カチャン、と音を立てて、なまえの手から鍵が落ちる。
降谷はそれに気付かないふりをして、彼女の背中に回した手に力を込めた。繋いだままの手のひらも、離されないようにぎゅっと握り込める。閉じ込めた身体は想像していたよりもずっと薄く、脆そうで、温かかった。
「…………」
胸の中で、彼女が何かを言おうとして、やめた気配がした。行き場を失っていた小さな手が、降谷のシャツの腰のあたりをそっと掴む。その遠慮がちな、それでも拒絶の意思がないことを示すそれに、いじらしさで胸が張り裂けそうになる。自分の全てを彼女に捧げたいというこの気持ちを、どうしたら伝えられるのだろう。
しばらくそのまま黙って抱きしめていると、彼女がおもむろにシャツをくいっと引っ張った。
「………降谷くん、中に、入らない?」
冷静な言葉に、はっとする。ぱっと身体を離すと、急にやるせない感覚がすると同時に、また衝動に身を任せたことに、じわじわと罪悪感が広がろうとする。鍵を拾ったなまえは、顔を上げなかった。謝罪の言葉を紡ごうとしたとき、彼女が遠慮がちにシャツの裾をつまんだ。
「……少し、一緒にいてほしい」
ここ最近は雨が続いていて、おそらくこのまま秋に入っていくのだろう。そういえば蝉の声もほとんど聞かなくなったな、と降谷は落ち着かない気持ちを処理するために、無意味にもそんなことを考えた。
剣道場の扉を開けると、昼間の気温で暖められた空気がむわりと溢れかえってきた。慣れたように彼女がいくつか窓を開けて、振り向く。
「突然、ごめんね」
「いや、謝らないでくれ」
「………」
畳の上に腰を据えると、彼女が遠慮がちに隣に座り、言葉を探しているのがわかった。降谷には、その気持ちが痛いほど分かってしまう。踏み出したことのない一歩を踏み出した彼女は、ここからどちらに行けばいいのか分からないのだ。
こっちだよ、と呼びかけるように柔らかな黒髪を一度だけそっと撫でると、彷徨っていた彼女の瞳が、こちらを向いた。
「……あの……やっぱり、こんなことで…私……ごめん」
「どんなことだって構わないよ」
「………あのね、」
なまえが空気を飲み込む。
知らない言語を喋るような心許ない声で、彼女は呟いた。
「少し……怖く、なって」
いつもポジティブな言葉しか使わない彼女が、"怖い"という言葉を使うのを初めて聞いた気がした。
降谷は、すぐにその驚きを彼女に悟られてはならないと思い直し、極めて冷静な声で、ゆっくりと尋ねる。
「何が、怖いんだ?」
「……陣平たちが、爆処に行くって聞いて、急に現実なんだって思えて…卒業するのが、ちょっと怖い」
尻窄みした彼女の弱々しい声に、降谷はガツンと頭を殴られたような気がした。それは、つい昼間の話だった。あの時、自分のことばかり考えていて、彼女の表情を確かめようともしていなかった。彼女がどんな顔で話をして、どんな顔であの場から離れたのか、覚えていない。
「悪かった、気がつかなくて」
「どうして、降谷くんが謝るの?」
「君を心配させてくれ、なんてかっこつけておいて……君のこと、ちゃんと見れてなかった」
なまえが静かに目を見開いた。
それから、ゆっくりと瞬きをしたあと、柔らかい手が降谷の手を包んだ。彼女のほうから手を握るのは、初めてのことだった。
「降谷くんは、私のこと、すごくよく見てくれてるよ」
「そうありたいとは、思ってるけど」
「それに、こんな情けないこと、降谷くんにしか言えない」
なまえが眉を下げて微笑む。
落ち込んでいる彼女に気を遣わせていることに気が付いて、降谷は自分の不甲斐なさが嫌になった。頼られたいとあんなに思っていたのに、いざ弱った彼女を前にして、気の利いた言葉のひとつも見つからない。もし今立場が逆だったら、きっと彼女は自分が欲しい言葉をくれるだろうに。
「降谷くんは、警察官になることが、怖くなることはない?」
「……あるよ。僕は、自分が危険に晒される恐怖よりも、」
降谷はそこで一度言葉を切った。もしかしたら、言葉の続きは、彼女を余計に怖がらせることなのではないかと、急に心配になったのだ。しかし、続きを待つように見上げる彼女の瞳が切実で、思い切ってまた口を開く。
「大事な人が、また僕の前からいなくなるんじゃないか、って恐怖のほうが…大きいかな」
「………」
なまえが黙ったまま、握っていた手にぎゅっと力を込めた。
「……私も。大事なものを失ってから、"何も出来なかった"って後悔することが、これから先にたくさんあるんじゃないかって考えると、怖くて……友達が辞めたとき、みたいに」
「あれは、なまえのせいじゃないだろ」
「うん…でも、もしかしたら、私にもっと出来ることがあったかもしれない」
なまえが顔を伏せる。あの夜、彼女が言葉にしなかった弱さは、やはり後悔として彼女の心を責め立てていた。大丈夫だと自分自身も騙していたのだろう、それは降谷にも分かる感情だった。
"バイバイだね"とあの人に言われたとき、自分が子供でなかったら。自分に力があったら。その悔しさが、警察官への道を拓いたことに違いはない。
「卒業間近で、こんなうじうじして、警察官失格だよね」
「君は立派な警察官だよ」
「……そう、かな…」
「コンビニ強盗のとき、覚えてるか?」
なまえが顔を上げて、降谷の目を見て頷いた。
降谷と伊達が遭遇したコンビニ強盗で、なまえは事情の分からない中、あっという間に協力してくれる人を集めてきたという。
「あの時、君は短時間であれだけの仲間を集めた。それができたのは、君が普段から周りに真摯に、親切に接してるからだ。それは、君の警察官としての素質だと思うよ」
降谷は、この半年間、誰よりも彼女のことを目で追いかけていた自信があった。彼女はいつも周りに目を配り、些細なことに気が付き、困っている人を助けている。驚くほどさりげなく、それでいて的確に。彼女が周りから慕われるのは必然のことだった。
「人徳があると言うべきか…反感ばかり買う僕にはない素質だよ」
「そんなことない。降谷くんは親切だよ」
「それは……」
君だからだよ、と言いかけてやめた。
松田は二人が似ていると言ったが、自分にも他人にも厳しい降谷にとって、自分には厳しく他人には優しいなまえは、自分とは大きく違うように思えていた。そんな彼女の優しくて強いところが好きだ。でも、弱いところも好きだった。
「僕には、君の不安を解消してあげることは出来ないけど…なまえが警察官に向いてるのは、断言するよ」
「……ありがとう」
「あまり力になれなくて、すまない」
君の悩みを、全部僕が解決できたらいいんだけど。
降谷が落ち込んだのを隠すようにそう言って小さく笑うと、彼女は少し目を見開いたあと、柔らかく微笑んだ。その微笑みがまるで昼間の諸伏のように、とても大切なものを見るようなものに思えて、降谷は何故だか緊張で唾を飲み込んだ。
「降谷くんって、ほんと完璧主義だね」
「……そうかな」
「私はね、降谷くんが一緒にいてくれるだけで…それだけで、十分だよ」
控えめで柔らかな声が、秘密を打ち明けるように少しの緊張感を孕んでそっと囁く。
降谷はゆっくりと彼女を見た。
なまえは視線を斜め下に向けたまま、畳の目を指でなぞっていた。突然ぱっと顔を上げ、降谷とかちりと目が合うと、少しだけ怯んだのちにきゅっと唇を噛んだ。
「あのね、私、」
「おい!消灯時間過ぎてるぞ!」
乱暴な音と共に突然開いた扉に、降谷となまえは、同時に跳び上がるように肩を揺らした。慌てて戸口を見ると、鬼塚教官が仁王立ちをしている。彼の顰められた眉間が、降谷となまえの顔を認識して、少しだけ緩むのが分かった。
「なんだ、みょうじと降谷か。自主練もいいが、時間は守れよ」
険しい顔のままそう言うと、「戸締まりも忘れないように」と付け加えて教官はあっさりと去っていった。まだ飛び出しそうな心臓を押さえつけてなまえを見ると、彼女も同じタイミングでこちらを見上げた。
「……優等生でいて、得することもあるね」
そう言って、少し頬を染めたなまえが、いたずらっぽく笑った。
◇
9月の終わりともなれば、まだ日の高くない時間帯の暑さは、随分と和らいでいた。
古びた畳に今すぐに寝転びたい衝動を抑え、松田はどかりと胡座をかいて座った。
「前にも見た光景だね」
その隣に諸伏が腰を下ろす。だな、とつまらなさそうに背中を丸めて松田が答える。
「で、今回はどっちに賭けるよ?」
にやりと笑いながら、萩原が松田の肩に手を置いた。今しがた試合が終わった伊達も合流すると、全員の視線が自然と剣道場の中央に向いた。
決勝ではないものの、この場にいる全員が、これから始まる試合に注目していた。ぞろぞろと囲むように人たがりが出来ていく。
「僕はゼロに賭けるよ」
「お、強気だねえ」
「まー、俺は安パイでなまえかな」
「みょうじ、今日も絶好調だからな」
「ゼロだって、今回は気合入ってるんだよ」
諸伏が意味ありげに口角を上げる。
中央で静かに対峙して座していた二人が、ゆっくりと立ち上がると、示し合わせたように場内がしんと静まり返る。咳払いすらおこがましい緊張感の中で、ふたつの剣先がすっと向かい合う。
はじめ、という教官の合図が静まり返った剣道場に響き渡った。
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