わたしの中に、小さな花のように咲いた感情は、それはもう、温かなものでした。


神田さんの背中を見かけるたびに、どくん、と大きく心臓が脈打つ。それからその拍動が起こした波が、指先まで染みこむように広がってゆく。
砂に染み入る水のように、彼の姿を見ただけで、
幸福というものが具体的にわたしの体中を満たすのが分かる。
その感覚が、なんだかとても愛しくて、わたしは神田さんに会うたび、思わず微笑んでしまう。
そしてそれを見た神田さんが時々、なんだか呆れたような、でもとても優しい表情をしてくれるから、わたしは更に泣きそうなほど嬉しくなってしまう。

たぶん、この感情に名前をつけるのだとしたらきっと、ジェリーさんやラビさんの言っていたものになるのだろう。

それでも、今この手にある幸福はわたしだけのもの。神田さんがわたしに与えてくれる、宝物。
だから、ありきたりな名前を付けてしまいたくはないのです。


わたしがそう告げたとき、ラビさんは本当に驚いた顔をしていたけれど、すぐにあのとても優しい笑顔を浮かべてくれた。

「ほんと、あんたってすごいな」

すごいだなんて、わたしには思えなかったけれど。
ただわたしは、神田さんがそこに居て下さることが、幸せで幸せでたまらないだけ。
ゆっくりと、彼にこの気持ちを伝えていければいいと思う。きっと、神田さんなら待ってくれる。


「神田さん!」

食堂の賑やかな音にも負けずに叫ぶと、神田さんがちょっと眉をしかめて振り向いた。
そう、ちょっとだけ。
最近は、無表情に見える彼の表情の変化を読み取ることができる。
捜索隊の先輩が言っていたことは、正確ではなかった。神田さんは、人間失格なんかじゃなかった。
不器用で、ぶっきらぼうで、人と付き合うのが得意ではなくて。
でも本当は真っ直ぐで、優しくて、感情が豊かな人。

「おかえりなさい、神田さん」
「…ああ」
「任務、お疲れ様でした。アレンさんと喧嘩しなかったですか?」
「……」
「ふふ、ほんと、喧嘩するほど仲がいいですよね」

すぐに「誰がだ!」という怒鳴りが飛んだけれど、わたしはそれを笑って受け流して、ジェリーさんからうどんを受け取るために列に並んだ。

「はーい、おまちどーん!なまえちゃん、今日もすてきな笑顔よん」
「えへへ、ありがとうございます!」
「まったく、幸せそうな顔しちゃってー」

このこのーと私の肩をジェリーさんが肘で突いていると、わたしの後ろで神田さんが小さく舌打ちをした。
ジェリーさんが気がついて、にやにやとしながら神田さんに蕎麦を渡した。
そのときに、彼の耳元に何か囁いていたのを、わたしは見逃さなかった。
だって、神田さんの顔がその直後に赤く染まってぴしり、と石のように固まったから。

空いている席、といってもいつもの出入り口に近い席を目指しながら、わたしは先を歩く彼に早歩きで追いついた。神田さんは、わたしと目を合わせようとしない。

「ジェリーさん、なんて言ったんですか?」
「……なんでもいいだろ」
「だって気になるんですもん。ちょっと、ジェリーさんに聞きに言ってきます!」
「や め ろ !」

くるりと向きを変えて、ジェリーさんのところに戻ろうとした私の肩を、神田さんががしっと掴んだ。
訝しげに振り向くと、そこにあった神田さんの顔は、焦った色を浮かべていた。珍しい表情を見れたことに気分を良くしたわたしは、なんて単純なんだろう。
仕方がないので、わかりました、と呟けば、安堵して神田さんが息を漏らす。ああ、本当に感情豊かな人。

立ち止まったままの彼を置いておいて、わたしが先に席につけば、
神田さんは自然にわたしの前に座ってくれた。
その何気ない動作が嬉しくて、すごく嬉しくて、わたしは思わず笑みを零してしまった。

「えへへ、」
「何笑ってんだ、気持ちわるい」
「なんでもいいじゃないですか」

先ほどのお返しだと言わんばかりに言い張れば、神田さんはふん、と機嫌が悪そうに目を細める。
でも実際はそこまで不機嫌になっていないのも、わたしは分かる。

ずるずる、と二人で麺をすする音を、ただひたすら聞く。
神田さんと食事をするようになる前は、自分が喧騒に溶けていく感覚を感じながら、食事をしていた。
賑やかなことが嬉しい。自分が音に、音が自分になっていくのが、心地よかった。
けれど今は、こうやって神田さんを視界に捉えていて、静かな音を聞いているのが何より幸せ。

ほんとうに、素敵な時間です、神田さん。
これはきっと、あなたに会わなければ叶わなかった。

「神田さん、」
「ああ」
「誰かと食べるご飯って、やっぱり美味しいですよね」

本当は、神田さんと、って言いたかったけれど、何故かそれは憚られた。
少し、恥ずかしいと思ったからかもしれない。
この人を前にしたわたしは、少しいつもと違うみたい。
なんだか、ほんの少しずつ自分が変化していくのがわかっていた。でもそれは、心地よい変化。

しばらく黙ってしまった神田さんを気にしながら、わたしはお茶を飲んだ。
彼は、ちょっと驚いた顔をした後、わたしの顔を見て、空っぽになった蕎麦の器を見た。
そしてお茶を啜るわたしをよそに、ゆっくりと立ち上がりながら背を向けて、ぽつりと、


「お前と食べるのは、な」

Spoooon!

(ジェリーさん、さっき、神田さんに何て言ってたんですか?)
(うふふ、知りたいー?)
(はい!)
(そうねえ……きっとその答えは、そのうち彼が教えてくれるハズよ)
(………?)
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