みょうじ なまえに対して、降谷が2番目に抱いた印象は"優等生"だった。なまえは剣道の技術は言わずもがな、何に対しても真面目で、体力と根性がある。周囲がよく見えていて班長としての役割もそつなくこなしているし、辛いときに周りを笑顔で励ませるだけの器もある。先日のコンビニATM強盗で、短時間で大人数を集めたことも、普段の彼女の人徳が成せたことだ。
毎年一人は出るという、抜きん出た能力のある優秀な女性警察官。彼女のような人をいうんだろうな、と降谷は思っていた。
しかし、その印象は早々に間違いだったと気付く。
なまえは、座学が苦手だったのだ。
「降谷くん、お願いがあるんだけど…」
授業終わり、教材を片付ける降谷に、深刻な面持ちをしたなまえが様子を伺いながら声をかける。教場が違う彼女が同じ空間にいることは新鮮で、少し驚く。
食堂で剣道の相手を打診した時と、随分と勢いが違う。とても言いにくそうに胸の前で両手を持て余してる姿をみて、降谷は内心で「やっときたな」と思った。
「どうした?」
「あの、本当に申し訳ないんだけど…ノートを貸してもらえないでしょうか…?」
「…ノート」
「降谷くんの努力を搾取するみたいで、ほんとに申し訳ないんだけど、勉強方法の参考にさせてもらえないかな?」
「いいよ、それくらい」
真面目だな、と降谷は苦笑した。
ぱっと顔を輝かせたなまえに、降谷は彼女を喜ばせられたことが嬉しくなりながらも、ここからどうするか考えていた。
降谷は彼女の真面目さを甘く見ていた。自分の見立てでは「勉強を教えてほしい」と来るはずだったのだ。彼女が頼みやすいように、色々とアピールもしていたはずなのに。
「陣平に相談したら、降谷くんのノート分かりやすいって聞いて。ありがとう、ほんと恩にきます…」
「……勉強、付き合おうか?」
もう、ストレートしかないな。
降谷が出した結論はそれだった。なまえは、きょとんとした後、「それは申し訳ないよ」と困ったように笑った。
「剣道だって、付き合ってもらってるのに」
「剣道はむしろ教えてもらってるよ。今週末、どうかな?」
「すごくありがたいけど…本当にいいの?」
松田には自分から相談するのに、僕には遠慮するんだな。
そう言いたくなってしまうのを、降谷はぐっとこらえた。
「僕から誘ったんだ、もちろんだよ」
「ありがとう!」
降谷くん、優しいね。困った顔から一転して、嬉しそうにキラキラと笑う。
ころころ表情が変わるところが、彼女の魅力のひとつだ。つられるように、無意識に降谷の気持ちも上向きになる。
多少強引だったが、笑ってくれてよかった。
「(…かわいいな)」
うわごとのように心に浮かぶ言葉を、声に出したら、何か変わるだろうか。
週末、降谷が勉強場所として指定したのは駅前のファミレスだった。
学校に自習室はあるが、学校の中では邪魔が入るのは目に見えている。なまえはわざわざ外出することを特に気にした様子もなく、「学生みたいで楽しそう」と喜んだ。
窓の外では、止む気配のない雨が降り続いている。
そういえばもう6月なんだな、と降谷はぼんやりと思った。いつのまに梅雨になったのだろう。忙しくて、そんなことを気にする余裕もなかった。
向かいに座るなまえは、降谷が貸したノートを真剣に読んでいる。あまりの集中力に、声をかけることも憚られて、手元のアイスコーヒーを喉に流しながら、降谷はその様子をじっと観察した。
「(あ、化粧してる)」
くるりと上を向いた睫毛がぱちぱちと上下する様子を眺めながら、自分に会うためだけに、普段しない化粧をしてくれたのか、と考えて心臓のあたりがぞわりとした。
淡いコーラルピンクに塗られた唇が、降谷の書いた文字を小声で読み上げるように控えめに動く。他人の唇なんて、特に注目して見るのははじめてだった。癖なのだろうか、彼女の左手の人差し指が下唇を何度か押す。柔らかそうなだな、と浮かんでしまった自分に呆れる。これは、もう、
「降谷くん、ここなんだけど、」
「えっ!?」
前触れなくぱっと顔を上げたなまえに、降谷は思わず大きな声を出した。
慌てて大げさに咳払いをして、「わるい、ぼうっとしてた」とかすれた声で繕う。なまえはきょとんとしたあと、困ったように眉を下げた。
「ごめん、貴重な休日に。暇だよね」
「いや、そうじゃない…」
「何か食べる?降谷くん甘いの好き?」
「え、ああ」
「そうなんだ、私も。季節のミニパフェとかどう?夏みかんだって!」
「みょうじが食べるなら、」
じゃあ注文しちゃおうーとにこにことしながら、席に置かれたタブレットを手に取る。
「陣平は、甘いの苦手で付き合ってくれないんだよねー」
「…二人で食事に出かけることあるのか?」
「え?二人はないよー萩と3人はあるかな」
あ、コーヒーも追加する?という問いに頷く。
松田の話題が出たことにむっとしながらも、二人で出かけない、という答えに打って変わって優越感が広がる。
彼女につられて自分の感情もころころと変わることが新鮮だった。まるで子供のようだと客観的に呆れることもあるが、不思議と嫌ではない。
パフェが早々に運ばれてきて、なまえは参考書やノートを机の端に丁寧にそろえた。道具を丁寧に扱うことを、どうやら彼女は無意識に身に着けているらしい。
向かい合った席で、お揃いのパフェに同時にスプーンを入れるのは、なんだかこそばゆい。
顔を上げると、なまえがじっと降谷を見つめていた。
「降谷くんってさ、入学式の総代挨拶してるときは、正直ちょっと怖そうな人って思ったんだけど、」
「……ああ」
怖そうな人、という感想に、降谷の胸がちくりと痛んだ。
「そうやってパフェ食べてるの、なんだかかわいいね」
「……男にかわいいっていうもんじゃないだろ」
「あはは、女性のかわいいは最高の誉め言葉だよ」
柔らかく彼女が笑うたびに、がんじがらめに固まった心が解けていくようだ。何度も心の中で反芻した言葉が、今なら言える気がした。
「……なまえも、かわいいよ」
なまえ。
今日こそ呼ぼうと決めていた彼女の名前は、実際に口にしてみると驚くほど落ち着かなかった。総代の挨拶ですら全く緊張しなかったのに、スプーンを握る手にぶわっと汗が吹き出す。タイミングを誤ったのではないか、突然距離を縮めたことに引かれたのではないか。柔さに浸っていた頭が、一気に色々なことを考えて熱くなっていく。
向かいの彼女はぴしりと数秒固まると、さっと目を伏せた。えっと、と小さく言いながら落ちた髪を耳にかける。
「最高の、誉め言葉だね」
顔を上げて、へへ、と赤く染まった頬で笑うなまえに、降谷は息が止まりそうだった。
「(ああ、もうどうにも誤魔化せないな、)」
こんな大事な時期に、とか、松田の大事な子なのに、とか、様々な言い訳を持っていたはずだったのに、そんなもの一瞬で吹っ飛んでしまった。
たぶん、はじめて出会ったときから。ずっと気付かないふりをしていただけで。
好きになってしまったのだ。
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