周囲のざわめきが引き潮のように消えていく感覚が、なんだかとても心地よかった。
訪れた静寂の中で、降谷は自分の鼓動の音を聞きながら、竹刀を握る手にぎゅっと力を込めた。限られた視界の中で、見つめるのは彼女だけ。肩の揺れで分かる呼吸や、つま先の向き、重心の位置をじっくりと観察する。見るのは剣先ではないと、丁寧に教えてくれたのはなまえだった。

なまえは防具を身に纏うと、途端に存在が大きく見える。その立ち居振る舞いは、完璧で美しいという言葉に尽きるが、降谷はもう、その防具の下の本当の彼女を知っていた。出会う前には戻れないほどに、ただ真っ直ぐに彼女のことが好きだった。

「(おそらく、なまえと試合をするのは、これが最後だ)」

明後日に迫った卒業式。
降谷となまえは、それぞれ別々の配属が決まっていた。
ぴりついた緊張感が、指先から駆け上がる。思わず唾を飲み込み、竹刀を握りなおす。
面の下の彼女の表情が知りたくて、じっと見つめると、影っていて上手く見えないが、なんとなく彼女が笑った気がした。胸が温かくなって、持ち上がっていた肩から少し緊張が抜ける。

こんなにも彼女の一挙手一投足に依存して、卒業した途端に彼女と会えなくなるのは、どうしたって耐えられないだろう。
時間と共に彼女の中から、自分の存在が薄れていくなんて、想像もしたくなかった。

「(……伝えたい、ちゃんと)」

君に会えてよかったと。好きになって幸せだと。これからも一緒に居てほしいと。

始めの合図が響き渡る。
降谷は竹刀を握り直し、正面を見据えた。







「あ、なまえちゃん、いたいた!」

手を振る萩原に気が付いたなまえが、ぱっと顔を明るくする。儀礼用の装飾を外した装いで、小走りに駆け寄った彼女は「私も探してたの」と萩原の腕を掴んだ。

「萩、女子のみんなが、萩のことすごい探してるよ。私、探してきてって言われちゃって…」
「マジ?嬉しいねえ。でもその前に、陣平ちゃんと3人で写真撮ってよ。姉ちゃんが写真送れって」
「うん、いいよ」
「じゃあ、僕が撮るよ」

降谷は萩原から携帯を受け取ると、レンズをなまえたちに向けた。萩原を真ん中にして、三人の笑顔を写真に収める。

「(いい笑顔だ、かわいいな)」

もう一枚、と言いながら、降谷はスマホの画面をズームさせて、中央になまえだけを収めた。夏祭りの時に、営業スマイルを松田に見られたと恥ずかしがっていた彼女のことを思い出す。溢れるように笑う自然な姿もかわいいけど、よく見せようと作った笑顔だってこんなにかわいいのに、と思いながら画面を横にスワイプした。

「…えっと、降谷くん?」
「……」
「え、あ、動画にしてるでしょ!」
「あはは」

なまえが頬を染めてむっとした顔でこちらに歩いてくるのを、スマホの中央に収めたまま、降谷は思わず笑った。
彼女にスマホを奪われる前に、録画停止ボタンを押して萩原に渡す。ぱちん、と萩原がウインクをした。話が早くて助かるものだ。

「もう、降谷くんがこういうことするの、絶対陣平のせいだ」
「ああ?俺のほうがゼロより大人だろ」
「「それはない」」

降谷となまえの声が重なり、萩原が面白そうに喉を震わす。

「そういえば、伊達くんと諸伏くんは?私もみんなと撮りたいな」
「班長は彼女に電話してる。ヒロは…」
「女の子に呼ばれてたねえ」
「わあ…」

なまえが何故か頬を染めて、感嘆の声をもらす。

「諸伏くん、やっぱりモテるんだ」
「まあ、ヒロだからな」
「なんでゼロが自慢げなんだよ」
「………降谷くんは?」

3人の視線がなまえに集まり、彼女は途端に"しまった"という顔になった。降谷も居たたまれない気持ちになり、曖昧に話題を逸らそうとしたが、それを阻止するかのように萩原が降谷の肩に手を回した。

「なまえちゃん…ゼロはまあ確かにモテるわけよ」
「う、うん」
「もうすでに1週間前くらいから、何人かに告白されてる。けど、全部断ってる」
「萩原、なんで知って、」
「その理由、よーく考えてみて」

なまえの目を見てにやっと笑った萩原に、彼女はぱっと頬を赤くした。その表情につられるように降谷の顔にも熱が上る。それを見た松田が軽いため息をつくと、唇を尖らせて、なまえの額を人差し指で突いた。赤い顔のまま額を抑える彼女に、いたずらっぽく笑む。

「ま、邪魔者は退散してやるよ」
「じ、陣平…」
「ゼロ、あの夜の話、忘れてねえよな?」

松田の鋭い瞳が、真っ直ぐに降谷を捉える。"なまえを傷付けたら許さない"その目はそう語っていた。黙って頷くと、松田は満足したように口角を上げ、ひらひらと手を振った。
昔馴染みの二人からとり残されたなまえは、桜色の頬をしたまま、心許ない様子でじっと地面を見つめている。それでも、この場を去るつもりはないようだった。
じりじりと焦げるような緊張感に、降谷はたまらず口を開く。

「そういえば、この桜の木の下で、初対面の松田と殴り合ったんだ」

今はその話じゃないだろうと心の中でつっこみを入れながら、咄嗟に探し出した話題に、降谷は空を見上げた。自然と彼女の顔も上がり、落葉が目立ち始めた枝葉を眺めたあと、降谷を見て表情を緩ませた。

「その時は、陣平と仲良くなれるとは思わなかった?」
「ああ、絶対に無理だと思ったよ。僕の全部が気に入らないって言っていたからな」
「なにその理不尽なの」

くすくす、となまえが楽しそうに声をあげて笑う。
緊張が解けたような彼女の表情に、ほっとする。柔らかく目尻を下げるその顔がたまらなく愛しくて、風に靡く髪に触れたくなる。

「大変だったけど、いい半年間だったね」
「ああ」

なまえの言葉に、深く頷く。
降谷にとって、この半年間は人生で一番色々なことが詰まった時間だったかもしれない。彼女と繋いだ手が世界の中心だと思えるくらい特別で、大切なものになった。絶対に、離したくない。

「あのね、降谷くんに、話があって」

なまえが両手を胸の前でぎゅっと握り、空気を吸い込みながら、心許ない声を出した。知らない言語を話すように不安げで、迷いがある時の彼女の癖だ。降谷はそんな彼女の言葉を、取りこぼさないようにと丁寧に頷く。

「うん」
「あの、私……降谷くんにずっと言いたかったことがあるの」
「言いたかったこと?」
「私ね…その、降谷くんのことが、す」
「っ、ちょっと待ってくれ!」

言葉の続きを想像して、降谷は彼女の肩を両手でがしりと掴んだ。思ったより強く掴んでしまい、なまえが驚きで目を丸くする。言葉を飲み込んだまま固まる彼女と見つめ合っていると、だんだんと目の周りまで顔が熱くなっていくのを感じた。状況を噛み砕いて理解するにつれて、心臓が耳の奥まで上ってくるみたいだ。
頬を染めて潤んだ彼女の瞳がもう、すべてを語っている。その言葉の続きがたまらなく聞きたい。けれど、どうしても譲れなかった。

「悪いけど、それは僕に言わせて欲しい」

きょとん、とした顔のなまえが、一拍遅れてその言葉を理解したのか、さらに顔を真っ赤にした。何かを言いかけて、口を閉じて、もう一度開く。少し泣きそうな顔をしていた。

「わ、私、術科大会で降谷くんに勝ったら、言うって決めてたの!」
「僕だって、君に勝てたら、その勢いで言うつもりだった!」
「じゃあ、私が勝ったんだから、私が言ってもいいよね?」

むぅと唇を突き出したなまえが、肩に置かれた降谷の手を掴む。降谷は彼女の言い分に、うっと言葉に詰まらせた。

最後の試合で、勝ったのはなまえだった。
初試合のような一瞬での勝負ではなく、かなり拮抗した勝負ではあったが、彼女のぶれることのない美しい一本が決め手となった。
悔しかったが、それ以上に"そうでなくては"と思った。誰にも手折れない花。強くて繊細な、あの日降谷が恋に落ちた一輪の花。

彼女の言うとおり、結果として降谷は負けた。
だからといって、ここまで溜め込んだ彼女への気持ちが萎むようなはずもなく。落ち込む気持ちを持ち直して、卒業式の今日、絶対に告白をするつもりだったのに。目の前の彼女は降谷に似て、頑固で負けず嫌いで、意地っ張りだった。

「分かった。じゃあ、僕の特権を使うよ」
「特権?」
「射的で松田に勝ったご褒美の、"君になんでもお願いをきいてもらえる権利"」
「……あ!」

夏祭りの夜に勝ち取った、彼女へのお願い。いつかのために、と保留にしていたことを思い出す。なまえははっとした顔のあと、眉をしかめた。

「ずるい!」
「ずるくない」
「も、もう時効だよ」
「時効なんて決めてなかっただろ」
「だって……」

唇を尖らせるなまえにつられるように、降谷も段々と前のめりになる。お互い眉を釣り上げて睨み合うように見つめあったところで、なまえが、ふは、と笑いを漏らした。

「ふふ、なんで私たち、こんなムキになってるんだろ」
「……確かに」
「あはは、ほんと、どうしようもなく意地っ張りだなあ」

私も降谷くんも。
楽しくて仕方ないというように、溢れるように笑うなまえに、降谷はたまらず手を伸ばした。柔らかい髪に指を通し、頬を撫でる。さっと彼女の頬に桜色が差し込み、緊張の色を孕んで潤んだ瞳がこちらを向いた。どうやら、譲ってくれるつもりらしい。どこまでも優しい彼女に甘えて、降谷は彼女の綺麗な瞳を真っ直ぐに見据えた。

「なまえ、君のことが好きだ。僕と付き合って欲しい」
「うん。私も、降谷くんが好き」

迷いなくはっきりとした声で答えたなまえは、照れたように「うれしい」と言って、はにかんだ。頬に添えた降谷の手を、彼女の柔らかい手が優しく包む。ふっくらとした頬はひどく熱いのに、彼女の手は緊張なのか少しひんやりとしていた。

目の前の女の子が、自分と同じ気持ちだと言って笑ってくれる。ただそれだけのことなのに、無敵に思えるほど幸福だった。
そのまま引き寄せられるように彼女の唇にキスをしようとして、降谷ははたと動きを止めた。

「君に、謝らなければいけないことがあるんだ」

なまえがきょとんと目を丸くさせる。頬から手を離して、重なっていた彼女の手を、許しを乞うようにぎゅっと握った。きちんと白状しないと、これ以上先に進んではいけない気がしていた。

「合コンの帰り、公園で…寝てる君に、勝手にキスをした。本当に、ごめん」

しばらく硬直したあと、なまえは口元を覆い、耳まで真っ赤に染めた。もごもごと弱々しい蚊の鳴くような声で呟く。

「あれ……やっぱり、夢じゃなかったんだ」
「まさか、起きてたのか?」
「ぼんやりと…でも、酔っぱらった私の妄想だったんだと思ってた。現実のことだったら、いいのになって、ずっと…」

なまえは顔を隠すように、片方の手のひらを顔の前に広げた。「うれしかったの」と震える声に、降谷はたまらず邪魔をする手を退けて、なまえの唇に自分のそれを押し付けた。
彼女の唇は、火傷しそうなほど熱くて、初めて触れた時と同じように驚くほど柔らかかった。あの時と違ったのは、胸の内に広がるのが、ただ底なしの幸福感だけだということ。唇を離した彼女が、目をぱちぱちとさせたあと、ふにゃりと笑ってくれたこと。

愛しくて愛しくて、溢れた端から拾い集めてもとめどない。押さえつけていたものが爆発したみたいだった。飛び上がって大声で叫びたいなんて、これまで思ったこともなかったのに。
降谷は彼女の両手を引っ張って引き寄せると、小さな体を強く抱きしめた。驚くほど早い心臓の音が、自分のものなのか彼女のものなのか分からない。ぴったりと身体を合わせ、彼女の頭に頬を寄せる。

「本当に好きだよ、なまえ」
「…うん」
「初めて試合した時から、ずっと好きだ」
「え、そう、なの?」
「君と松田が仲が良いことにずっと嫉妬していたし、笑った顔がとても可愛くて、何度もそれを伝えたくて仕方なかった」
「……う」
「君の人徳があるところも尊敬しているし、しっかり者なところも好きだよ。それから、」
「ちょ、っと待って、すとっぷ、」

なまえがもぞもぞと動き、降谷の胸板を控えめに押し返した。恥ずかしさで涙が滲んだ彼女の瞳が、困ったように見つめ返してくる。そのいじらしい表情に、腹の奥を撫でられたような、ぞわりとした感覚がした。

「降谷くん、直球すぎる…」
「真っ直ぐ言わないと君には伝わらないって、誰かさんが言ってたからな」
「誰かさんって?」
「……ひみつ」

もっと、彼女を振り回したい。もっと戸惑わせて、恥ずかしがらせて、困らせたい。もちろん同じだけ喜ばせたいし、楽しませたい。自分のことだけを見て、自分だけを特別扱いしてほしい。
あの夏祭りの日、花火に吸い込まれたその幼稚な願いが、いま、叶ってしまった。
顔を真っ赤にして、自分の言葉や行動で、表情をくるくると変えるなまえが表現できないほどに愛おしい。

「(…あんまり攻めすぎるのもよくないか)」

自分だけに見せてくれる表情をもっと見たいという欲に、降谷は理性でブレーキをかける。額に軽くキスを落として身体を離すと、なまえがちょっとほっとした顔をした。それが少しだけ気に食わない。

「覚悟しておいてくれ」
「な、なにが?」
「僕がどれだけ君のことが好きか、これからたくさん伝えていくから」
「わ…私だって好きだよ!」
「いや、僕のほうが…」

お互いの眉が徐々に釣り上がっていくのを見て、示し合わせたように同時に笑いをこぼす。ふふふ、となまえが楽しそうに頬を緩めた。

「これからも一緒にいてね、降谷くん」
「番犬じゃなくて、恋人でもいいかい?」
「ふふ、もちろん」

恋人がいいな。

なまえが柔らかく微笑んで、降谷の手を握った。
明日からの日々はきっと過酷で苦しいこともあるだろうけれど、この繋いだ手がある限り、きっと乗り越えていける。降谷は確かな希望を持って、その手をしっかりと握り返した。


(end)


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