「なあ、ナマエ」
俺の呼びかけにすぐに答えたのは、ぱちぱちと薪がはぜる音だった。
数秒後に、肘掛椅子で本を読んでいるナマエが、小さな声で「なに」と返す。
俺はソファの上に投げ出した足を組みなおして、言葉の続きを準備する。しかし、吐き出そうとした何かは、言葉にはならずに、ただのうめき声で終わってしまった。
「どうしたの、パットフッド。犬みたいな声出して」
「べつに。お前、その本面白いの?」
「うん、面白いけど」
会話が一往復しても、ナマエは本から視線を外そうとしない。
俺は、天井に向けていた顔をゆっくりと横に傾けて、真剣に本に向き合っている彼女の横顔を観察することにした。
暖炉の暖かい赤色の光が反射して、なんだかいつもより綺麗に見えた。
瞳の中でもゆらゆらと光が煌いていて、その目で俺を見てくれればいいのにな、なんてジェームズみたいな気障な言葉が頭をよぎる。
ナマエは一度本の世界に入ると、なかなか帰ってこない。
それをいいことに、普段はまともに見れないこいつの顔を、ここぞとばかりに目に焼き付けてるなんて、こいつは欠片も気が付いていないんだろうな。
「あーあ、ジェームズいつ罰則終わんのかなー」
「さあねえ」
「ピーターはレポートだし、リーマスはそれ手伝ってるし」
「うん」
「ヒマだなあー」
「そっか」
談話室で二人きりなんて、こんなことは滅多にない。
今日はホグズミードの日だから、皆こぞって出掛けているし、1、2年生は実習中。
忍びの地図という武器を持っている俺たちにとって、決められた日に大人しく出かけることに意味はない。いつもなら、校内で悪戯の作戦を練ったり、湖でだらだらして過ごしたり、廊下に糞爆弾を並べたりするのだけれど、今日に限って他の仲間が出払っていた。
だから、談話室にはナマエと俺だけ。
全てもってこいのシチュエーションである。俺の冷静な頭が、今がチャンスだと伝えている。
それなのに。
もう一度ナマエを見れば、やはり本に釘付けで。あからさまにため息をついてみても、反応は薄い。
正直言って、悔しかった。
自分はこんなにも彼女の気を引きたいのに、ナマエはまったく自分に興味がないといった顔だから。
「な、ナマエ」
「…さっきから何なの、シリウス」
「女って、花束貰うとやっぱ嬉しいもんなの?」
彼女の肩が、小さく揺れた。それを見逃さなかった俺は、口の端を吊り上げて、声に出さずに笑った。
「…また、誰かに告白でもされたの?」
「ああ、でも断ったよ」
「だったら、急にどうしたの」
「いや、ジェームズがリリーの誕生日に何をあげるか悩んでたからさ」
なんだ。と小さく呟いた彼女は、張り詰めていた肩から力を抜いた。
おもしろい。彼女は気づいていないだろうが、そんな小さな動作ひとつひとつが、俺の気分を左右する。
それでも頑なに、ナマエは本から目を逸らさずに答える。
「リリーなら、なんだかんだ言って喜びそうね」
「お前は?」
あ。やっと、彼女の瞳が見れた。
思ったとおり、彼女の瞳の中では、星のような煌きがちかちかと輝いていた。
思い通りにいったことが嬉しくて、口の端が震えてしまいそうなのをなんとか抑える。ポーカーフェイスだ。
ナマエは一瞬だけ目をしばたいて、俺をじっと見つめたあと、小さく首を傾げた。
その姿がかわいらしくて、俺は心地よかったソファから立ち上がり、彼女の隣に立った。空いていた肘掛けに手をついて、彼女との距離を縮める。覆いかぶさるようにすると、ナマエの肩がまた小さく揺れた。
「花束、どう?嬉しい?」
「……シリウスがくれるなら、なんでも」
そう呟いた彼女の声は、きっと俺じゃなければ拾えないような、小さなもの。頬が少しだけ赤く染まっているのも、他の奴だったら暖炉の炎の色だと見間違えるだろう。
彼女のこういう素直で可愛いところ知っているのは、俺だけ。そう思うと、たまらなく高揚した。
今度は自然と浮かんでくる笑みを抑えることはしないで、片手の杖を小さく振った。アクシオ、と呟く。
男子寮のほうから、ふわりと花の香りが漂ってくる。
ものすごいスピードで俺の手元に飛んできた花束は、階段にいくつもの花びらを花吹雪のように散らしていた。
色とりどりの花吹雪の中で、ナマエは呆気にとられて、口を少し開いたまま固まっている。彼女の頭の上に、ふわりとバラの花びらが着地した。
俺はそれを限りなく優しい手つきで払い、硬直しているその手から本を奪って、両手で抱えるほどの花束を、そっと膝の上に置いた。
この愛しさが、誠実に伝わるようにと想いを込めて、恭しく礼をする。馬鹿みたいかもしれないけど、おどけてるわけじゃないんだ。余裕のある男に見せたいだけで、本当は心臓がうるさくて死んでしまいそうだ。
でもしんだっていいから、とにかく俺が、俺だけが、彼女を喜ばせたい。
「付き合って一年の記念に、花束などいかがでしょうか、お嬢様」
「……よろこんで」
記念日とか、忘れてるんだと思った。と眉を下げて笑いながら花束を抱える彼女を、両腕でぎゅっと強く閉じ込めた。
彼女が俺を選んでくれた大切な日を、俺が忘れるわけがないだろう。
なんて、気恥ずかしくて、絶対に言わないけど。