映画を観終わったあと、駐車場に停めた車の中で、"婚約者"の細かい設定を詰めた。
安室透となまえの出会いから付き合うまでの流れ、これまでどんなところにデートに行ったか、どんなことで喧嘩をしたか、プロポーズはどうだったのか。
降谷が用意した設定は完璧だった。細かすぎるほどのそれは、ありふれているけれど少しスパイスも効いていて、現実的なのにまるで小説のようでもある。なんの綻びも、矛盾もない。完璧人間はこんな才能もあるのか、となまえは素直に感嘆した。

「一晩で覚えられるな?」
「ええ、まあ……」

スマホに送られた設定資料の文字を追いながら、なまえは頷く。Excelでシート分けされたデータは、几帳面な降谷の性格を物語っていた。索引も難なくできそうである。
すべてのシートにざっと目を通し、なまえは顔を上げた。

「…降谷さん、私自身の設定が書かれていないのですが」
「ん?」
「私は、どんなキャラクターでいればいいですか?」

半年で姿を見なくなっても、不仲を疑われない関係性。周りから「あんなにいいカップルなのだから、別れるわけがない」と思わせなければならない。そのためには、なまえ自身の立ち振る舞いも需要だ。

「みょうじは、そのままでいいよ」
「そのまま?」
「特に誰かを演じる必要はない。嘘は少ないほうがいいからな」
「でも、安室さんのファンとトラブルにならないためにも、"お似合い"の女性を演出しないと…安室さんの好みの女性ってどんなタイプですか?」
「…そういう話題は躱してきているから、大丈夫だ」
「でも…」
「僕がいいと言うんだから」

降谷は表情こそ柔らかいものの、その声音には有無を言わせぬ圧力があった。
女性の妬みを軽く見てるのではないか、となまえは言いたくなったが、そこは自分がうまく立ち回ればよいことだ。降谷に指示されなくとも、それくらいはできると思い直す。

「…分かりました。極力、敵を作らないように、気をつけます」
「君はほんと、真面目だな。まあ、僕が君以外眼中にないって振る舞えば、よっぽど大丈夫だろう」

ハンドルの上に両腕を置き、上半身をもたれ掛けさせた降谷が、悪戯っぽい瞳でなまえを見上げる。反応を楽しまれていることは明白だったが、先程彼のことを"かっこいい"と思ってしまったからか、なまえの心臓は意志に反して跳ね上がる。芸能人にときめくようなもの、と心の中で唱えて、にっこりと笑顔を返す。

「私も、頑張って安室さんにゾッコンになりますね」
「はは、頼んだよ」

降谷の言うとおり、この作戦はどちらかといえば「安室がいかに婚約者を大事にしているか」のほうが重要になるだろう。なまえが安室のことをどれだけ好きであろうと、周囲の女性には関係がない。

「(……その好意を、私がいかに自然に受け取るか、か…)」

今更になって、この任務が、自分にとっていかに難題であるか、なまえは気がついた。

彼から逃げ出したいのに、彼のことを好きにならなければいけないなんて。





人の多い電車に乗るのは久しぶりだった。
昨夜、降谷から突然言い渡された休日を、なまえは持て余していた。観に行こうと思っていた映画も観てしまったし、行きたいカフェも思いつかない。婚約者用の洋服でも見繕うかと、都心の駅周辺に向かうところだった。
電車はほぼ満員で、立っていても人とぶつかるほどであった。
手元の本に目を落としていたが、ふと、違和感を感じて顔を上げる。

「(……痴漢だな)」

壁に背を向けて立っている女性に、男がぴたりと張り付いていた。その右手が女性の尻のあたりで不自然に動いているのを確認し、なまえはゆっくりとその二人に近付く。怖くて声が出せないのだろう、女性の身体は小さく震えている。

公安をしていると、こういう時に警察手帳を出せないことがもどかしかった。
なまえは持っていた鞄を、女性と男の間にぐっと割り込ませた。それから、男の腕を強く掴み、周囲に聞こえないように声を落とす。

「見てましたよ。次の駅で降りなさい」

なるべく冷ややかな低い声を作ると、男の肩が大きく揺れた。大事にすると、女性のほうが困る場合もあるため、なまえは黙り込む男にそれ以上言及しなかった。電車がゆっくりと減速し、ちょうどなまえたちが立っている側の扉が開く。

「………くそっ!」

扉が開いた瞬間、男がなまえの腕を振り払い、女性を押しのけて飛び出した。電車を待っていた乗客たちが、迷惑そうに顔を歪めて男を避ける。なまえはすぐに反応して、その後を追った。難なく追いつくと、男の肩を掴む。振り払おうと襲ってきた腕を掴み、捻りあげると、体重をかけて男の体を地面に叩きつけた。床に伏せて、腕を後ろ手で押さえつけられた男は、目を白黒とさせてぽかんとしている。

「(…本来なら、業務執行妨害なのに)」

往来の捕物劇に、周囲がざわめきはじめている。駅員がそれを掻き分けて来ているのを確認して、なまえはほっと息をついた。染み付いた公安としての習慣から、人に注目されるのは苦手だった。被害者の女性から説明をしてもらって、なるべく早く立ち去りたい。

「……あの!」

大きな声に振り向くと、黒髪の女性が後ろに立っていた。服装からして、被害者の女性。気遣う言葉をかける前に、なまえは彼女の顔を見て言葉を失い、自分の不運を嘆いた。最初に頭に浮かんだのは、「設定書を一晩で全部暗記しておいてよかった」だった。

「あの、もしかして、安室さんの……?」

なまえは、一度会った人の顔と名前は忘れない。
榎本梓。ポアロで働く、安室透の同僚だった。





「それでね、バァァンってなまえさんがその人を床に押さえつけて、とっってもかっこよかったんです!」

キラキラと目を輝かせる梓の話に、整った笑顔を崩さずに安室が相槌を打つ。なまえはその二人の前で、出された珈琲をいたたまれない気持ちで飲んでいた。安室と目を合わせるのが恐ろしくて、コーヒーカップの中ばかり覗き込んでしまう。

「お礼したいって言ったんですけど、なまえさん断るから、無理矢理ポアロに連れて来ちゃいました!ごめんなさい、ケーキが売り切れで…」
「そうでしたか。急に二人で来たから、びっくりしましたよ」
「ふふ、なまえさんから、お二人のいろんな話、聞いちゃいましたよ!」

梓が、ふふふと嬉しそうに笑う。

「へえ、どんなことを話したんだい?」
「……内緒」
「なんだよ、気になるな」
「プロポーズの言葉とか、ねー」

彼女の積極性はすごかった。潜入捜査で作成する設定書は、たいていの場合、細部まで活躍することはない。自分の中で辻褄を合わせるために利用することが主で、暗記した設定書がここまで日の目を見ることは稀だった。

「こんな素敵な彼女を秘密にしてたなんて、安室さんズルくないですか?」
「ズルいって…」
「まあ、他の人に見せたくないのも分かりますけどね」

こんなに美人だと、毛利さんとか鼻の下伸ばしそうだもん。
梓がにこにことして名前をあげた人物を、なまえはよく知っていた。毛利小五郎。安室が弟子入りしている探偵。

「あら、噂をすれば…」

カラン、とドアベルが鳴って、入り口に顔を向けた梓が目を丸くさせた。捜査資料やテレビなどさまざまな場面で見知った男が、グレーのスーツに身を包んで立っていた。しかし、なまえの視線はその隣ーー大きな眼鏡をかけた、小学生くらいの男の子に固定される。
江戸川コナン。NOCリストが黒の組織に渡りかけた事件で、大きな活躍を見せた少年だった。





なまえは、あの日のことをどうしても忘れられない。
警察庁内に侵入の恐れがあることを、なまえは事前に気が付いていた。警察庁のデータベースに、何度か外部からアクセスを試みた形跡があったのだ。外部からの接続を諦めたあと、次の行動は物理的な侵入。それに気が付いていながら、その犯人を抑えるため、あえて侵入させることを提案したのもなまえだった。
その結果が、あれだ。
降谷と風見は、捕まえられなかった自分のせいだと言ったが、NOCであると疑われた降谷と、しばらく連絡がつかなくなったあの時間を思い出すと、今でも喉が凍ったように息ができなくなる。転がっていく観覧車も、炎の上がる残骸も、傷だらけで帰ってきた降谷の姿も、震えるような記憶として染み付いている。
降谷零は、簡単に死んでしまうかもしれないのだという、事実と共に。

「……お姉さん、どこかで会ったことある?」

毛利小五郎に紹介され、簡単な世間話に興じていると、コナンがなまえの顔をじっと見上げて首を傾げた。

「お、なんだ?ガキが一丁前に口説いてんのか?」
「ち、ちがうよ」
「ふふ、安室さんと一緒に歩いてるところとか、見てたかもしれないね」
「うーん…」

コナンは不服そうに眉を寄せる。
あの事件で、なまえは臨場していた。事態収集のために、風見と共に動いていたところを、見られていてもおかしくはない。現になまえは、あの場でコナンの姿を確認していた。

「それにしても、安室くんにこんな美人な婚約者がいたとは」
「ほらあ、毛利さん絶対そう言うと思った!」
「だめですよ、毛利先生」

がっちりと手を握る毛利の手を、丁寧に退けながら、安室はなまえの肩に手を回した。ぐいっと引き寄せて、抱え込むようになまえの頭に顎を乗せる。

「僕のお嫁さんなんですから」

なまえからは見えなかったが、おそらくにっこりと端正な笑顔を浮かべていることだろう。余裕があって愛情深い男の演出。こういう場面でどういう顔をすればいいのか、なまえは表情に困り、曖昧に視線を泳がせる。頬が熱いことは気付きたくなかった。

「なまえ、もうシフト終わりだから、送っていくよ」
「う、うん」

待ってて、と背中を叩いてバックヤードへと入っていく安室を見送って振り返ると、ぱちりと梓と目が合う。彼女は目を丸くして、ぽかんとした顔をしていた。

「びっくりした…」
「え?」
「安室さんも、ああいう顔するのね」

困惑するなまえに、梓は驚いた顔を引っ込めると、悪戯っぽく笑った。

「笑顔なのに目が笑ってなくて、嫉妬してますってかんじ。ふふ、なまえさん、愛されてますね」



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