5月のはじめといえど、まだまだ冷たい空気が、朝の剣道場に張りつめている。
松田陣平はその空気を破るように、大きく欠伸をした。
真夏じゃないだけマシなのだが、剣道の訓練はどうも嫌いだ。
古臭い匂いに、年季の入った畳。重たい防具たちが、松田にはどうにも鬱陶しい。
帰りてえーというぼやきを、隣にいた諸伏景光が丁寧に拾い上げた。

「ほら、次、ゼロの試合だよ」
「あ?いつのまに決勝かよ」

男女混合全員参加の剣道試合一本勝負。
通常の授業は男女に分かれて練習をすることが多いため、珍しい試みであった。

二人の視線の先には、防具を身に着けて、畳の上で正座をする男。
特徴的である金色の髪と褐色の肌は、分厚い防具の下に隠れてはいるが、その体格やまっすぐした姿勢の良さと体格から、降谷零であることが確認できる。
その対面に、同じく背筋を伸ばし、籠手を身に着けた両手をきちんと膝にのせ、美しい佇まいで座る対戦者は、降谷と比べてかなり小柄であった。

「女の子だね」
「はーん、なるほど…」

松田が面白いものを見つけた、というようにニヤリと笑った。

「俺、ゼロが負けるに賭けるぜ」
「え?」

諸伏がきょとんとする。

「なになに、賭けてるの?」
「対戦相手、同期のみょうじだろ?班長の」

松田と諸伏の両サイドに、萩原と伊達が座る。
みょうじ、と名前を聞いて、萩原が先ほどの松田と同じ顔をした。

「じゃ、俺もみょうじが勝つほうに焼きそばパン」
「えー、じゃあオレはゼロに賭けるよ」
「あいつ俺に勝ったし、今日ノッてるからなあ」

萩原と松田が顔を見合わせてにやりとする。
二人はあの子のことよく知ってるの、と諸伏が言いかけたところで、はじめの号令が響く。決勝ともなれば、すべての視線がひとつに集まる。しん、と静まり返った空気の中、両者の剣先がお互いの出方を探る。誰も一言も発しなかった。咳払いすらおこがましいという緊張感。
降谷のつま先がほんの少し畳を擦り、重心が前に移った、刹那だった。

「一本!」

降谷の面を、剣先が固い音を立てて叩いた。一呼吸の間の出来事であった。
一切の無駄がなく、彼女が発した「面」の掛け声すらも一切のぶれのない美しい声であった。
完璧な剣道というものがあるのなら、まさに彼女が体現しているのだろう。

唖然とする諸伏と伊達に、松田がまるで自分のことのように、自慢げな顔をする。

「悪いな、アイツ、高校三年間ずっと全国1位だったんだ」


それからその日中は、トップ成績の降谷零を負かしたみょうじ なまえについて話題が持ちきりだった。
負けず嫌いが集う警察学校で、彼女の存在は周囲にやる気の火をつけたようにも思われる。

「教官はこれが狙いだったのかもね」

食堂で昼食をとりながら、諸伏が周りをみる。

「だろうな。剣道って柔道に比べて優しいと思って選択してるやつも多いから、いい刺激になったんじゃねーか?」
「たしかになー両方選択してるゼロと班長がおかしいんだよ」

昼食のミートスパゲッティをくるくると回しながら、松田が呆れた顔で言う。そして、あ、と降谷の背中を見つけて声を上げた。

「あの…ちょっといいかな」

所在なさげに眉を下げて、控えめな声で声をかけたのは、今まさに話題の中心であったみょうじ なまえであった。

「お!ヒーローのお出ましだな」
「やめて、陣平、ほんと」
「なまえちゃん、おつかれー!かっこよかったよ!」
「ありがと、萩。ちょっとだけ座ってもいい?」

そう言って、なまえは降谷の向かいの席に座った。周りの席から、なんだなんだと首が伸びるが、なまえの両サイドに座る松田と伊達のひと睨みでしゅんと大人しくなる。

「みょうじさんと松田たち、仲良いんだね」

諸伏が興味津々にきく。
なまえは、男たちの中に座ると一際小柄に見えた。防具をつけて座っている時も小さいなと思ったが、立ち上がり竹刀を構えた途端、降谷との体格差を感じさせなくなったことが印象的だった。
いま、普通に会話をする彼女は、なんてことのない平凡な女の子だ。

「俺たち、昔からの仲なんだよ」
「中高一緒だったの。陣平とは高校3年間同じクラス」
「へえ」
「なまえちゃんは中学の時から剣道は無双状態だったもんねえ」
「コイツ、高校の時のあだ名、"人斬り抜刀斎"だかんな」
「剣心じゃん」
「や、やめてよ!」
「試合と同時に相手を瞬殺するから、男子生徒からも恐れられいてててて!」

なまえが、松田の手の甲をつねった。
まじやめろよな、と噛みつく松田を意に介さないところから、かなり仲がいいことが見て取れる。普通の女の子は、松田の睨みにはびびってしまうことが多い。

「あのね、ちょっと降谷くんにお願いがあって」
「え、僕?」

ずっと黙って話を聞いていた降谷が、びっくりした様子で聞き返す。正面に座るなまえの顔を数秒見たあと、手元のハンバーグに視線を落とす。ああ、ごめん、食べながらでいいよ、となまえが笑う。

「教官から許可はもらったんだけど、剣道の授業でペアを組んで欲しくて」
「ペア?」
「うん。今日の試合も、一本勝負だから勝てたけど、持久戦になったら正直分からなかったなって。降谷くん、集中力あるし」
「そうか?正直言うと、僕は君から一本とれるイメージが全然つかめなかったよ」
「こえーからなあ」
「陣平うるさい。ねえ、よかったら練習付き合ってくれないかな?」

降谷を見るなまえの目はキラキラしていて、どうやら断られる結果を考えていないようだった。
降谷は、ちょっとだけ黙ったあと、にこりと微笑んだ。

「僕で練習相手になるか分からないが、かまわないよ」
「やった!ありがとう」
「おい、ゼロ、こいつの相手まじで大変だぞ…」
「だから陣平うるさいって。よかった、よろしくね!」

降谷からイエスをもらうことだけが目的だったようで、なまえはすぐに立ち上がると、お邪魔しました、とテーブルを離れた。姿が見えなくなってから、諸伏が、ふふ、と可笑しそうに笑う。

「…ふふ、人斬りには見えないなあ」
「俺の手つねったの見てただろ?凶暴だよアイツは」
「可愛いもんじゃん」
「いやほんと、なまえちゃん強いだけで、普通にかわいい女の子なんだよ……な、降谷ちゃん?」

萩原に話を振られた降谷が、え、と顔を上げる。
さっきからハンバーグを食べる手がまったく進んでいないことを、萩原は見抜いていた。にやにや、と笑う萩原に、不機嫌そうに眉を顰める。

「……なんだよ」
「別にー。なまえちゃんのこと、よろしくなー」
「いや、剣道の相手するだけだろ…僕も上達したいし、願ったり叶ったりだよ」

降谷ちゃんは真面目だなーと萩原が茶化す。
俺だったら、そのまま付き合っちゃうね!と笑う萩原に、松田がじとりと目を細める。

「萩原…」
「ジョーダンだよ、怖い顔すんなって陣平ちゃん」
「え?松田の彼女なのか?」
「ちっげーよ!んなわけねーだろ!」

松田は吠えると、乱暴に食器をまとめて立ち上がった。

「なんであんなに怒ってるんだ?」
「さあ?自分が練習相手になりたかったんじゃないの?」
「なるほど」

素直じゃないやつか、と諸伏が納得する。
降谷はそのやりとりを見ながら、まだハンバーグをつついていた。
さっきからずっと、今朝の光景が頭の中で繰り返し何度も何度も再生される。まるで脳が絶対に忘れてなるものかと言っているように。

済んだ朝の空気、物音ひとつしない緊張感、集中でジリジリ狭まる視界、つま先で感じる畳の感触、竹刀を持つ手の汗。

そして、面を取ったあと、冷たい空気の中で朝一番に咲く花のように、美しく微笑んだみょうじ なまえのことを。



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