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忍田真史の恋。


忍田真史は、長い片恋をしている。

恋のはじまりを思い出すのは難しい。それは、気づいたときには芽生えていた。
ひとつ上の林藤が、これまた恋愛に関しては酷く子供っぽいことをするおとこで、気を引きたい相手を困らせることばかりして回っていた。隣で見ていた分には随分とバカみたいなことをしているなと思っていた。人の恋路は得てして外野の方がよくみえる。どちらも思いあっている。じゃれあう二人のことを、呆れた顔をしてみている横顔を、忍田は飽きずに眺めている。

「まさふみ」

興味があちらこちらへと飛び回る彼女が、自分の名前を呼んで振り返る時。その黒い瞳に自分が映る瞬間。ふいに。忍田は逃れようのないほどの熱に自分が一瞬にして犯されたのに気が付いた。
汗臭い、自分の道着が急に気になった。制汗剤の安っぽい匂いが、嫌いだったはずなのに、それが彼女からすると眩暈がするほどいい匂いになった気がした。

「県大会、優勝したんだって?頑張ってたもんね、おめでと」

もう何十回と他人に言われた台詞だ。部活の友人に、クラスメイトに、担任に、普段は口をきかないような教師陣や、顔もしらない他級生に。そつなく「ありがとう」と答えてきたはずなのに、うまく返事がでてこない。
彼女が忍田の県大会優勝を知っていたことを、小さく感動していた。ここしばらく、天文部に入り浸って最新の研究論文の発表について熱くディスカッションする部員たちのインタビューをしていたらしいと林藤づてに聞いたばかりだった。NASAに行ってみたい、と宇宙への関心と熱はあがる一方で、普段は地味な存在として扱われがちの天文部員たちをおおいに喜ばせていたらしい。
その前は地学部にまじって化石の発掘をしていたし、一応席をおいている写真部では何かの賞をもらっていた。それだけ、あれこれと手を出していたらどれかは中途半端になりそうなものだが、彼女は持前のバイタリティとセンス、粘り強さと、溢れる熱意をもってこなしていた。
忍田にはできそうにない芸当だ。

「薔子も、写真で賞もらったんだろう――その、おめでとう」

思い出した一枚の写真に、祝いの言葉の前に一瞬間が空いた。写真は、初戦で敗退したサッカー部の密着中にとったものだった。スポーツ関係の写真を撮ることにしたと言われたときに、すぐさま自分たち剣道部のところに来るのだと思って浮かれていた。普段の倍以上に防具を磨いていた忍田を、かわいそうなものでも見るかのように部長の林藤が眺めてくるのだって、わかっていたがやめられなかった。そわそわと、部活の間はなんとか集中しようと努力したが、普段よりも数本多く林藤相手に取られていた。
日が落ちて、帰りのチャイムが鳴っても薔子は姿を見せなかった。稽古を終わらせ、部室を閉めた帰り道でばったり出くわした彼女は「サッカー部に密着することにした!」と嬉々として語っていた。最近、はまった写真家が出した写真集がサッカーがメインになっていたとかで、忍田の勝手な希望は粉々に打ち砕かれた。
林藤がそっと肩を叩いてきたのを、追い払う。
それからというもの、四六時中サッカー部員に密着していたから、忍田としては気が気でない日々が続いた。ようやく作品が仕上がったと聞いたときには「その流れで良い感じになった人がいてさー」なんていう報告がなかったことに安堵した。あいつのバイタリティとテンポについていける男がそうそういるかよ、とは林藤の見解である。
不毛だぞ、と親切心からであろうか。林藤が釘をさしてきたことがあった。――あれはこの三門におさまっているような女じゃない、世界に飛び出していく。お前、ついてけるのか?――まったく的を射ていた。まだ、想像もつかない場所だ

林藤たち一つ上の卒業間近になると、前生徒会長から推薦をもらう形でいつのまにか生徒会選挙に担ぎ出されて次期生徒会長になることが決定してしまった。信頼のおけるメンバーを選びなさいね、という前生徒会長の言葉を念頭において「生徒会を手伝ってほしい」と彼女に申し出たがすげなく断られたのは未だに少し引きずっている。
ことの成り行きを見ていた前会長は「どんまい忍田くん」と肩をたたいて励ましてくれていたが、卒業前の生徒会引継ぎから逃亡しようとする副会長の林藤を見つけると、確保するべく走り去っていった。あの二人の鬼ごっこはもはや名物の一つになりつつある。
最終的にはいつだって、林藤が白旗をあげるのだが、あれはただ追いかけてきて欲しいだけなのだ。それを、少しだけ羨ましいと思う。
忍田が姿を消したって、彼女はきっと走って追いかけてきてはくれない。彼女にはいつだって追いかけているものがあって、よそ見一つしている暇はないのだ。そんな彼女の、輝くような瞳が、自分は好きなのだからしようがない。

幼馴染で、ずっとそばにいて。子どものころは、同じ道場に通っていて朝から晩まで一緒だった。ある日「ほかのも気になるから」と合気道と柔道をはじめてしまい、剣道道場に顔を出さなくなった。
中学は所属こそ剣道部だったが、新聞部とのかけもちだった。
会える日がぐっと減って、自分の知らないどこかで笑っているのを見かけるようになるたびに腹の底が煮えるようにあつかった。たまらない感情を抱えて、清廉であるには忍田は若かった。ごくありきたりな感情の発露を自分の大事に思う幼馴染に向けたことで、その日の朝は罪悪感で死んでしまいそうだった。

「おはよ、まさふみ」

ギリギリまで朝練で一人げいこをして、朝をかいて頭を冷やそうと努力したのに、教室で前の椅子に座ったまま振り返って朝の挨拶をしただけの彼女を直視したら、何の役にもたたなかった。真っ赤になって、熱でもあるの?と心配して伸ばされた手を振り払うようにして逃げ出した。
放課後、ことのなりゆきを聞きつけたらしい林藤がにやにやと「赤飯にぎり売店で買ってきたけど食う?」なんて言ってきたから、その日は問答無用で叩きのめすことに専心した。




高校を卒業し、大学に入るとますます会う頻度が減った。
バイト、サークル、授業を幾つも受講しながら、海外旅行に隙を見ては飛び出していく。
旅先から葉書を送ってくれるくらいには、忍田のことを思い出してくれるのが唯一といってもいいくらいの救いではある。

「ただいま、まさふみ!」

一度だけ、その言葉を聞いて泣いたことがある。全く連絡が取れなくなったのだ。現地にいって、なんだかんだで来ていた連絡のすべてが途切れ、だれも足取りがつかめなくなった。行方不明か、と騒ぎになる寸前だった。ほとんど恐慌状態に陥りかけていた。パスポートも持っていないのに、身一つで空港に向かいかけていたところを林藤に止められた。帰ってこないかもしれない、なんて思いもしなかった。いつもお世辞にも治安がいいとは言えないところにも顔をつっこんではいたけれど、けろりとした顔で帰ってきていたから。あたりまえに。


「結婚しよう」と告げたのはその翌日だ。
何の連絡もない、もし何かあってもなんの連絡も貰えない関係に耐えられなかった。配偶者であるならば、少なくとも一番に現状を知ることができる。本当はどこにも行かせたくない。一時期親戚のこどもの文鳥を預かった時、薔子のこともこんな風にずっと籠にいられたら安心なのにとこぼしたら林藤がぎょっとしていた。忍田だってまずい発想であることくらいわかっているから、聞かせる相手は選んでいる。それに籠の鳥になってくれないから好きなのだ。
結婚すれば、わずかでも細いつながりとして認識してもらえる。彼女に、というよりも周囲に。
案の定「学生結婚はちょっと・・・」と断られた。ならば付き合ってほしい、と忍田は返す刀でつづけた。かなり鬼気迫っていた。最初のハードルが著しく高い『結婚』だったためか『おつきあい』くらいならまぁ心配もかけたみたいだし、というなぁなぁの空気で薔子は流されてくれた。今断ったら、なにをしでかすかわからないぞとでもおもわれたのかもしれない。国外を飛び回っていても、送られてくる写真の中の薔子の薬指に忍田が贈った指輪がおさまっている。
はじめは、それでうまくいった。
忍田は必死にものわかりのいいデキた恋人として努力した。結果、空回り、数年後にその関係は破綻した。
ささいなけんかが、どうしてだか。顔を合わせるたびに言い争いになる日が続いて、売り言葉に買い言葉で別れ話に発展した。互いが互いを思いやれず傷つけるような関係を続けるなんて、よくない。理性ではわかっていた。これはお互いのためだと。それでも、売り言葉に買い言葉なんて流れで別れを承知してしまったことを忍田は後悔した。
薔子が、忍田のことを思ってくれたのだってわかっている。それでも。手を放してしまえるくらいなのだと思ってしまう。泣いて縋りつくなんて、する奴じゃないのもわかっていて。好きなのは、自分ばかりのような切々とした感情だけが残った。
林藤が間に入ってくれて、その時は元のさやにおさまった。真面目な奴が拗らせるとやばいな、とからかわれたけれどどうでもよかった。反論する気すら起きない。どうかしている、こんなのはおかしい、よくない。なのに、忍田は手放せなかった。



「距離を置こう」と言ったのは薔子だった。
実家の本家筋が薔子によからぬことを言い含めたのは間違いなかった。家なんてどうでもいい、と言い切った瞬間にデコピンされた。昔から繰り返し、忍田が一直線に暴走したときにどこからともなく薔子がやってきて止めるときの仕草だ。
「どうでもいいわけないでしょ」
「薔子」
「別に実家の嫌がらせが原因じゃない。単純に、お互い生活スタイルが合わなさすぎるって認めようってこと」
「無理したって会いたい」
「わたしはさ、」

困ったように薔子が笑った。

「まさふみが思ってるより、まさふみのこと好きなんだよね」

好きなら。なんで。

「もっと上手くできたらよかったんだけど、へたくそでごめん」

わたしたちそれぞれちゃんと大人にならなきゃ駄目になるよ――それが決定打になった。
若くて、勢いにまかせていて、感情のブレーキなんてなかったから、多分、彼女は彼女になりに忍田を愛してくれていたのに。

別れて、大学卒業後はあっという間に薔子は海外に飛び出していった。
自分が、彼女をこのちいさな街にがんじがらめに縛り付けていたのだと、唐突に理解した。別れを受け入れきれずに追いかけていった空港で、豆粒みたいに小さくなっていく飛行機を青空の向こうに見送った。







「で、なんでまたお前らは隣同士のマンションに住んでるわけ?」

理解が及ばない、と林藤が肩をすくめた。今更気づいたのか、とむしろ忍田は思った。城戸には最初からばれていたし、なんなら一度「ストーキングは犯罪だ」とくぎを刺された。釘をさしただけで、転居の受理はあっさりされたが。
玉狛支部に引っ込んでいる林藤が、わざわざ忍田の住む家までやってきて、飲むぞとビールの缶を並べて陣取っている。ずっとこの話をする機会をうかがっていたのだろう。彼は忍田の執着をただしく把握しているがゆえに、親類として薔子の心配をする役割を一手に引き受けていた。

「自宅を取り壊すにあたって新居を探すって言っていたから相談にのったんだよ。市民の相談にのるのはボーダーの人間として当然だろう」
「それがなんでお前まで引っ越しする理由になるんだ」
「心配だから」
「・・・・・・・しーのーだーくん?」
「ちゃんと相手も合意してる。便利でいいかもね、だそうだ。親御さんだって安心だろう」
「安心安全のまさふみくんが一番危ないってあそこんちの親はいい加減気づくべきだろ」

付き合っているわけではない。別れて、それから何度か忍田だって交際相手はいたし、見合いもこなした。薔子の方も定期的に恋人らしき人物がいた。だというのに、現在二人はマンションの隣り合う部屋で生活している。

「薔子にとって、交際はさして重さがないんだ。もっと他に興味のあることが多い」
「なるほど?それを受け止められるのは自分だけってか?」
「自分の感情には素直になることを目の前の拗れたサンプルから学んだ」
「・・・・・・・は?」
「そっちも少しは素直になることを学ぶべきだ」

忍田は自分の感情に素直になることを選んだ。勿論、許可は求めた。幼馴染が自分のおねがいに弱いこともしっかりと知っていての上でだから、確信犯ではあるけれど。ほとんど海外にいる薔子と、ほとんどボーダー本部に詰めている忍田。さして家にいないのだから、そう不愉快な思いもさせずにすむと言い繕った。

「お前があいつのスケジュールを逐一把握してなきゃそうだろうけどよ」

薔子の帰国の話が入る(これがどうも唐沢から情報を貰っているらしい。なぜ唐沢がボーダー関係者でもない彼女のスケジュールを把握しているのかと苦言を呈すると、彼女のスケジュールで本部長のスケジュールが微動するのだから把握しておくのは当然らしい) と、忍田の書類仕事進行スピードがあがる。いそいそと偶然にでくわす時間に帰宅し、みやげを貰いながら夕食を共にして。

「夕食だけで帰ってるんですかねまさふみくん」
「いい歳した大人がプライベートまであれこれと親類に報告する義務はない」
「そりゃお前らがそれでいいならいいけど。刹那的過ぎじゃね?」
「さあ?そんな風に感じることは無いが――なにがあってもおかしくない仕事をしていると、互いに自覚してるからじゃないか」

だからこそ。林藤は距離をとっているのだろう。
置いていきたくないし、置いて行かれたくもない。
忍田の視線は林藤からそれて隣の部屋があるであろう壁に向き、無骨な掌で触れた。指先が真白い壁を撫ぜる。多くの人間は薔子のことを「勝手な女だ」と評する。いつでも忍田ばかりが振り回されていると同情すらされる。実際は違うのに。真実、真摯にまごころをこめて誠実に愛せるならおそらく林藤のようにあるべきだったのだ。忍田はあらゆる面でやんちゃながらも根っこは優等生であるから、周囲の認識は錯誤する。自分の中で執着の蛇がとぐろをまいている。

「ゆーごさんが、かえってこなかったろ」

あのひとはどこまでいったのか、どこで、だれとであい、だれのためにたたかい、いきたのか。
ほんのわずかばかり回り始めた酔いに、口がゆるむ。

「薔子は、ちきゅうのどこかにいるから――まだ、あんしんできる」
「……」

残された自分たちは、このちいさな街で成長した。この10年、いや5年の激動を分かち合える人間は少ない。忍田は、ずっと一貫して彼女をボーダーに関わらせまいとしていた。幼馴染で、顔なじみも多いボーダーに部活感覚で一度でも所属すれば、情に厚い彼女はどこにいくこともなく、傍にいただろう。一枚の写真を思い出す。旧ボーダーの全員で撮ったものだ。あとから「なんで私に依頼しなかったんだ!」と彼女はむくれながら写真を眺めていた。
その写真の輪に、けっして彼女を加えるつもりが忍田にはなかった。
エゴの塊だった。踏み込みたい、すべてを欲しいのだと望むくせに、自分は決して踏み込ませずすべてを渡すこともしなかった。

写真のなかの、いったいに何人がいなくなったのか。

「きっと、おまえのほうが正しい」壁から離れた指先でぐしゃりと前髪をつかんだ。こんなことはきっと誰にも言えない。まるで告解だ。懺悔をきくのは髭面の眼鏡だが。他の誰の前でもこんな心中は吐露しない。鏡写しのように、同じ街で同じ時代を生きて同じ場所で戦う人間だったから。

「正しいも間違いもないだろ――泣かせてるんなら同罪だ」
「ふっ」
「なんだよ」
「まだ泣かせてるとはおもってるわけだなとおもって」
「………おまえ、まじで今日酔いすぎ」
「薔子がこいしい」

北欧でオーロラとサンタの写真を撮ってくる!と飛び出してかれこれ6ヶ月になる。その間に忍田は5件の見合いをこなし、実家の煩い催促の電話を無視し、そして薔子のSNSをチェックしては新たな恋人の影がないことに安堵した。

「はいはい」
「あと、薔子は泣かない」
「………そうだな、『泣かせてる』はこっちの願望か。泣いてるのはおれらだもんな〜、捨てられて。あいつも泣かねーかぁ」

恋しいと、愛しいと思ってくれている。
特別だと、胸を張って言えるくらいには互いの中に深い根を張っている。
けれど自分たちが愛したのは、決して泣いて縋ってはくれない女たちだった。

端末がバイブレーションする。ゆるりと起き上がり確認した。酔っていても、換装すればそれなりに取り繕える。ボーダー上層部にはだいたいにして24時間営業だった。
本部にいる忍田には回ってくる情報も多い。

「仕事か?」ならお開きだな、と言う林藤がもうめんどうだから俺は泊まってくわ、などと勝手なことを言ってる。

「ダメだ帰ってくれ」
「は?」
「薔子が帰ってくる」
「はぁぁぁ?」
「みやげもってこっちに顔出すと言ってるから」

言いながら忍田は散らかったゴミを片付けだす。ゴミと同列に扱うように、林藤の荷物をひょいひょいと投げ渡した。「ちょっ、おま、ふざけんな」抗議の声があがるが知ったことではない。優先順位は明らかだ。

「つーか今から?お前いつも事前に帰国の段階で情報つかんでないっけ?」
「薔子の予定はいつでもざっくばらんに変わる」
「そのうち『わたしの子なの』とかってちびっこつれて帰ってきそうだよな」
「そうだな」
「……今のは怒るとこじゃね?」
「『ここに帰ってくる』のに何の問題があるんだ」
「こちら私の旦那です、は?」
「『ここに帰ってくる』ならそれでも別にかまわない――いいからさっさとコートを着ろ」
「・・・・・昔さぁ会長が『忍田くんから目を離さないようにね』って言ってた」

押し付けられたコートに林藤がしぶしぶ袖を通している。

「奇遇だな、俺は薔子に『匠兄のそばにいてあげなよ寂しがりだからあの人』って言われた。正直、なんで薔子がそんなことを言うのか理解が及ばない。つまるところはセットで置いておけばまぁ何とかなるだろうと思われているわけか・・・・・・ちょっとぞっとしないな」
「こっちの台詞だわ、ったく。親戚のおにいちゃんとしてはこんな時間に男のとこに行くのは注意しとくべきかぁ?」
「いくつだお互い」
「変な男だったらそりゃ口出すだろ。仲いいもん、俺と薔子。親族多しといえど「兄」のごとく慕われてるの俺くらいだぞ」
「遠縁も遠縁だろ。そもそもオニイチャンの審査基準でボーダー本部長の男は変な男に分類されるのか」
「薔子絡むとほんっと可愛くない!」
「今回のみやげはなんだろうな。いやそれより薔子の顔が見たい元気か確認したい」

どこにいったっていい、なにしてたっていい。
かえってきてくれるなら。

いや、嘘だ。
ほんとうは、ぜんぶほしいくせに。





***





「おねえさん」

ある日、その少年は突然やってきた。
まっすぐに相手の目を見るこどもだった。呼ばれて、最初にまずその瞳の色の美しさに目を奪われたからよく覚えている。夕暗がりでも、その色は確かに記憶の中に灼けついた。
長いことその少年のことを遠目に見ることはあっても真正面から見る機会はなかったから、なおのこと。

「こんにちは、迅悠一くん」

少年は少し驚いたように目を見開いた。
挨拶代わりに手を差し出すと、彼はちょっと困ったように眉をさげてからゆっくりと手をとった。ゆるやかに、握手はかわされた。
それに少しだけ感動した。

「今日は、まさふみ――忍田くんに内緒でなんのはなしかな」
「どうしてそう思うの?」
「彼はわたしに『三門の古いつながり』に触れて欲しくないみたいだから、かな。」

小学生の頃までは、互いの家を行き来していた。道場も学校も同じだったから当然のなりゆきだった。15になった頃、お家で元服の儀式があるのだと愚痴っていたあたりまでもさして変わらなかった。
そのあとだ。彼はそれまでただの「まさふみ」であったのに、忍田の家の「長男たるもの」として三門の古い家の集まりに顔をだすようになったらしい。そこには林藤も一年早く席を置いていた。
先祖代々が三門にいる、旧家でその集まりは密だった。密接であり、秘密である。
親の代で越してきた自分の家なんかはお呼びではない。林藤の家とは遠い親戚ではあるけれど土着の家との差は、実の所血縁でだけでは埋まらない何かがある。
目の前の少年によく似た顔の男の人を何度か見かけたことがあった。きっと父親だろう。

「はじめまして、私は開高薔子。まさふみくんの幼馴染。薔子って呼んで」
「はじめまして薔子さん。迅悠一です。おれのことも悠一でいいよ」

どうもどうも、と礼をしあい少年は「つまらないものですが」とおもむろにぼんちあげの袋をひとつさしだした。

「え、なんか悪いなぁ。わたし何もあげるものがないんだけど」
「ふきょうなんで」
「君、まだ小さいのに難しいこと言葉知ってるね」
「薔子さん、忍田さんのこと好き?」
「……ええっと?そりゃあ大好きだよ大事な幼馴染だ」
「どれくらい?」

どれくらい好きか。考えたことは過去に何度かある。プロポーズされたとき、つきあうことになったとき。だいじなだいじな幼馴染。俗にいえば、キスできるか?セックスできるか?という点がもっとも最初にあがった。想像できなかった。清廉な剣士であったのだ。薔子の中にあった忍田という人間は。
彼も男だったのだ――とキスされて気が付いた。

「いろんなことを許せちゃうくらいには好きかな」

少年相手に、何を言ってるんだろうか、という気には不思議とならなかった。
秘密をかかえていても、仲間にいれてくれなくても。ならば自分も好きに生きるし、そのうえで彼を愛そうと決めたのだ。
その秘密の中核に、この少年は座っている。

「それとも仲間に入れてくれるの?迅少年」
「悠一」と迅が訂正を入れた。
「悠一くん」

少年は終始気まずそうに、困っていた。もはや結論は彼の中にあるのだろうということが見て取れた。だがそれを言うことがどれくらい勝手であるのかを自覚しているがゆえに戸惑っているようだった。

「わたしに、関わって欲しくないんだね――まさふみと距離おけって言いに来たの?」
「おれたちのやってることに関わって欲しくないだけで、忍田さんと関わって欲しくないわけじゃないんだ」

少年ののぞみは、忍田というおとこの『健全性の維持』だった。
そしてそれは薔子の『生存』に依存するらしい。どうにも危ういところが実は幼馴染にあるのだと気づいたのはいつだったか。

「忍田さんが狂うと、こまるんだ。とっても」
「まさふみはそんなに簡単に壊れないよ。丈夫さが取り柄みたいなとこある」

狂いかけた歯車も、時を重ねれば次第に治る。薔子はその点を少年よりわずかばかり楽観していた。時は偉大だと、わけもなく思っていた。けれど少年は首を振った。ヘラクレスにも弱点があるのだと、大真面目に諭された。

「だから絶対に生きててもらわなきゃ困るんだ薔子さんには」
「きみの、君達の計画のために?」
「それがみんなのためでもある――しのださんのためでも」
「なるほど」

関わりすぎないで欲しい、死なないで欲しい。
シンプルな要求だ。生かさず、殺さず。近づきすぎず、遠ざかりすぎず。

「わたし、まさふみくんを泣かせたいわけじゃないんだ。好きだし――心配なんだよ、結構」

連れて、逃げだしてしまえたらよかった。一緒に行こうと、手を引っ張ってこんな街を飛び出して二人でどこにだって行けるはずだ。決して、口に出さない。薔子が、墓まで持っていく秘密だ。そういう、どうしようもない夢を、見ないわけじゃなかったのだ。でも、それではダメなのを誰より薔子は知っていた。生真面目な、どこまでも我儘に全部を守ろうとする男を、泣かせたくない。


「たしかに忍田さんは強いよ」
「でも弱点はあるわけだ」
「そう。おれはそれを隠しておきたい」
「・・・・・」

少年はまるで未来でも見ている予言者のようだった。そして警告者だった。

「わかったよ、ゆーいち少年。君の言うことを聞こう」

少年はあっさりと薔子が頷いたものだから「ひょっとしてとんでもなく忍田さんの片思いだったりする?」と薔子の気持ちを疑った。彼に同意してあげたのに酷い反応だ。

振り回し、近からず遠からず。酷い女だと、忍田の実家からはかなり嫌われている。
本家の長男をたぶらかす雌猫を、いかにして追い払うかを常々あの家の人間は狙っているらしく定期的に「お見合いどうかしら?」と善意に見せかけた忍田との仲を引き裂くあれやこれやを仕掛けてくる。もちろん、だいじなまさふみにも最高につり合いの取れた相手をおすすめしているのを知っている。後者については大いに頑張ってみて欲しいという気持ちがわずかばかりあった。
絆されたのは自分の方なのだ。恨まれる筋合いはない。
上手くいきすぎても、いかなさすぎても困るという難題を少年は酷くまじめな顔で要求した。男女の恋愛の機微がいまいちわからないのが困るのだと、不確定要素に悩まされるのだと未成年は嘆息していた。この子はどんな恋をするのだろうか。
恋愛とか興味ないの?と純粋な興味で聞いた。ゆういち少年とは不定期な密会を行っている。彼だってそれなりにお年頃になりつつあった。適度な距離があるせいか、少年はざっくばらんにあけすけなことをのたまった。気持ちいいことは好きだけど、と。頭を抱えたい。そういうのが聞きたかったわけじゃなかった。多分、これは彼の中では機密の部類なのだろう。厄介ごとに巻き込んでいる誠意、と取るべきなのか。

「おれ、実力派エリートだから忙しいんだ。女の人はやわらかくてすべすべで好きだけど」

恋愛はしている暇がない。あっけらかんという。忍田と林藤にはくれぐれも内密にしてくれと言われた。情操教育の失敗を悟られたくないらしい。
だがしかし、こういうタイプこそのめり込むと厄介なのではないだろうか。めんどくさい恋愛をしそうだ。

「長生きしてね、薔子さん」

予言者のような少年は薔子に言う。ただひとつ、それだけを。

「・・・・・君が恋愛で身を持ち崩す日がきたら、ぜひとも写真撮りたいなぁ」
「そんな日は来ないとおもうけど」
「君もおこさまだな、まだまだ」
「実力派エリートだよ」
「たのしみだなぁ。最高にめんどくさい女にひっかかって苦しむがいいさ!相談のったげるからね?あー、長生きせねば」
「おれのことはいいから、忍田さんのために長生きしてほしんだってば」
「わたしはわたしのために日々生きてるよ」

でなきゃやっていられない。

「知ってる?惚れたほうが負けなんだよ」

忍田さんでしょ、と少年は言う。わかってない。ほんとに。

「予言しよう、少年」

薔子は笑った。

「いつか、君も思い知るよ――きっとね」








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