ホームの朝は、寒い。
標高の高いところに建っているし、建物は冷たい石造りだし。昼間は暖かいけれど、朝だけはどうしても冷え込んでしまう。
ぐぐぐ、と体を締め付けるような冷気が襲ってくるけれど、わたしはいつもそれに負けじと、布団を蹴り飛ばして起き上がるのだ。
なのに、今日は少し違った。
食堂で食べる美味しいご飯とか、アレンさんが元気にご飯食べてる姿とか、ジェリーさんの声とかを考えてもあまり元気が出てこなかった。
なんだか、今日の、いや最近のわたしは少し違った。


「(……なんだか、変)」


ときどき、すごく苦しくなる。
きゅっと胸が締め付けられて、なんだか泣いてしまいたくなる。体が重たくて、心も頭も重たくて、鈍く這いずり回るようなかんじで。

病気というのは任務に支障をきたすので、医療班から体温計を借りて熱もちゃんと測ったのだが、とくにこれといって高くはなかった。ちょっと微熱程度はあったけれど。
きっと疲れているのよ、ちゃんと休みなさい。
と、婦長さんは困ったように心配してくれた。他の方々の治療で忙しいだろうに、こんなわたしにまで気を使ってくれるなんて優しい方。

わたしは少しだけ元気になって、それでもまだはっきりと覚醒できなくって、でもやっぱり食事は取らなきゃいけないから、食堂を目指した。
でも、なんだろう。
食堂が近づく度に、足がずんずんと鉛のように床に沈んでしまいそうな錯覚に陥る。
わたしは自分の足を叱咤して、いつもより大股で高く足を上げて歩いた。だめだ、しっかりしろなまえ。

それでもまったく、全然だめで。
なんだか泣いてしまいたかった。
でも食堂で泣くのは、マナーに反する気がした。ご飯は楽しく食べるものなのだから。
そのときわたしの頭に一人の男の人の後姿がふわり、と浮かんだ。テーブルの隅っこで、一人きりで箸を口元に運ぶ彼。


神田さん。


そうですよ、神田さん。わたし、あなたがいないから、ご飯食べててもぜんぜん、楽しくないんですよ。


今どこにいるんだろう。中国の美味しい料理でも頂いているのかな。
リナリーさんと一緒に食べてくれてたら、いいな。


神田さんが彼女と向き合って、餃子とチャーハンをつついている姿を想像して、私は少し微笑んだ。
だけど同時に、胸がひどく痛んだ。
末期だ、どうしよう。頭がぐらぐらするんだ。どうしよう苦しい、苦しいです、神田さん。


「あら!ちょっと、なまえちゃんどうしたのよ?大丈夫?」

ジェリーさんは心底驚いた表情で、注文の窓から体を乗り出してわたしの顔を覗きこんだ。

「…え?」
「もう食事の時間過ぎちゃったわよ?ま、もちろん作るけど…」
「あ…!ほんとだ……すみません、ジェリーさん」

食堂に入った瞬間、やけに人が少ないというのは感じたけれど、まさか時間が終わっていたなんて。
自分がそれに気がつかなかったことにわたしはさらに落胆して、小さな声で謝罪の言葉を並べて頭を下げた。
けれどジェリーさんは大きな手でわたしの頬をつかむと、ぐいっと上向きに上げさせてじろじろと調べるように見つめはじめた。

「え、えええ、」
「うーん、顔色が悪いわね…何が食べたいの?」
「え、と、うど」
「うどんはだーめ。そうねえ、鉄分が足りてないのかしらん。いいわ、特別なメニュー作ってあげるから、待ってなさい!」

ジェリーさんはわたしの頬をぱっと離すと、次の瞬間には厨房に消えていた。ざざざ、とんとん、じゅぼー!といつものような豪快で楽しくなる音が聞こえて、呆然としていた私の前にすぐに料理が並べられた。
わたしはまだぼーっとしながら、それを受け取る。野菜を中心とした料理ですごく栄養がありそうで、オニオンスープがぽかぽかと暖かそうだった。そしてさらに、かわいらしいショートケーキをのせて、

「はい、これ食べて元気出しなさい!なまえちゃんの元気な声が聞こえないと、厨房がテンション下がっちゃってだめなのよ」

にやり、とジェリーさんは笑うと、わたしの頭をぐりぐりと撫でて、それからどーんとわたしの肩を叩いた。
わたしはなんだか嬉しくて泣きそうな声でお礼を言って、胸に込み上げてくる感動を噛み締めながら、元気を出そうと心に決めた。

苦しいとか落ち込んでいる時間じゃない。
せっかくジェリーさんが作ってくれた料理なんだから、楽しくいただかなければ。

もう一回お礼を丁寧に言って、胸いっぱいに空気を吸って、わたしは席に着こうと思ってくるりとテーブル側を振り向いた。


そして、息を吸った状態のまま、目を見開いた。


だって、だって、


「…あ、そうだ。そういえばさっきからずっと彼、あそこに居座ってるのよねー」

きっと、なまえちゃん待ってたのよ。んふふ。


というジェリーさんの言葉が、ずっとずっと何億光年先の惑星から響いてきているみたいだった。
わたしの目には、全身真っ黒で、なんだか近づけないオーラを醸し出していて、でも無防備にどこか遠くを見つめて座っている男の人しか映っていなかったから。
体の中心で、ぐるぐると何かが渦巻き始めた。それが、なんの感情かは分からなかったけれど、とにかくわたしはどうしようもなくなってしまっていた。

しばらく彼の姿を見つめたあと、やっと自分が息を止めていたことに気がついた。
吐き出して、カラカラになった喉の奥で声を絞り出した。


「か、んださん」


ぴくり、と彼が反応した。ゆっくりと、黒と青の間で光る瞳が、わたしを捉えた。
それに合わせて心臓が大きく揺れ動くのを感じて、わたしは唾を飲み込んだ。
そして、潤った喉で今度はおおきく息を吸う。


「神田さん!」


わたしにしては、すごく大きな声だった。神田さんもひどく驚いて、目を丸くして固まってしまっていた。
でもそんなこと気にせずに、わたしは高鳴る鼓動を抑えられずに早歩きで彼の元に駆け出していた。
本当は走って行きたかったけれど、一部の冷静なわたしがジェリーさんの料理を守ろうとしていたから。実際、弾かれたように立ち上がった神田さんが支えてくれなかったら、トレイをひっくり返していたかもしれない。


「……ったく、走るんじゃねえよ!」
「走ってないですよ、早歩きです」
「転びそうになってたら、同じようなもんだろーが!」


だって、神田さんが。
言い返そうとした言葉は、神田さんの不審な視線で遮られた。
彼はジェリーさんの料理を見て、それからわたしの顔を見て、眉を顰めたのだ。


「…うどんじゃねぇのか」
「え?あ、ジェリーさんが元気だせって、作ってくださったんです」
「………」

でも、神田さんが帰ってきてくれたので。
言おうとした言葉はまた、今度は神田さんがわたしのトレイをひったくって机の上に置いて、自分は偉そうに椅子にもう一度座ったことによって遮られた。


「……?」
「食え」
「……え?」


いや、食べますけど。
その言葉は自分で飲み込んた。わたしが首を傾げながら神田さんの前の席に座ると、彼はつい、と目を逸らしてしまった。
そういえば、こうやって正面に神田さんを迎えてご飯を食べるなんて、すごく久しぶりな気がする。
わたしは、いただきます、と両手を合わせた後、あたたかいスープを口に含んだ。
おいしい。久しぶりに、すごくおいしい。
なんだか生き返った気持ちで神田さんを見れば、彼は今度はこちらをじっと見つめていた。びっくり、した。


「え、あの、神田さん?」
「お前、どこか体調悪いのか」
「あ、いえ、その、ちょっと元気が出なくて……神田さんこそ、お怪我されてませんか?」
「別に」

さらり、とどうでもいいように答えて、また目を逸らした。
その動きに合わせてゆれる綺麗な黒い髪が、澄んだ瞳の色が、彼の全てが急激にわたしを励ましてくれたみたいで、ほっこりと心の中心が温かくなるのを感じた。

「あの、」
「なんだよ」
「ジェリーさんの料理、すごく美味しいです」

神田さんは瞬時に、は?こいつ馬鹿じゃねぇのだからなんだよ。という表情をしたけれど、わたしはかまわずに続けた。
それでも彼の顔をじっと見つめるようないつもの勇気は何故だか沸かなくて、スープの琥珀のように透き通って揺れる水面を追いかけながら、揺ら揺らと言葉を紡ぐ。


「わたし、すごく元気になりました。でもきっとこれは、料理のおかげだけじゃなくて……神田さんが、そこに居てくれるからだと、思います」


だから。
そう続けようと思ったのに、顔を上げた先の神田さんの表情を見たら、思わずわたしは息を呑んでしまった。
本日二度目の窒息の危機。

神田さんは片腕をついて頬を乗せた状態のまま、驚いたように目をまん丸にして静止していた。そのまま止まっていたかと思うと、ほんのりと顔を赤らめて、あからさまに目線を逸らしたのだった。
そんな彼の姿を見てしまったら、パニックになるのはわたしの方で。
何をどうしようかどうしたらいいのか分からなくなってしまったわたしは、とりあえずスープの器を引っつかんで、それを行儀悪く一気飲みすることで、視界から彼の顔を隠した。
でもすぐに飲み干してしまって、だけどそれを顔から離せないわたしは、不自然に垂直の角度で器を持ち続けた。何故って、わたしの顔が、見せられなかったから。

「……くっ」

あ、れ、今、だれか笑った?

スープ皿の底の白で塗りつぶされた向こう側で、小さな、ほんとうに微かな声が聞こえた。
息を吐くような笑い声。
それでもわたしは聞き逃さずに、慌てて顔を上げた。

「うわ!」

だけど、笑った人の正体を確認する前に、大きな手が伸びてきて私の頭を押さえつけた。
ぐぐぐ、と力を入れてもびくともしない。わたしが諦めて、言葉にならない言葉を呻くと、大きな手は一度わたしの頭を盛大に叩いて離れた。

痛みを我慢して急いで視線を上げれば、案の定、神田さんがテーブルの端っこを見つめていた。その視線は、わざとわたしから逸らされているようで。
彼の目を見れないことに少し不安がよぎったけれど、わたしが彼の頬がほんの少し赤いことに気がついたときと、ぶっきらぼうなその一言を拾い上げたのは、ほぼ同時だった。


「ちゃんと食えよ……待っててやる、から」


(神田さん、どうしましょう、今分かりました、わたし、)
×