「梓さん、紹介します。僕の婚約者のなまえさんです」

大きな手のひらが、ぐっとなまえの肩を引き寄せた。テレビCMに映るお手本のような、爽やかで人の良い微笑みを浮かべた男のことを、悪魔のようだと思ったのは、きっとこの場でなまえだけだろう。肩を引き寄せる指先が痛いくらいに強いのも、おそらく誰にも気づかれていない。
この男ーー降谷零という男を、なまえは誰よりも理解している自負があった。しかしそれは自惚れだったのかもしれない。彼がいかに用意周到で、思惑通りに事を進めるのに秀でているのか、今更身をもって思い知るなんて。

「(……してやられた)」

なまえが後悔を顔にする前に、降谷が自然な動きで金色の髪を左耳にかけた。"話を合わせろ"という暗黙の合図。そんなこと、言われなくても分かっている。

「はじめまして」

目をまん丸くさせて固まっている、"梓さん"と呼ばれた女性に、なるべく穏やかに笑いかける。咄嗟に頭にイメージが浮かんだ、ゼクシィの表紙の女性。嫌味のない、好印象の塊のような笑顔。同じように上手く笑えているはず。隣の上司に、嫌というほど叩き込まれたのだから。

ああ、本当に、どうしてこうなったのだろう。





数日前、なまえが辞職について口にしたのは、その時が初めてではなかった。もう半年も前から、なまえは折を見て辞めたいとこぼしていた。
少しずつ小出しにして、外堀を埋め切ったなと思ったところで、切り札のように本題を出す。降谷から教わった交渉術だった。きっとそうだろうな、と前々から想像していた相手は、本題を頭ごなしに否定することができなくなる。

「警察を、辞めることにしました」

何度も頭の中で反芻した言葉なのに、吐き出すとなんだか霞みたいな言葉だった。
もっと緊張して声が震えることも予想していたが、なんだか他人事のように心臓は静かだった。

「……辞めて、どうするんだ?」

シュミレーション通り、降谷は否定しなかった。
驚くでも悲しむでもなく、心情の読めない顔で、愛車であるRX-7にゆっくりと背中を預け腕を組む。庁舎で顔を合わせるのは随分久しぶりだったけれど、前回会った時より疲れていることしか、なまえには分からなかった。

「実家に帰ります」
「九州だったか」
「はい」

そうか、と短い返答のあと訪れた沈黙に、なまえは慌てて言葉を探した。用意していた言い訳を並べる前に、先に口を開いたのは降谷だった。

「分かった。上には僕から話しておこう。時期はもう決めたのか?」
「例の捜査がひと段落したので、後処理が終わったらと」
「了解した」

それだけを言うと、降谷はスマホに目を落とした。この話題はこれで終わり、とでも言うように、彼の意識が小さい端末の中に吸い込まれていく。それでも車に乗り込まない彼に、なまえは思わず、予定していなかった話題を続けてしまった。

「……降谷さんは、警察を辞めるのを良しとしないと思ってました」
「なぜ?」
「だって…降谷さんは、この仕事が全てですし」
「僕にとって全てだとしても、君の人生は別物だろう」

なにを当たり前のことを、と言うような口調だった。君の人生、と明確な線引きを置かれたことで、降谷の無干渉さが浮き彫りになる。

「これまで散々根回ししておいて、君の決心が揺らぐとも思えないからな」
「気付かれてましたか」
「まあ、な」

ふと、スマホの画面をスクロールしていた指が止まる。

「それとも、引き留めてほしかった?」

直前まで無表情で画面を眺めていた降谷が、前触れなくなまえの顔を覗き込んだ。からかうように歪んだブルーの瞳が、見透かすようにじっと見つめる。なまえは心まで覗き込まれないように、ぐっと奥歯に力を入れた。

彼のこういうところが、苦手だった。
ひどい執着心を見せたかと思えば、不要なものをあっけなく手放す淡白さも見せる。掴めない人、とひとくくりにまとめるには、彼はあまりにも複雑だ。覚悟はしていたが、彼にとって自分が後者の存在であったことに、傷ついていないと言えば嘘だった。でもそれは、絶対に、なにがあっても、降谷本人にだけは悟られたくはない。

「まさか。降谷さんこそ、私がいなくて大丈夫ですか?」
「はは、困るだろうなあ」

うそつき、となまえは心の中だけで呟いて、にこりと微笑む。
彼が困るところなんて、微塵も想像ができなかった。動かせる駒がひとつ減るだけ。彼にとってはたったそれだけのことだろう。優秀な警察官なんて、他にいくらでもいるのだから。

彼の”唯一”になれないことに苦しむのは、もううんざりだった。

「後任の選出はどうしましょうか」
「こちらで検討するから、ひとまずは風見に引き継いでくれ」
「風見さんに?警備企画課内で引き継がないんですか?」

風見の所属する公安部と警備企画課では、同じ公安といっても可能な仕事の幅が変わってくる。風見が表に出るための右腕だとしたら、なまえは裏側での右腕といえるような仕事の棲み分けをしていた。すべてを風見に渡せるわけではないし、特殊な仕事だってある。業務量を考えても、別の誰かを見つけた方が良いに決まっている。

訝しがるなまえに、降谷は薄く笑った。

「……そのうちな」





緊急の呼び出しがあったのは、それから数日後のことだった。
なまえはポアロに足を踏み入れたことがない。偽名を使って”安室透”の助手を演じるのは風見の仕事だった。客として来店して、USBを受け渡す指示。これまでにない指示に疑問を持ちつつも、指定された時間にポアロのドアを開ける。
カラン、と落ち着いたドアベルの音が、どうしてか緊張を呼び起こした。

「いらっしゃいませ」

すぐに視界に入った金色の髪の男に、なまえは息を呑んだ。
ラフなTシャツに、紺色のエプロン。両手にコーヒーカップとショートケーキの乗った皿を持ったまま、降谷ーー安室透はにっこりと柔らかく微笑んだ。
頭では、客としてなんでもない顔を作らなければならないのは分かっていた。分かってはいたが、身体が凍り付いたように動かなかった。

「(……そんな顔、できるんだ)」

当たり前だ。降谷は潜入捜査のプロだ。いくつだろうと顔を使い分けられることを、なまえはよく知っていた。それでも、安室透が浮かべた微笑みはあまりにも自然で、一瞬別人なのではないかと疑ってしまう。
常に死と隣り合わせで、目を離したらすぐに居なくなってしまいそうな、なまえのきらいな降谷零は、そこにはいなかった。目の前の男は、まるでなんでもないことのように、平凡で幸せな人生を送れそうな人に見える。

それがたまらなく残酷な嘘に思えて、なまえは喉が震えてしまいそうになるのを、ぎゅっと下唇を噛んで耐えた。

「いらっしゃい」

給仕を終えた安室が、ドアの前で固まるなまえに歩み寄って微笑む。にこり、とかろうじて当たり障りのない笑顔を返すと、視線のやり場に困ったなまえは空いている席へと目を移した。早くここを立ち去りたかった。「梓さん、」と、安室が厨房に向かって声をかける。

「紹介します。僕の婚約者のなまえさんです」

梓さんと呼ばれた女性の手から、カランと音を立ててフォークが落ちる。喉まで出かかった言葉を、なまえはすんでのところで飲み込んだ。代わりに厨房の彼女が、「婚約者?」と聞き返してくれる。

「えっ、婚約者って…あの婚約者ですか!?」
「はい、その婚約者です。驚きました?」

あはは、と悪気なく楽しそうに笑う安室に、彼女はぽかんとした顔で目を丸くさせている。なまえだって、安室透に婚約者がいる設定を、いま初めて知ったのだ。一番最悪なタイミングで。

「はじめまして。安室さんとお付き合いをさせていただいている、なまえです」
「あ、榎本梓です!…え、安室さん、彼女いたんですか!?」
「ええ、実は」

ゼクシィ女優の微笑みを作り上げながら、なまえは急ピッチで安室透の理想の女性像を分析していた。オフィスカジュアルな服装で来たのは間違いだったかもしれない。いやむしろ金銭的にも頼れる年上のバリキャリを演じるべきなのか。それとも庇護欲をそそる大学生か。
降谷が自分に求めているものが分からなかった。あまりの説明不足に内心に湧き上がる抗議の声を押し殺し、なまえは完璧な微笑みを浮かべ続け、安室の言葉を待つ。

「えー!大ニュース!いつからお付き合いを?」
「それはまた追々。この後映画の約束をしてるので、今日はもうあがってもいいですか?」
「あ、だから今日ラストまでのシフトじゃないんですね!もちろんです」
「ありがとうございます。なまえ、準備をするから、車で待ってて」

なまえ、とさらりと呼ばれた名前と、恋人に向けるとびきりに優しい視線に、反射的に心臓が跳ね上がる。彼の顔の良さをここまで痛感したのは初めてだった。微笑めば大抵のことは許されるような顔をしている。手渡された鍵は、確かに彼の愛車のもので、促されるままそれを握り、処理の追いつかない頭をなんとか回しながら頷くと、安室がそっと耳元に唇を寄せた。

「…勝手に帰るなよ」

先程までの甘い声から180度ひっくり返ったような声音に、この人は降谷零とは別人なのではと少しでも戸惑ってしまったことを、なまえは恥じた。彼はまごうことなきなまえの上司だった。
己のことには淡白で、目的のためなら手段を選ばない。どれだけ強く手を握っても、簡単にすり抜けて消えてしまいそうな人。

大きらいになりたかったのに、最後まできらいになれなかった、なまえの"唯一"の人、降谷零その人だった。


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