いつのまにか始まった梅雨が、知らないうちに通り過ぎた。
その梅雨明けが、例年よりも2週間ほど早かったのだということを、降谷はなまえの口から聞いて初めて知った。彼女だって、めまぐるしい日々を必死になって乗り越えているはずなのに、ゆったりとした口調で夏の到来を喜ぶ彼女の顔を見たら、忙しくて忘れていた呼吸を取り戻せるような感覚がした。言われてみれば、本当だ、蝉の音が聞こえる。

「どうりで日が長いわけだな」
「だねー。雨の重装備訓練もキツかったけど、これからの時期はもっとやばそう」
「そうだな。熱中症に気をつけろよ?」
「降谷くんもね」

とりとめのない会話をしながら、ファミレスから警察学校までの道をゆったりと歩く。
あれから、ファミレスでの二人きりの勉強会は、毎週続いていた。最初こそ遠慮していたなまえだが、降谷が計算して準備した"断る理由がない状況"に、彼女はあっさりと勉強会の定期的開催を受け入れた。
松田との会話を見ている限り、懐に入れた人とは距離感がぐっと縮まるタイプだと分析し、降谷は少しずつ彼女の"遠慮しなくていい対象"になろうと努力をしていた。それが意外ととても難しく、なんてことないことのように多数の人の心を掴む萩原が、すごい人物なのだと改めて実感するのだった。

「(…僕は、なまえの関心を向けさせるだけでも、こんなに苦労しているのに)」

恋心を自覚をしてからも、特に何かが大きく変わることはなかった。自分の中では世界がひっくり返ったような感覚だったが、だからといって理由もなく二人で出かけることも出来ないし、隣を歩く彼女の手を握ることも許されない。表に出せない降谷の心の中だけが、ずっと騒がしいままだった。

「あ、」

ふと、なまえが足を止める。
つられて振り向くと、彼女のつま先は、森に囲まれた神社の階段へと向いていた。鬱蒼と生い茂る木々の中を潜るように続く石段は、いつもは薄暗く人の気配は少ない。しかし今日は、階段の上の活気がここまで伝わってきていた。石段の両脇に並ぶ、点々と灯りはじめた赤い提灯が、吸い込まれるように入っていく人々の楽しそうな顔を照らしていた。

「お祭り、ちょっと寄って行かない?」

振り向いたなまえが、目を輝かせて可愛らしく笑う。
降谷は喜びで飛び跳ねそうな心臓を落ち着かせて、いいよ、とできる限り優しく見えるように微笑むのだった。




はじめて登った石段の先は、想像していたよりもずっと広く、いくつかの出店が両脇に並んでいて、スピーカーから流れる太鼓や笛の音が、より一層賑やかさに花を添えていた。浴衣姿も多い中、スーツに身を包んで歩くのは場違いな感じもしたが、なまえはさほど気にした様子もなく、祭りの独特な活気に目をキラキラとさせていた。

「降谷くん、何か食べようよ!やっぱチョコバナナかなー」
「さっきバナナパフェ食べただろ?」
「それはそれだよ」
「じゃあ僕は焼きそばかな」
「降谷くんこそガッツリじゃん!」

ころころと変わるなまえの表情は、見ていて楽しい。あれそれと、指を指す彼女につられて目を向ければ、自分の知らなかった世界を知れるような充足感があった。自分自身が一人の女の子にこんなにも振り回されるような人間だということも、降谷ははじめて知ったのだった。

「あれ、お兄さんたち…」

声をかけられて振り向くと、射的の出店から顔を覗かせた、ふくよかな体型の気前の良さそうな男が、ぱっと笑顔を浮かべた。

「やっぱり!こないだのコンビニ強盗で助けてくれたお兄さんたちだろ。いやーお兄さんの金髪は目立つからすぐ分かったよ!」

嬉しそうな顔でそう言うと、男は周りの出店に興奮気味に声をかける。どうやら、同じ商店街の顔見知りで集まって出店しているようだった。

「ほら、こないだ俺が話した!」
「ああ、警察学校の生徒さん!大活躍だったんですって」
「いや、僕たちは当たり前のことをしたまでで…」
「皆さん、ご無事でよかったです」

興味津々に顔を覗き込んでくる女性に、降谷は少し困り顔で後ずさる。一方でなまえは愛想良くにこにことしていて、あしらい方が少し萩原に似ていた。

「それにしても二人ともお似合いねえ。ほら、あんまりデートの邪魔しちゃ悪いわよ!」
「デ、デートでは…」

なまえがぽっと頬を赤らめたのを、降谷は見逃さなかった。松田との関係を揶揄われたときは、心底嫌そうな顔をしていたことを思えば、悪くない反応だと言えるのではないだろうか。心の中でガッツポーズをしたいほど飛び立ちそうな気持ちを、降谷は冷静に手繰り寄せる。まだ、まだだめだ。

「お兄さんたち、よかったら射的やっていってくれよ!サービスするから…あれ?」

男の携帯が鳴り、しばらく会話をしたあと、エッ!と声をあげて男が目を見開く。何事だろう、と降谷となまえは顔を見合わせた。

「どうしよう…」

男がぽつりと呟く。縋るように見つめられ、頭では厄介ごとだと分かっていても、降谷の性分上「どうしました?」と返すしかなかった。





「え……お前らなにやってんだ?」

いらっしゃいませ、となまえが途中まで口にして、相手の顔を認識した途端、作った笑顔のまま動きを止めた。目の前に現れた人物たちに、降谷は額に手を当てた。なんてタイミングだ。

「あれ?ゼロとみょうじさんだ」
「みんな揃ってどうしたんだ…」
「それはこっちのセリフだよ!なまえちゃんと降谷ちゃん、二人で何してんの?」

降谷となまえが店頭に座る射的屋に顔を覗かせたのは、降谷と同じ班の四人だった。
普段、松田に向けることのない他所行きの満面の笑顔を浮かべたまま固まっていたなまえは、黙ったまますっと両手で顔を覆った。

「……陣平に営業スマイル見られた…恥ずかしい…もうお嫁に行けない…」
「お前の恥ずかしがるポイントってホント謎だよな」

隠し切れていない耳の先まで真っ赤にしたなまえが、ぼそぼそと喋る。松田の言うとおり降谷にもその羞恥心は理解できなかったが、小柄な彼女が一層小動物のように見えて可愛い。浮ついた思考を追いやって、きょとんとしている仲間たちに、降谷はことの経緯を話す。

「店主の娘さんの子供が産まれそうだからって、代わりの人が来るまで、店番頼まれたんだ…」
「知り合いの出店なのか?」
「いや……知らない人」
「あはは、ゼロらしいね」

ため息をつく降谷に、諸伏があっけらかんと笑う。そうは言うが、頼まれたら断れない性分は、ここにいる全員が同じだろうと降谷は思った。困っている人を無碍にできるような人間は、警察官になろうなんて考えたりしない。
顔を覆ったままのなまえの額をぐりぐりと人差し指で押しながら、松田が不機嫌さを隠さずに唇を尖らせた。

「それは分かったけどよ、なんでなまえとゼロが二人でいんだよ?」
「もしかしてデート?」
「「ち、ちがう!」」

ぱっと顔を上げたなまえと、降谷の声が重なる。重なった声に驚いて顔を見合わせれば、萩原がひゅうと口笛を吹いた。
邪魔される結果しか見えていないので、ファミレス勉強会のことは伏せておきたかったが、こうなってしまっては仕方がない。降谷はなまえと勉強会をしていたことと、その帰り道でたまたま寄ったのだということを丁寧に説明をした。ふーん、と松田が軽い口調で相槌を打つと、なまえの肩に乱暴に肘を置いた。いつもの距離の近さに、胃のあたりがチクリとする。

「ゼロも苦労人だな。こいつに勉強教えるの大変だろ?」
「失礼な!」
「いや、なまえは容量さえ掴めば、飲み込みは早いよ」
「降谷くん、神様…!」

なまえが松田の腕を払って、崇めるように降谷に向かって両手を組んだ。

「代わりの人はどれくらいで来るんだ?」
「あと30分くらいだって」
「そうか。腹減ってないか?何か買ってきてやろうか?」
「伊達くんありがとう。でも大丈夫、陣平が買ってきてくれる」
「は?なんで俺が」
「私の営業スマイルを見た罪で?」

なんでだよ、と松田がなまえの両頬をつねる。すぐにそれをやめさせようと手を伸ばしたくなるのを、降谷はぎゅっと拳を握って耐えた。恋心を自覚してからというもの、この二人の距離感に自分でも扱い切れない嫉妬心を覚えていた。前から感じていたらもやもやに、明確な名前がついたと言う方が正しいだろうか。
眉を顰める降谷に、諸伏がそっと近づいてこっそりと耳打ちをした。降谷とは相反して、なんだかやけに嬉しそうな顔をしている。

「ね、いつからみょうじさんのこと、下の名前で呼んでるの?」

自分の下心を直球で指摘されたような気がして、降谷は途端に居心地が悪くなり諸伏から顔を背けた。視界の端でにやにやとしている彼に、ぶっきらぼうに答える。

「………最近」
「そっか。"はっきり"、した?」

諸伏の言う"はっきり"が、いつかの食堂で萩原から言われた「はっきりさせるのは早い方がいい」という言葉を指しているのだと降谷はすぐに悟った。一瞬、誤魔化すことも頭に浮かんだが、付き合いの長い諸伏にそれが通用するとも思えず、降谷は素直に頷く。なまえに対する感情は、今や自分でも恐ろしいほどにはっきりしている。残酷なほどに、くっきりと明確に。彼女のことが好きで、たまらない。
てっきり茶化すだろうと思われた諸伏は、意外にも満足そうにニコニコと微笑んで「そっか」と返しただけだった。

「ね、降谷くんは何食べたい?」
「だーから、買わねえっつんてんだろ」
「陣平のケチ」

ころころと表情を変えるなまえは可愛い。けれど、可愛いと思えるのは彼女が自分の隣にいる時に限る。なんて現金なんだと己に呆れつつも、それが素直な感情だった。自分がこんなにも独占欲が強く嫉妬ばかり妬く男だということも、なまえと出会って初めて知ったことだった。彼女の意識の先を、どうやって松田から奪い取れるか思案する。

「なあ、ゼロ、勝負しようぜ」

突然の松田の提案に、どきりとした。
彼は射的の鉄砲を拾い上げて、離れた雛壇に並んだ色とりどりの的を指差す。大小さまざまな丸い的の中央に、点数が書かれている。
降谷は一瞬心を読まれたような気持ちになり言葉を詰まらせたが、ただの射的勝負だと分かると肩から力を抜いた。

「5発で、得点の高い方が勝ちでどうだ?」
「いいよ。何を賭ける?」
「…焼きそば?」
「はは、盛り上がりに欠けるな」

降谷はそう言いながら自身も鉄砲を持ち、テーブルの隅に200円を置いて、銃の先にコルク栓を詰める。些細なことでも勝負と言われて火がつくのは、降谷も松田も同じだった。
あ、じゃあさ、と萩原が明るい声を上げた。

「勝ったほうがなまえちゃんにひとつお願いを叶えてもらえるとかどう?」
「え、わたし?うーん…別にいいけど」
「(…いいのか)」

あっけらかんと答えたなまえに、降谷は内心でつっこんだ。

「負けたほうは、私の言うことひとつ聞く、ならいいよ」
「おう、いいぜ」
「なまえがいいなら…」

しっかりと自身に損がない提案をするなまえはさすが抜け目がない。思わぬ展開に心がそわそわとしたが、それを表に出さないように降谷はこっそりと細く息を吐いた。
はいじゃあスタート、とのんびりと笑う萩原の声を合図に、降谷は迷いなく一番得点の高い的に銃口を向けた。





あと10分で花火が上がるというアナウンスがかかり、境内を歩いていた客たちが、思い思いの場所に腰掛け始める。降谷となまえは、屋台のテントから少しはみ出すようにパイプ椅子を並べて、空を見上げた。少し木々が視界を遮るが、店先に空間がある分、他より快適に思えた。

「降谷くんも食べてね」

差し出されたたこ焼きをひとつ摘む。少し冷め始めて味の落ちたそれも、祭りならではだと思える。満足そうに頬張るなまえの横顔に、つられるように頬の筋肉が緩む。

「陣平の悔しそうな顔、よかったなー」

にやにやと笑いながら、なまえがジュースを啜る。彼女の両手に抱えられている、たこ焼きやジュースや焼きそばは、降谷との勝負に負けた陣平がなまえに言われて買ってきたものだった。
降谷が5発とも最高得点の的を撃ち、松田も同じくすべて高得点の的に当てたが、ひとつだけ的が後ろに倒れなかったのである。厳しいジャッジの末、すべての的を倒した降谷の勝利となった。

「食べ物でよかったのか?」
「うん。あんなに買わない!って言ってたのに、渋々たこ焼きの列に並ぶ陣平おもしろかったー」

ふふふ、と悪戯っぽくなまえが笑う。
そんなものいくらでも僕が買うのに、と言いたくなったが、その様子が可愛らしかったので黙っておく。

代わりの人はまだ来ない。
しかし降谷にはそのほうが好都合だった。一分一秒でも長く、二人でいる理由ができる。そうでなければ、並んで花火を見るだなんて、叶うことはなかっただろう。

「(ヒロに何か奢らなきゃな…)」

上手いこと他のみんなを連れ出して、二人きりにしてくれた親友に心の中で感謝をする。

「それで、降谷くんのお願いは?」
「え?」
「降谷くんが、私に叶えてほしいお願い、なに?」

なまえが柔らかく笑う。その顔は、到底降谷に下心があるだなんて考えてもいないだろう、あどけないものだった。降谷がコツコツと積み重ねてきた信頼の上に成り立つ笑顔。努力の成果のはずなのに、なんだかひどく寂しく思えた。
もっと、彼女を振り回したい。もっと戸惑わせて、恥ずかしがらせて、困らせたい。自分のこの気持ちに気付いて欲しい。男として見てほしい。でも、軽蔑だけはされたくない。もっと、もっと、近くに行きたい。
彼女への願いなんて、恐ろしいほどにいくらでも湧き上がってくる。

「そうだな……いつかのために、大事にとっておくことにするよ」
「ええ?その手があったか…!」

妙案だ、と素直に納得するなまえにこのドロドロとした欲望を悟られぬよう、降谷は浮かべた笑顔を崩さないように頬に力を入れた。上手く笑えていないかもしれないという不安は、彼女の瞳が空に上がった花火に吸い込まれたことで安堵に変わる。
キラキラと光を反射する彼女の瞳の、その美しさに息を呑む。

「僕の願いはーー」

次々と打ち上がる花火の音に、降谷の呟きは完全にかき消される。
声が届かないことを承知で、降谷が見ていることに気付きもしない彼女の横顔に向けて、薄く唇を動かした。

僕を、君の"特別"にして欲しい。

ほとんど音にならなかった声は、空気中に溶けて初めから生まれなかったことになる。
今年も花火が見れてよかった、と嬉しそうに笑うなまえに、降谷は精一杯優しく努めて、ただ相槌を打つのだった。


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