと撫でるのはバーボンだ。繊細で、優しい。
「はやく大人になるから、待っててくださいねバーボンも」
バーボンは困ったように笑っただけだった。
優しくて狡い大人だけど、バーボンは誠実な人だった。だって、彼は私とひとつも約束はしなかったのだ。破ることになるかもしれない約束を、彼はしない。
そこが優しいけれど、だからこそ少し酷いスコッチと違うところだなと思った。
07.1と0の間で1と0の間みたいな場所に私たちはいた。
1が、自分で、0が自分じゃないものとしたら、自分であって自分じゃないものでいた場所がその間だ。
私は八嶋春だ。
けれど“そこ”では八嶋春ではない。
私は《アンバー》で、私は《諸星大の妹》だった。
彼は誰だったんだろう。
《スコッチ》じゃない彼を、私は知らない。それでも。
わたしは彼が大好きだった。頭を撫でて、喧嘩ばかりのライとバーボンの仲裁を二人でして、ギターを教えてくれたり、おいしいと噂の屋台でラーメンをこっそり二人で食べたりして。
私は彼を知らないけれど、彼を知っている。
いつか全部終わったら、そしたら。
――おとなになったら、美味しい酒を教えてやるよ。
1と0に間。
1が生なら、0は死だ。
生と死の間で、危険と隣り合わせだった私は、それでもいつかの約束を信じていた。
08.嫌い嫌いじゃ生ぬるいばか、嘘つき、髭、おっちょこちょい。
嫌い。
大っ嫌い。
・・・・嘘。好きだった。わたしは彼が大好きだった。
でも、約束をやぶる所が本当に本当に嫌いだった。果されない約束を、抱えて立ち尽くした私が、彼に恨み言を言うくらい、きっと彼はすまなさそうに笑って許してくれるだろう。だって、だって約束をやぶったんだから。
めったにそんなことはしないのに、バーボンが、わたしに約束をくれた日のことを覚えている。
「お前のことを、二度と『ちびちゃん』とは呼ばない。約束する」
バーボンと初めてした約束だった。
09.嘘がつける瞳早く大人になりたいと、ことあるごとに私は言っていた。大人になる、の定義が私にとっては三人と肩を並べて働けるようになることだった。
だから、正直学校なんてどうでもよかった。
行ってもうまく馴染めない。学校の勉強は大半が通信教育だ。その課題を解いていたら、大げさにスコッチが文句をいった。曰く、学校で面白おかしい青春時代を過ごさずしてどうする、である。体育会系のいいそうなセリフに私は半目だ。
スコッチとバーボンは切磋琢磨した学生時代を時折話してくれる。それを聞いていると確かに楽しそうだけれど、実際に行くとなると面倒なことがありすぎて億劫だ。見えすぎる日はついうっかり幽霊と気づかずに会話してしまうし、それを見られてしまうともう学校中に変人扱いである。
「いつかさ、能力落ち着いたらちゃんと行けって」
「落ち着いたらって・・・落ち着かなかったら?」
「思春期が一番能力的には高くなるんだろ?」とどこで勉強してきたんだかわからない知識をスコッチが披露してくれた。それは自分が定期的に通うイギリスのラボでも言われていることではある。
「大学とか。20すぎればただの人って言うしな」
それは天才とかの話で、私にそれがあてはまるかなんてわからないだろうに。
「だいがく〜?」
「ゆるふわ女子大生の服とか買ってやるから」
「ゆるふわ?」
「ちびちゃん、制服か黒のTシャツにジーンズスタイルは女の子としてどうかと俺は思う」
そういう組織なんですがソレは。
「合コンとか行ったりしてな〜。そしたら俺たち三人で尾行してチェックしてやるって」
「保護者の尾行付きで合コンって楽しいかなソレ」
拷問じゃないだろうか。楽しいのは三人だけのやつじゃないか。
「でも面白そうだなって気分になってきたろ?」
「・・・・・まぁ、それは、ちょっと」
「女子大生って響きがまずいいよな」
「女子中学生だってブランド価値あるよ」
「そこはアウトのライン」
「女子大生ならセーフなんだ。じゃあその時にもう一回アタックしてあげるね」
まだ高校もあるし、ずっとずっと先の話に思えた。
ずっと先の話に思えたのは、私が子供だったからで、大人になってからの数年なんてきっとあっというまで、そのあっという間の時間さえ、確かに来るとは言えない人たちだった。
「ああ、そうだな」
スコッチは笑って、「楽しみだ」と言った。
あの時の瞳の色を私は今でも覚えている。
カチカチと、煩く時計の針が鳴っている。この部屋には時計なんてないのに。
カチカチ、カチカチ、チクタク、チクタク。時計の針の音が、鳴り止まない。
10.かきむしって古傷にならないはじめての失恋をしてから、私はたくさん恋愛映画を見た。
恋ってなんだ。
私の恋愛映画100本ノックにライやバーボンは付き合わされてうんざりしていた。私を振った張本人であるスコッチだけはケタケタ笑っていたけれど。笑うところじゃないと思ったので、ぽかりと頭を叩いてやった。
「だいじょうぶだよ、いつか王子様に出会えるって」
「おとぎばなしの世界だけだよ、そんなの」
「ちびちゃんの不思議能力だって俺にしてみれば《おとぎばなし》めいてた。でも実際にあったわけだし?」
「振った人がいうのソレ」
「振られたのは俺の方だ。だって『違う』んだろ?」
「・・・・」
「どんな奴?変なのだったらさすがに俺も抗議するかな」
どんな。どんなって、言われても困る。いつだって、夢の中身はすっぽり抜けてしまうのだ。
「・・・・や、さしい?」
「一番曖昧なやつきたな」
「だって、起きたら忘れちゃうんだもん」
「まぁ、安心しろ。どんな野郎でもとりあえず俺達三人が審査してやるから」
私はきょとんとして、それから何だかおかしくなって笑ってしまった。どれだけつらかったと思ってるのか。しょんぼりしていたこちらが馬鹿みたいだ。
「まぁ、せいぜいその時はしっかり審査してね」とお願いした。
11.カウントダウンはゼロまで言ってちくたくちくたくと頭の片隅でずっとうるさく鳴っていた時計の音が、ピタリとやむ。
その日が来たのだと、私は知った。
カウントダウンが、ゼロを告げた。
12.石橋が壊れて落ちるとてもきれいなトライアングルだった。三人がそろえば無敵で、誰にも負けるはずなんてないと私は何の根拠もないのに信じ込んでいた愚かなこどもだった。
ある日、一発の銃声で、すべてが終わった。ひとつの舞台に幕が下りて、新しい舞台の幕があがる。
かわしたすべての約束をひとつ残らず守らずに、スコッチは死んだ。
わたしはかれの名前を知らない。知ろうと思えば知れたけれど、それは彼の口から利かないのであればもはや何の意味もないものに思えた。
彼が自分のコードネームと同じだと笑いながらくれた飴玉の残りを口内で転がした。
甘い、甘い。
いつか同じ名の酒の味を教えてくれると指切りをしたのに、それすら守らず、彼は死んだ。
――スコッチ。
わたしは、彼の名前をしらない。
わたしの、はじめての失恋。
恋に恋しているんだと、憧れと恋を勘違いしていると私をいさめた年上の仲間。
わたしは、彼の名前をしらない。
知ろうとも思わない。
あれは確かに恋だった。
そして、私はスコッチウィスキーを飲みほした。
title:
インスタントカフェ
prev / next