「ひどい顔だな」

運転席のドアを開けた降谷が、開口一番にそう言った。
まるで、なまえが不機嫌な顔をしていることを予め見越していたような苦笑いだった。

「……誰のせいだと」
「はは、僕だな」

なまえは眉間の皺を崩さず、黙って車のキーを渡した。エンジンがかかり、静かな駆動音が身体を揺らす。

「シートベルト」
「あ、はい…え?」
「いつまでもここに停まっていたら、怪しまれるだろう」

なまえは言われるがままにシートベルトを回した。降谷の意見は至極当然だが、彼の運転する車に大人しく運ばれるのは、なんだかとても癪だった。
彼を待つ間、冷静に状況を分析した結果、ここまでの全てが降谷の描いたシナリオ通りだと分かってしまっていたから。

「降谷さん、ちゃんと説明してくれますよね?」
「ああ…まあ、君の考えているとおりだけど」

赤信号で車を停めると、ぱっと顔を向けた降谷が、なまえの目をじっと見つめた。

「君に、安室透の婚約者を演じてほしい」

あまりの真剣な瞳に、なまえは思わず目を逸らした。脳裏に、安室透の柔らかい微笑みが焼き付いていて、目を合わせるのが無性に恥ずかしかったのだ。
怒っていると捉えられたのか、降谷がそのまま言葉を続ける。

「最近、商店街の関係者から見合い話が来るようになって…街中でも、女子高生から写真を撮られそうになるし、困っているんだ」
「女性にいい顔をしすぎなんじゃないですか?」
「…潜入先の人間関係は、良好にしておくに限るだろう」

否定はしないところを見ると、どうやら安室透は女性に強く出られない性格であるらしい。休日に商店街の野球に駆り出された風見の話からしても、安室透の立ち位置がなんとなく読み取れた。人間関係は良好であるに越したことはない。けれど、それで潜入捜査がやりにくくなってしまっていては、元も子もない話である。

「(降谷さんは、そんな立ち回り方しないと思っていたんだけど)」

なまえは小さく息を吐くと、一番気になっていたことを口にする。

「私の退職は、どうなるのでしょうか」
「もちろん、退職まででいい。半年でどうだ?それまでに、君の存在を周囲に認知させてくれればいい」
「そのあとは?」
「不仲を疑われないように君が演じてくれさえすれば、僕がどうとでもするさ。退職後は九州に帰るなら、東京で鉢合わせすることもなく好都合だ」

降谷は道の先を見つめたまま、自信ありげに口角を上げた。
彼の求めている仕事の内容はよく理解できたが、なまえはどうしても気持ちが収まらなかった。これが職務の関係性でなければ、今すぐに車を停めさせているところだ。

「それなら、こんな騙し討ちみたいなやり方しなくても」

騙し討ち、と降谷が小さく繰り返して口をつぐんだ。とんとん、と彼の人差し指が静かにハンドルの上でリズムを刻む。言葉を探しているときの、無意識の彼の癖。

「先に説明してもらえてたら、もっとちゃんと準備したのに」
「今日急に婚約者役が必要になった、とは考えないのか?」
「降谷さんに限って、そんなピンチ起こりえないですよね」

降谷が再び口を閉じる。
彼の掌の上で転がされたのが、どうしても納得がいかなかった。なまえは、彼の協力者であるはずだった。相談してもらえる立場のはずだ。

「……騙し討ち、は悪かった。けど、事前に説明したとして、君はこの仕事を受けていたか?」
「え?」
「僕を言い包めて、他の女性をあてがったんじゃないのか?」

赤信号で彼が踏むブレーキは、嘘みたいに静かだ。なまえは車が停まっていることに、降谷の視線で気が付いた。確信をつくような瞳。そういえば、彼の瞳が不安げに揺れるところをなまえは見たことがない。

言い包める、のは想像ができないけれど、他の人を推薦することは容易に考えられた。むしろ、今でもそうしたい。他の誰よりもなまえは自分自身が不適任だと思っていた。安室透が必要なくなるその時まで、全うできる人の方がいいに決まっている。

「それは…そうかもしれません。でも、」
「僕は、みょうじ、君に婚約者役を任せたいんだ」
「………」
「君のことを、一番信頼しているから」

信号が青に変わり、降谷の視線は前を向いたので、その言葉が本心かどうかなまえには判断が付かなかった。
「またまた」と冗談で流せばよいのか、「光栄です」と受け止めればいいのか、分からない。それでも、なまえにとってそれ以上の強力な言葉がないことは変わらない。強張っていた身体から力が抜けて、そこで初めてなまえは背もたれに背をつけた。

嬉しい、けれど、同じくらい苦しい。
彼はやっぱり、切り札を使うタイミングが上手い。残酷なくらいに。

「それを言われたら、私だって、さすがに断りませんよ…」
「はは、どうだろうな」

降谷が前を向いたまま、薄く笑う。鋭い瞳は変わらないのに、どこか寂しげにも見える表情に、なまえは返答の言葉を失くした。
彼のやり方に、これ以上文句が言えなくなってしまう。もう全てが今更だった。
婚約者役を断って、降谷の潜入捜査を邪魔するなんて、なまえには冗談でも考えられなかった。
しん、と静まり返った車内に、いつのまにか小さな音でFMラジオがかかっていた。

「そういえば、どこに向かってるんですか?」
「どこって…言っただろう、映画だよ」
「……へ?」

降谷がラジオのボリュームを少し上げる。
少し意地悪そうに瞳を細めて、彼が笑った。

「君が婚約者だって、見せびらかさないとな」





複合施設に隣接された映画館は、土曜日の夕方であることも相まって混雑していた。客層が若く思えるのは、昨日から公開されている、人気若手俳優が主演の作品の影響だろうか。
「あむぴ」と小さな声が聞こえて振り向けば、女子高生二人組がこちらをチラチラと伺い見ていた。

「……あむぴって呼ばれてるんですか?」
「あー…」
「女子高生の距離感、恐ろしいですね…」
「そうなんだよなあ」

困っていることを素直に表情に出す彼は、すっかり安室透の佇まいだった。いつのまにか買ってくれていたコーヒーを差し出す彼は、どこからどう見ても物腰の柔らかな好青年だ。
ポスターの中央で爽やかに笑う若手俳優を見上げて、おそらく歳下だろうが、「安室の方がイケメンだ」となまえは思った。女子高生がニックネームを付けて距離を詰めたがるのも納得である。

「私たちも、この映画を観るんですか?」
「いや、僕たちはこっち」

手渡されたチケットを見て、なまえは目を丸くした。ミステリーシリーズものの最新作。なまえがなんとしても時間を作って映画館で見なければと思っていた作品だった。思わず取り繕う前の言葉が飛び出す。

「わ、観たかったやつ!」
「どうせなら観たいやつがいいだろ」
「しかもDolby!…あれ、ふ…安室さん、先月はこのシリーズ観てないって言ってませんでした?」
「ああ、あれから観たよ。スピンオフまで全部」
「え、かなりありますよね!?」
「9作だったかな」

驚くなまえをよそに、降谷はその反応を楽しむようにニコニコとしている。
公安の仕事とポアロと探偵の仕事、そして組織の仕事をこなしたうえで、一ヶ月の間に映画を9本観るその気力が恐ろしかった。タイムマネジメントに秀ですぎている。しかもミステリー映画なんて、彼にとっては気晴らしにもならないだろう。

「ふ…安室さんって、興味持つとそこから早いですよね…」
「まあ、完璧に制覇しないと気が済まないかな」
「でも、制覇すると、すぐにやめちゃいません?もったいない」
「…心外だな。本当に好きなものは、やめないよ」
「たとえば?」

降谷の顔を覗き込むと、彼が少し目を見開いた。何かを言いたげになまえの顔をじっと見返したあと、ふいと顔を逸らす。

「……料理とか」
「なるほど」

なまえは彼の手料理を食べたことはなかったが、その料理へのこだわりは、風見からよく聞いていた。お弁当をもらうこともあるらしい。忙しいのに凝ったことをしてしまうのが、彼らしいなとなまえは思っていた。言い表すなら、凝り性で負けず嫌い。機嫌を損ねそうなので、口にはしないけれど。

「……何か失礼なこと考えてないか?」

じとりとした目で降谷が見るので、なまえは曖昧ににこりと微笑んでおいた。
彼は浅くため息をつくと、ちらりと後ろを見る。こちらの会話は聞こえていないだろうが、先程の女子高生たちが後ろを着いてきていた。なまえは振り返らずに、彼の次の行動を待った。

「じゃ、行こうか、なまえ」

唐突に彼から飛び出した、跳ねるような明るい声にびっくりする間もなく、右手が攫われる。指と指が絡められて、手のひらがぴったりと合わさり、降谷の大きな手に包まれる。突然の熱に反射的にその手を振り払いそうになり、なまえは慌ててぐっと堪えた。なんでもないように握り返したいのに、耳元で心臓がひどくうるさい。いい歳をして、こんなことで頬が赤くなるなんて情けないところを、彼に知られたくない一心で、なまえは顔を背けた。

「……先に言ってくださいね」
「早く慣れてくれ」

繋いだ手を少し持ち上げて、にっこりと笑った彼には、動揺が伝わっているのかもしれない。なまえはため息をひとつ落として、骨張った大きな手を握り返した。



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